第3章 第2節 第1項 既設鉄道の改善と都心乗り入れ

3-2-1-1都市交通審議会の設置

東京は戦後、人口の大幅な増加により、住宅地域の郊外への広がりが顕著となり、その結果、郊外と国鉄山手線内側の都心部との間に通勤時間帯の輸送需要が急増し、郊外の民鉄沿線から都心部に向かう人々は、池袋や新宿、渋谷、品川などのターミナル駅から、まだ路線が少なかった地下鉄(1954<昭和29>年末時点で営団地下鉄銀座線と同丸ノ内線の池袋~御茶ノ水間のみ)や国鉄、都電、バスを利用する必要があった。そのため、これらのターミナル駅では、乗り換え時に激しい混雑が発生していた。郊外民鉄各社は車両の大型化や編成の長大化などで輸送力向上に努めてきたものの、これは都心部への交通機関との結節点までの輸送力増強にすぎない。国鉄は、急激な需要増加に対応しきれなかったため車内の混雑が尋常ではなくなっていた。営団地下鉄は、政府、東京都、民鉄各社という公民共同出資していた当時の資本構成の問題から、新線建設の資金調達が容易ではなかった。また都電やバスは道路渋滞の影響で正常運行が困難な状況にあった。

このため郊外民鉄各社は、戦後復興の時期に都心への直通路線を申請していた。当社が申請していたのは、武蔵電気鉄道や目黒蒲田電鉄時代から継承してきた5路線(免許申請4路線:中目黒〜東京、目黒〜広尾、渋谷〜新宿、五反田〜品川、工事施行認可申請1路線:蒲田〜大崎)であった。また営団地下鉄の都営化を指向していた東京都は、営団地下鉄とは別に都営地下鉄の建設に踏み切る方針に転じた。

表3-2-1 都心延伸に向けた当社の申請路線
出典:『東京急行電鉄50年史』
表3-2-2 終戦後の地下鉄免許出願
出典:『営団地下鉄五十年史』 帝都高速度交通営団

多数の鉄道事業者がそれぞれに都心部の交通整備を目論むなか、運輸省は1955(昭和30)年、国や東京都、営団地下鉄を含む鉄道事業者それぞれの意向を踏まえつつ調整を図るべく、都市交通審議会を設置した。同審議会が長期的かつ大局的な視野に立って、都市部の交通体系について答申を行うこととなり、翌1956年に「東京及びその周辺における都市交通に関する第一次答申」を運輸省に提出。これ以降、1972年に運輸政策審議会へ継承されるまでの間に、第15号答申までが提出され、都市部の交通体系のあるべき姿を示すマスタープランの役割を果たした。

3-2-1-2 営団地下鉄日比谷線の完成と3者相互乗り入れ

都市交通審議会による第1号答申では、東京都の地下高速鉄道網として、11方面から都心を貫通する5路線(1号線〜5号線)を必要とする内容が盛り込まれた。このなかで特徴的だったのは、地下高速鉄道網の整備に営団地下鉄以外の主体(東京都交通局)による建設が提案され、これにより東京都が地下鉄1号線(浅草線)の免許を営団地下鉄から譲受し参入することになったこと、もう一つは、起点終点を郊外民鉄各線と接続できるようにし、地下鉄との相互乗り入れ(相互直通運転)が明示的に答申されたことである。 この答申を受けて運輸省は1957(昭和32)年6月、新設路線の告示に先立って営団地下鉄や関係民鉄各社を招いて口頭での指示を行った。5路線の内地下鉄2号線(北千住〜中目黒)については、営団地下鉄と東武鉄道、当社(東横線)の3者が相互乗り入れを行うこと、その運転方法については3者間で協定を行うことを指示した。

この相互乗り入れにあたっては、当社が従前から申請していた、前述の5路線の免許申請や工事施行認可申請の取り下げが条件づけられた。これにより武蔵電気鉄道、目黒蒲田電鉄時代から継承してきた自社路線による都心乗り入れ計画は消滅した。

