第6章 第5節 第1項 本格化する「二次開発」

6-5-1-1 良好な郊外住宅地の形成に向けて

川崎市、横浜市、町田市、大和市という4つの行政区域で地元と一体となった土地区画整理事業を進め、多摩田園都市は1990(平成2)年時点で約44万人が住む一大都市へと成長を遂げた。とくに建築協定の締結により緑豊かな住環境づくりに努め、街路樹や駅前広場、緑地公園の整備も含めて戦後の郊外都市づくりの先行モデルを示すこともできた。1988(昭和63)年の日本建築学会賞、1989年の緑の都市賞・内閣総理大臣賞など、公的機関からも高い評価を得た。

多摩田園都市空撮(1990年)
図6-5-1 多摩田園都市地図
出典:「会社概要1999-2000」

土地区画整理事業が本格化した1960年代以降、当社は宅地を開発し、土地・建物を販売する開発事業、住民の暮らしの足となる鉄道およびバスを運行する交通事業が大きく成長したが、それのみならず、一部の地区では東急不動産が中心となって土地区画整理事業を行い、東急建設や傘下会社が土木工事や建築工事を行い、そして流通・飲食店舗やスポーツ施設など生活関連施設ではおのおのの関連会社が事業を展開し、東急グループ全体の成長の源泉ともなってきた。

土地区画整理事業が終盤にさしかかってきたことから、第5章でも触れた全体計画の見直しに着手し、1988年に「多摩田園都市21プラン」を発表した。このプランで自立性の高い多機能都市をめざす方向性を描いた。そして1990年4月の業務組織改正で、従来の田園都市、ビル、生活情報の各事業部を統合して都市開発本部を設置し、同本部企画部が中心となって二次開発の総合戦略策定に取り組むこととなった。

街づくりにおいては、地域の発展段階に応じた開発のフェーズとして「一次開発」「二次開発」という表現がしばしば用いられる。狭義では宅地開発と通勤通学のアクセス確保までを一次開発とする解釈もあるが、多摩田園都市では住民が生活するのに必要な基盤整備を行い、一定の人口定着が見られた状態までを一次開発と捉えており、二次開発は、時代の変化を見通しながら、より豊かな生活が十分に楽しめる質の高い街づくりをめざすものとし、基本コンセプトを「つねにワンランク上の街づくり」とした。

1991年6月には都市開発本部企画部内に二次開発実行計画策定プロジェクトチームが発足。基本コンセプトの具体化に向けて、東急不動産、東急建設、東急百貨店、東急ストア、東急エージェンシー、さらには外部経営コンサルタントの参加を得て、計画策定に取り組んだ。

表6-5-1 二次開発プロジェクトチームの活動内容
注:「東急グループサミット」資料(1992年5月)をもとに作成

6-5-1-2 土地売却益中心から土地活用収益へのビジネスモデル転換

上記の二次開発実行計画策定プロジェクトチームでは、多摩田園都市の現況を改めて包括的に把握するべく、地域との関連が深いグループ会社15社の事業展開にかかわる調査、住民や地元地権者へのインタビューなどを行うと共に、欧米のニュータウンプロジェクト視察などを行い、実行計画の検討討議を進めた。そして1年間にわたる活動を、1992(平成4)年に「多摩田園都市二次開発の実施体制の確立について」と題する報告書にまとめた。

同報告書によれば、多摩田園都市の人口は約46万人、地域の市場規模は経済市場(交通、流通、飲食、レジャー・文化、その他生活関連など)と開発市場(土地・建物販売、建設など)を合わせて年間7000億円を超えており、東急グループはそれぞれ23%、24%のシェアを占めていることが明らかとなった。

土地区画整理事業の進捗についても定量的な把握が行われ、事業完了および実施中の区域が開発対象地域の97%となっており、残り3%の内半分強が市街化調整区域であることから、土地区画整理事業がほぼ終了段階に入ったことが確認された。また開発対象地域における土地所有状況については、開発当初と1990年代初頭の比較で、当社所有地(一時的に所有した土地を含む)は35%から11%(面積250ha)に減少し、新しい住民の所有地が28%、地元地権者が利用している土地は32%を占めており、全体の29%(面積700ha)は、地元地権者が所有しているが、未利用地であることが報告された。

