第6章の概要(サマリー)

好景気の頂で幕を開けた1990年代は、始まりと終わりでは見える景色が一変した年代である。1986(昭和61)年秋ごろから高騰を続けた地価や株価は、1990(平成2)年から1991年にかけてピークに達したあとは、坂道を転げ落ちるように急落した。のちにバブル景気、バブル崩壊と呼ばれる局面である。

1989年3月に五島昇会長が死去し、跡を継いだ横田社長の下、当社は「東急アクションプラン21」を1990年4月に発表した。6つの重点事業からなる、投資総額2兆円の計画であった。だが景気の暗転により、先行着手した投資の多くは速やかな回収が見込めないまま、膨大な有利子負債となって経営に重くのしかかり、当社をはじめとする東急グループの行方に暗雲が垂れ込めることとなる。

第6章で対象とする1990年から1997年までの主だった事業の動きについて記しておく。

厳しさを増していく経営環境のなかで、当社の業績を底堅く支えたのは鉄軌道事業である。数次の運賃改定で足もとの収支改善が図られ、輸送力増強に向けた取り組みを強化した。1988年に着手した、目蒲線を活用した東横線の複々線化を着々と進めると共に、混雑率が上昇の一途をたどっていた田園都市線・新玉川線の輸送力増強についても策を巡らせ、大井町線を二子玉川園以西に延伸することで田園都市線に複々線の機能を持たせ、都心への経路を目蒲線などに分散させることで当社の輸送力を路線全体に平準化する解決策を見出した。みなとみらい線と東横線の相互直通運転も計画され、当社鉄軌道事業は今日に続く骨格を形成することとなる。

自動車事業は、黒字化に向けて分社化を決定。航空事業の日本エアシステムは、国内・国際線における規制緩和に伴う競争激化や三大空港プロジェクトの遅れが逆風となったが、新たに広州線を開業して黒字化に希望をつないだ。

開発事業では多摩田園都市の宅地造成がほぼ一巡したことから、二次開発という新たな段階へ歩を進めた。駅周辺の開発が立ち遅れていた青葉台では、当社主導により商業・文化施設を整備。さらに、社有地活用の有効な手立てとして、事業用借地権事業を進めることで地域内に多様な魅力を創出し、地元地権者が所有する土地の有効活用を促す体制を強化するなどして、街の品位を保ちながら自律的な発展や成熟化をめざした。多摩田園都市以外では、神奈川県央・湘南地域や福岡県内の土地区画整理事業がおおむね終盤となった。

また湾岸部でのウォーターフロント開発など都市機能の再整備が各地で活発になるなか、当社は本拠地・渋谷の開発に重点を置いて、当社本社敷地の高度利用を図る「渋谷・桜丘町プロジェクト」を推進、さらに「渋谷道玄坂一丁目開発(TKTプロジェクト)」にも参画してホテル整備を中心とした渋谷の活性化に着手した。東横線とみなとみらい21線の相互直通運転計画を契機に、横浜みなとみらい21地区の開発にもグループを挙げて取り組んだ。また地元自治体が推進する、三軒茶屋と八王子の市街地再開発事業に参画、1980年代から地元との調整を続けてきた二子玉川再開発の事業着手も間近となった。このほか世田谷ビジネススクエアなどでオフィス賃貸事業の拡充を図った。今かえりみると、この第6章の時代はそれまでの多摩田園都市などの土地売却益依存から、自社所有地や都心などでの土地活用収益へと、ビジネスモデルの転換が起き始めた時代であり、当社開発部門にとっての大きな節目であった。

リゾート事業は、国を挙げたリゾート開発ブームが巻き起こるなかで、当社は宮古島に加えて裏磐梯でも複合リゾートの開発に着手、また、ゴルフ場の開発・開業も加速した。だがバブル崩壊による景気の低迷が冷や水となって、リゾート事業は急速に滞っていく。東急不動産や東急建設、伊豆急行などグループ各社でも、数々の複合リゾートやゴルフ場などの単体リゾート施設の開発を進めてきたが、同様の事情から計画の中止や規模縮小が相次いだ。

個人消費低迷のなかにあっても国民の関心事として「観光」は上位にあったが、いわゆる「安・近・短」旅行が好まれて旅行単価が減少し、企業の経費節減の一環で出張需要も低迷したことから、当社や東急ホテルチェーンによる国内ホテル事業は利益確保に窮し、既存ホテル網の再編成を急いだ。これに加えて東急観光は、個人旅行の取り扱いやパック旅行の商品開発で他社の後塵を拝していたことも痛手となった。

1990年代に大きな方向転換を余儀なくされたのは海外事業である。とくに施設所有を前提としていた海外ホテルは投資回収に長期を要していたため、事業再構築の対象となり、開業して間もない北米西海岸やニュージーランドのホテル、1970年代から所有していたバヌアツ共和国のホテルを売却。ハワイのマウナ ラニ リゾートはコンドミニアムの分譲などの不動産開発事業から撤退して、ホテルとゴルフ場の運営に特化することで存続を図った。また、主に米国と東南アジアに分かれて展開し、共同運営を開始したエメラルド リゾーツ アンド ホテルズと東急ホテルズ・インターナショナルの二つの海外ホテルチェーンは、パン パシフィック ホテルズ アンド リゾーツ社に一本化し、経済発展著しい東南アジアでの運営受託拡大に活路を見出したことは、第5章でも触れた。海外事業は全般的に「所有から運営へ」と舵を切ることとなった。

バブル崩壊は当社および東急グループの経営に深刻な影響をもたらした。とくに当社の有利子負債は1994年度に8000億円を超える規模に膨らみ、早急に修復を図るべき経営課題となった。

こうしたなか1995年4月に、清水仁社長が就任し、1990年代初頭から進めてきた事業拡大路線を軌道修正すると共に、当社の財務体質強化に乗り出した。これと同時に懸念が広がってきたのがグループ各社の業績低迷である。当社単体の当期利益は有価証券の売却などで補いながら、各年度60億円前後を維持していたが、グループ会社の当期利益は当社単体利益を大きく下回る状態となり、グループ各社の経営実態にも危機的な状況が見え始めた。

21世紀の到来を目前にして1997年9月当社は東急グループの新たなグループスローガン「美しい時代へ-東急グループ」を制定すると共に、グループ経営理念に「自立と共創」を掲げた。それは、金融制度改革に伴って会計基準が改められ、連結会計が基本となる時代が間近に迫っていたことと無縁ではなかった。

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