その後、営団地下鉄は、地下鉄2号線の内すでに免許を有している南千住〜恵比寿間については起業目論見書変更申請を行い、さらに東武鉄道と当社がそれぞれ免許申請を取り下げた区間の一部となる北千住〜南千住間および恵比寿〜中目黒間については新たに免許申請を行い、1958年3月までにそれぞれ認可を受けた。これ以降、営団地下鉄や東京都交通局、郊外民鉄各社が連携した相互直通運転という手法が、都市圏の高速鉄道網の整備に大きく寄与した。

図3-2-1 東京都市計画高速鉄道網
都市交通審議会第1号答申に基づいて決定された5路線の地下鉄
注:『東京急行電鉄50年史』をもとに作成
表3-2-3 改定都市計画路線 (1957年6月17日 建設省告示第835号)
出典:『東京急行電鉄50年史』

地下鉄2号線は、営団地下鉄により1959年5月に着工、1960年10月に日比谷線と呼称することが決定した。当社でも相互直通運転に備えて、1963年2月、日比谷線と接続する中目黒駅と、直通列車の折り返し駅となる日吉駅の改良工事に着手した。中目黒駅では日比谷線の引上線を設ける必要があるため、在来駅の前後700mにわたる高架橋の増設が、主要工事であった。この結果、これまで2面2線の急行通過駅にすぎなかった中目黒駅は、中央に日比谷線用2線、両側に東横線用2線の2面4線となり、ホームが拡幅・延長されたほか、横浜方向に日比谷線の引上線3線が設けられた。これらは、工期わずか1年5か月という突貫工事によって完成した。

1963年5月、2面2線時代の中目黒駅 ※奥が渋谷方面まだ高架下の柱の工事が始まったころ
  • 図3-2-2 新たな中目黒駅の断面図
    出典:『東京急行電鉄50年史』
  • 工事中の中目黒駅(1964年2月)

日比谷線は1964年7月22日、恵比寿~中目黒間が開業、先に開業していた区間と合わせ中目黒~霞ケ関間の運転が開始された。そして、同年8月29日、日比谷線の全線開通に合わせ3社相互乗り入れが開始され、中目黒駅は東横線の急行停車駅となった。

日比谷線の接続と相互直通運転を告知するポスター

同年11月に3社共同で交通量調査を行ったところ、中目黒駅の1日の乗降人数は相互乗り入れ開始前の2万6494人(1962年調査)から、11万160人(内、日比谷線の乗り換え7万18人)へと大幅に増加した。東横線沿線から渋谷を経ずに、中目黒から直接都心へ乗り入れる乗客が増えたことから、渋谷駅の乗降客数は32万307人(1962年調査)から24万8227人(1964年9月調査)に、約7万2000人減少した。ちょうど渋谷再開発の議論が進む渦中のことであり、渋谷の活性化が急務となった。

日比谷線との相互直通運転開始の祝賀電車(中目黒駅)

なお、都市交通審議会による第1号答申で、地下鉄3号線(銀座線)を現在の池尻大橋駅付近まで延伸し、相互直通運転することが提案されていた新玉川線は、建設が大幅に遅れることとなった。詳細は後述する。

さらに1962年の第6号答申による追加5路線の内、地下鉄6号線(のちの都営三田線)について当社は、池上線ないしは田園都市線(大井町線から1963年10月11日に改称)との相互直通とすることを要望し、このための新路線として1964年4月に桐ヶ谷〜泉岳寺間の地方鉄道敷設免許を申請し、12月に免許を取得した。しかしその後、1968年の第10号答申で地下鉄11号線(のちの半蔵門線)が提案されたため、田園都市線の都心直通としては渋谷から半蔵門線への乗り入れが沿線住民の利便に寄与すると判断し、同年9月に免許を返納した。

3-2-1-3 輸送力増強計画と運賃改定

当社は、1957(昭和32)年度を初年度とする輸送力増強5か年計画を進めていたが、大手民鉄各社と足並みを揃えた長期的な計画の下に進めることになり、1961年度を初年度とする第一次3か年計画、1964年度を初年度とする第二次3か年計画を策定した。資料の残っている1965年度の東横線(祐天寺→中目黒間)の混雑率(最混雑区間における1時間あたりの平均混雑率)は230%に達しており、緊急に輸送力の増強を図る必要があったが、これには鉄道運賃の改定を切り離しては進められなかった。