図6-5-2 土地区画整理区域内の土地保有状況の推移
注1:報告書「多摩田園都市二次開発の実施体制の確立について」をもとに作成
注2:「現在」は1990年代初頭を指す

こうした現況を踏まえ、多摩田園都市の二次開発において優先順位の高い課題としたのが、ビジネスモデルの転換である。

これまでは土地や戸建て住宅、分譲マンションの販売を主たる収益源としてきたが、土地区画整理事業が収束に向かい、経営資源である社有地が次第に少なくなり、これまでの田園都市線の延伸と土地区画整理事業で道路や電気・水道・ガスといった生活インフラを整備し、それで得た土地を宅地や住宅として売ることでの収益(ストック)を重視した従来型のビジネスモデルが限界に近づいていることは明らかであった。

このため同報告書では、地域の経済・市場規模の拡大によって生まれる地域・当社の継続的な収益(フロー)の向上を図りながら、そこで発生するさまざまなニーズに応えることで、東急グループの収益源を増やしていく方向性が示された。土地販売型から資産活用型への転換であり、社内では「ストックからフローへの転換」と呼称した。

地域の経済市場が拡大していけば、東急グループのシェアが現状維持であっても、収益拡大が望めるとの考えによるもので、多摩田園都市の開発に「都市経営」の考え方を持ち込む格好となった。

6-5-1-3 不動産活用センターによるコンサルティングを強化

同報告書の内容は1992(平成4)年5月に開かれた東急グループサミットで了承され、具体化に向けて動き出すこととなったが、ここで焦点となったのが地元地権者の保有する未利用地約700haへの対応と、当社社有地250haの有効活用方法である。とくに前者については早急な具体化が求められた。

というのも、1991年の税制改正に伴う土地税制の見直しにより、市街化区域内にある農地の内、生産緑地指定を受けていない土地に対しては宅地並みの課税が厳格に実施されることとなり、相続税の納税猶予に関する特例も撤廃されることとなったからである。かねてから地元地権者未利用地については、段階的な売却で土地が細分化され資産価値が低下することが懸念されており、税制改正はその契機になりかねない。

当社では、地元地権者の相談窓口として1984(昭和59)年10月に多摩田園都市部プロジェクトチーム(コンサルティングチーム)を発足し、たまプラーザ駅前の事務所(当初は山内都市建設事務所と共同使用)を中心に業務を推進していた。第3章で述べたが、古くから「サービスセンター」を鷺沼(1965年開設)と青葉台(1966年開設)に開設し、多摩田園都市の土地や住宅の購入に関心を持って現地を訪れる人々の相談窓口として、さらに転入者の生活にまつわるさまざまな相談窓口として機能していたが、1984年以降は未利用地を保有する地元地権者のコンサルティング窓口としての役割も果たすようになった。

同プロジェクトチームは、都市計画法や建築基準法などの法令、金融や税制面の専門知識を生かし、土地の立地条件や地権者の意向を踏まえた最適な土地活用の提案を強化した。1990年4月には組織名称をプロジェクトチームから不動産活用センターに改称。二次開発における土地有効活用の促進という役割があらためて明確になったことから、たまプラーザ駅東側に事務所を新設し、鷺沼および青葉台の両サービスセンターを傘下に組み入れて、積極的に地元地権者へのコンサルティング業務を展開した。

不動産活用センターは、不動産活用のスキームとして事業受託方式、共同事業方式、企画・管理方式、等価交換方式を用意し、これらを総称してTOPS(Tokyu Original Planning System)とネーミング。1994年には10周年を機に「土地が動く、育つ 東急の土地活用」「土地を活かし街の未来を想像する」をキャッチフレーズとし、TOPSのロゴマークを作成して、事務所のサインなどのリニューアルを図った。

たまプラーザの不動産活用センター(1994年)

またプロジェクトチーム時代の1988年5月に、地元地権者と当社ならびに東急グループ各社との信頼関係醸成を目的に、「東急グローイングクラブ」を発足し、土地有効活用のための勉強会や講演会の開催、情報誌『THE GROWING』の発刊などを行った。地元地権者の世代交代も進むなか、多摩田園都市の二次開発においては地元地権者側との良好な関係が不可欠であり、同クラブは地元と一体となった街づくりに大きな役割を果たしてきた。『THE GROWING』は季刊で発行を続けており、2023(令和5)年3月現在138号まで発行している。

情報誌『THE GROWING』創刊号(1988年)

6-5-1-4 事業用借地権事業で社有地の有効活用を図る

多摩田園都市の二次開発で、もう一つの懸案が、前述した残り少なくなった社有地の活用法である。社有地は多摩田園都市のさらなる地域経済の拡大による当社の継続的な収益向上に資する活用が望まれた。

当社は1995(平成7)年7月の組織改正で都市開発事業部に営業部を設けて、事業開発課と不動産活用センターの2課体制で、土地活用事業の業容拡大を図ることとした。そして事業開発課が着目したのが、1992年の借地借家法施行で導入された「事業用借地権」である。

表6-5-2 1992年法改正による定期借地権の概要
出典:『THE GROWING』1997年冬号
注:その後の法改正により、23条と24条が入れ替わり、事業用借地権の存続期間は10年以上50年未満となっている

これは事業用途に限られた定期借地権で、借地期間は10年以上20年以下に限定されており、契約の更新はなく、借地期間終了時に借地人はその土地を更地にして返還しなければならない、と定めた制度である。借地に店舗などを建てる費用は借地人が負担するため、地権者側から見ると初期投資をせずに安定した地代収入を得ることができ、さらに更地で返還されるため、返還後に新たな事業展開を図ることができるというメリットもあった。

当社は社有地の活用として、この制度を活用した「事業用借地権事業」を実施することとし、東急グループ以外のテナント誘致に着手した。第1弾として、月極駐車場としていた横浜市青葉区美しが丘の社有地を二分割して、1996年10月に「神戸屋レストラン」が、翌11月にはアウトドアショップの「WILD-1」がオープンした。これに続いて1997年には青葉区内や町田市鶴間の社有地にパソコンショップや家具販売店、ベーカリーレストランなどがオープンし、1997年時点で合計8店となった。8店の内、東急グループの会社に借地したのは1店(東急ストア)のみであった。

  • コンプマートあざみ野(1997年)
  • ニトリ南町田店(1998年)

こうした社有地活用に踏み出したのは、商業利用ができる社有地に、物販、飲食などの多様な用途を呼び込むことによって、多摩田園都市生活者の利便性を向上させ、より豊かな暮らしを実現すると共に、不動産販売収入のウエイトが高い当社の収益構造を変えることをめざしていたからである。不動産賃貸収入を拡大し、土地販売型から資産活用型(土地を保有しながら長期安定的に不動産賃貸収入を得る形態)への転換を図る狙いがあった。

多摩田園都市の開発当初は、人口定着の途上とあって、出店を打診しても断られ、自前で東急グループが経営・運営するスーパーやフランチャイズのファストフード店などを出店せざるを得なかったという経緯がある。アンケート調査などによると、「オール東急漬け」という生活環境にマイナスイメージを持つ住民もいた。しかし事業用定期借地権によって、多様な企業が土地取得を伴わず低コストで多摩田園都市に進出できることは住民にとっても選択肢が増えるなどのメリットになる。

この事業用借地権事業は、前述のように社有地の有効活用を念頭に始めたものだが、もう一つには、当社社有地の活用を先行モデルとして示し、地元地権者の未利用地活用方法の一つとして提案していくことも狙っていた。具体的には当社が事業用定期借地権で地権者より賃借し、テナントに転貸するという形での展開で、この第一弾として1997年に「日産プリンス神奈川あざみ野営業所」がオープンした。