鉄道運賃改定は国の認可を得なければならないが、国は電気・ガス・水道など公共料金の物価抑制策と同様の姿勢を堅持しており、値上げの認可は容易ではなかった。

1960年代に入ってからは1962年11月に運賃改定がなされたものの、当社の値上げ率は東西大手民鉄14社のなかで最低で、鉄軌道経営を圧迫する要因となっていた。

表3-2-4 1962年11月運賃改定での各社の値上げ率
出典:『清和』1962年12月号

もともと関東民鉄大手のなかで当社は1kmあたりの運賃(賃率)が最も低い。これは開発事業による沿線人口の増加で輸送効率が高いことや鉄道経営の合理化の成果でもあった。しかし、混雑緩和に向けた輸送力増強を図るには膨大な資金を投入するため、再度の運賃改定によって、収支を維持することが必須であった。

このため1965年1月に大手民鉄各社と共に運賃改定の認可申請書を提出、同年9月に運輸審議会による公聴会が開かれた。一般公述人、傍聴者から罵声や怒号が飛び交うなど騒然とした公聴会となったが、五島昇社長は当社の鉄軌道事業の窮状を訴えると共に、今後の輸送力増強計画を説明し、これに伴う設備投資で発生する赤字幅を最小限度に補填するための運賃是正であることを強調。翌1966年1月、運輸審議会により東西大手14社平均で20.2%の値上げ改定が妥当であるとの答申があり、運輸大臣が答申案通りで認可し、改定がなされた。当社の値上げ幅は14.3%にとどまったが、おおむね申請通りの内容であった。資金面での後ろ盾を得たことで、輸送力増強のための施策が本格的に実施された。後述の田園都市線延長区間(溝の口~長津田間)の建設工事をはじめ、編成長大化に備えたホームの延伸工事と車両新造により、東横線では6両編成、目蒲線では4両編成の運用が始まったほか、田園都市線(大井町~溝の口間)では全編成4両運転となった。池上線も含めた全線で運転間隔の短縮も行われた。軌道の強化としては、重量レールの使用、強度と耐久性に優れたコンクリート製まくら木(PC枕木)の本格導入を行った。また、使用電力量の増加に合わせて、変電所を増設した。田園都市線延長区間開業に合わせた市が尾変電所の新設も含めて、1960年代に3変電所を加えて12変電所とし、鉄道線の電気設備容量を62.7%増強。併せて遠隔制御が可能な新型機器を積極的に採用して、変電所の無人化を進めた。

車両の新造では、1960年に回生ブレーキを採用したセミステンレスカー(外板のみステンレスで骨組は普通鋼)の6000系が東横線に導入された。この6000系では1台車1モーター方式などの新方式にも取り組んだほか、当社で初めての両開きの客室扉を採用した。

新方式を多く採用した6000系電車

さらに大きな出来事としては、1962年に国内初となるオールステンレスカー7000系の導入を開始したことである。この7000系は、東急車輛製造が米国メーカーのバッド社からステンレス溶接に関する技術供与を受けて製造したものであり、車体・台車の軽量化による省エネ性やディスクブレーキの採用などによるメンテナンス性のよさから期待通りの成果を上げて、1966年までに合計134両を就役させ、5000系と共に当社の主力車両となった。現在国内で新規に製造される鉄道車両の大半がオールステンレス車両であるが、その原型となったともいえる車両である。

日本初のオールステンレスカー7000系電車

7000系は日比谷線乗り入れ用に全電動客車方式としていたが、1967年には電動客車と制御客車を半々の編成としてコストダウンを図った7200系(電動客車)、7500系(制御客車)を開発し、当時の田園都市線に投入した。7200系ではステンレス鋼よりもさらに軽量化が可能なアルミ車両の試作も行った。

7200-7500系電車(写真は東横線に転属後のもの)

なお東急車輛製造は、1964年に特殊自動車メーカーである東邦特殊自動車工業を合併、さらに1968年には国鉄車両の受注を中心とする関西地盤の車両メーカーの帝國車輛工業を合併して、1968年度の売上高で業界4位の大手車両メーカーとなった。鉄道車両と自動車車両は同社の両輪となり、さらに次の時代にはコンテナ製造も加わることとなる。