多摩田園都市の高品質なイメージを保ちながら、都市経営による安定収入を得るべく、さまざまな取り組みが本格化した1990年代であった。

6-5-1-5 青葉台東急百貨店とフィリアホールの誕生

多摩田園都市の第3ブロックの中心地となる青葉台駅周辺は、いち早く土地区画整理事業が進捗し、人口定着も進んできた地域だが、大規模商業施設の出店など生活利便施設の整備の面では後れをとってきた。大規模商業施設だけを例にとれば、第1ブロックには1978(昭和53)年に「さぎ沼とうきゅう」、第2ブロックには1982年に「たまプラーザ東急ショッピングセンター」、第4ブロックには1985年に「中央林間とうきゅう」がオープンし、各ブロックの拠点としての役割を果たしていた。しかし青葉台駅周辺には東急百貨店子会社の西南東急百貨店が運営する東急バラエティストアはあったものの、地元からは百貨店レベルの商業施設誘致が強く望まれていた。

1983年の多摩田園都市30周年記念行事で五島昇社長(当時)が「記念事業として多摩田園都市に文化施設をつくりたい」と構想を披露したことから、青葉台駅周辺の住民からは、「青葉台に文化施設を」との声が上がっていた。一方、多摩田園都市の商業施設出店戦略(1980年)では、たまプラーザを中心拠点に鷺沼、青葉台、中央林間の三つは地域拠点に位置づけ、青葉台では「青葉台総合計画」として商業と文化施設が併存する施設整備検討を行っていたものの、収支上の課題などがあり計画が進まなかった。他方、1985年には横浜市が市政100周年記念事業として各区ごとに1つの区民文化センターを整備する計画を立て、当社に用地の譲渡や賃貸について申し入れがあった。

当社では商業施設としてはかねてから旧青葉台サービスセンターの跡地を利用し、ここに西南東急百貨店をテナントとする大型商業ビルを建設する構想を温めており、「東急アクションプラン21」の事業戦略の一つとして掲げられた「多摩田園都市の二次開発」の先駆的な例として、この青葉台総合計画を推進することとした。

横浜市からの申し入れを踏まえて協議を進めた結果、建物内に文化施設を設けて西南東急百貨店が商業施設と共に運営し、横浜市は文化施設を利用する代わりに助成を行うことで合意。1989(平成元)年3月に基本協定を締結し、東急青葉台ビルの建設計画が具体化に向けて動き出した。文化施設は500席程度のクラシック専門ホールとし、日ごろの練習やクラブ活動にも利用できるリハーサル室や練習室なども併設することとした。

また同時期には銀行法の見直しにより、銀行が建物の4分の3まで賃貸することが認められたが、これに伴って青葉台駅西側の青葉台YSビル(横浜銀行と地元地権者の共同ビル)を当社が賃借し、東急青葉台ビルと一体利用することで商業施設の面積を確保できる見通しが生まれたため、大規模店舗法に基づく出店計画概要書に青葉台YSビルを含めて提出し直し、地元商店街との商業調整を進めた。東急青葉台ビルの着工は1990年12月のことであった。

この東急青葉台ビルの建設は、青葉台総合計画の核となり、周辺ではこのほか、青葉台駅改良工事(駅施設と駅前広場の改良、駅ビルの建設)、駐車場ビルの建設、高架下駐車場の整備、駅ビルと青葉台YSビル、東急青葉台ビルを結ぶペデストリアンデッキの整備などを進めた。なかでも青葉台駅改良工事は、駅を挟んで2階建て(一部4階建て)の北棟と7階建ての南棟の建設を伴う大規模な駅ビル建設工事となった。

図6-5-3 青葉台駅周辺の施設整備図
出典:『清和』1993年5月号

一連の工事は、駅施設と駅前広場が1991年4月、駅ビルが1992年4月に竣工するなど順次完成を迎え、最後に東急青葉台ビルが1993年4月に竣工。地下1階から地上4階までを青葉台東急百貨店、地上5階をフィリアホールと横浜市緑区民文化センターとした。駅ビルと東急青葉台ビルは当社が西南東急百貨店に一括賃貸し、駅ビルは「リクレ」と命名された。

図6-5-4 東急青葉台ビル、青葉台YSビルフロア構成
出典:『清和』1993年5月号

なお、青葉台駅周辺の商業施設は2000年に大幅なリニューアルを行い、現在の青葉台東急スクエアとなるが、これについては第7章で触れることとする。

  • 東急青葉台ビル、青葉台東急百貨店、フィリアホール開業(1993年)
  • フィリアホール

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