3-2-1-4 積極的に進めた立体交差化

輸送力増強のための各種施策のなかでも、当社が早期から積極的に推進したのは立体交差化である。

鉄道と道路が平面交差する踏切道は、モータリゼーションの進展や列車の増発・高速化に伴い、全国的に事故件数が急増していた。その件数は1949(昭和24)年度の1500件程度から、1959年度は5000件を超えた。このため、国は対策として、1961年に踏切道改良促進法を公布し、交通量の多い踏切道、環境不良の踏切道を指定して改良を求めていた。改良策のなかでも立体交差化による踏切道そのものの解消は、抜本的な対策であった。

路線を高架化あるいは地下化する立体交差化による踏切の解消は、踏切事故をなくすだけでなく、道路交通への影響がなくなるので、列車本数の増加、列車速度の向上が可能となる。また、踏切遮断による自動車交通の渋滞の解消、さらに立体交差化後には、地上の線路で分断されていた地域の発展が進むという大きなメリットもあった。

当社が立体交差化に取り組んだ歴史は古いが、戦後では第2章でも記した荏原町〜戸越公園間の工事(中延駅付近立体交差工事、工事延長1020m)が最初となり、その後の主な工事として、都立大学駅付近、綱島駅付近、旗の台駅付近、高津〜溝ノ口間、田園調布駅付近、上野毛〜高津間、洗足駅付近、長原駅付近が続いた。なかでも1966年着工の中目黒〜都立大学間立体交差工事は工事延長2532mに及び、1970年11月に竣工、16か所の踏切が解消された。

立体交差化工事と同時に、工事区間内の15駅の改良も行った。この内目蒲線洗足駅、池上線長原駅線路の地下化により、地下ホームとなった。

また立体交差化工事に関しては東急建設が土木建築工事を担当し、同社の技術向上に大きくつながる結果となった。その成果については近代における工事の章で触れることとする。

表3-2-5 戦後から1960年代までに着手した立体交差工事と踏切解消一覧
注1:『東京急行電鉄50年史』をもとに作成
注2:※東横線:680m、目蒲線850m
  • 1968年6月7日に上下線共地下化された長原駅
  • 中目黒~都立大学間立体交差化工事の様子(学芸大学駅付近、1967年)
高架化された東横線。中目黒~都立大学間立体交差工事(学芸大学~都立大学間、1970年3月)

3-2-1-5[コラム] 中目黒1号踏切での東横線と観光バスの衝突脱線事故

1968(昭和43)年5月22日16時57分ごろ、東横線中目黒~祐天寺間の中目黒1号踏切にて、回送中の観光バスが踏切内で立ち往生、電車運転士は踏切道の手前約92mで交通保安掛の発炎信号に気づき非常ブレーキを作動させたものの衝突した。電車の先頭車両が脱線し、バスはなぎ倒されて大破した。踏切で列車の通過を待っていた通行人2人がこのバスに巻き込まれて死亡、バス運転手、電車の乗客、その他の通行人ら10人が負傷した。

同区間では1966年9月から立体交差化に着手し、1970年2月の高架化完成に向けて工事中であった。事故翌月の1968年6月号の社内報『清和』では次のよう記されている。

先日の中目黒一号踏切の事故は、いかなる対策を考えておいても、抜け穴があることを如実に示した、不幸な事例といえよう。「全線立体化」も、遠い夢とも思われず、どんな小さなチャンスでも逃さず、一歩一歩努力していかねばならないし、これは都市鉄道をあずかるものとして、当然の義務でもある。

3-2-1-6 自動列車停止装置(ATS)の導入

1960年代初頭において、列車の追突事故などを防ぐための保安装置には、大別して3つの種類があった。停止信号を現示している信号機に列車が近づくと運転室に警報音を発して停止を促す車内警報装置、地上装置と車上装置の連携により強制的に列車を減速・停止させる自動列車停止装置(以下、ATS)、同じく地上・車上の連携により列車の速度をコントロールする自動列車制御装置(以下、ATC)の3つである。車内警報装置は国鉄と一部の民鉄で、ATSは地下鉄で、ATCは東海道新幹線と一部の地下鉄で採用されていた。

車内警報装置 左手で触れているのが車上装置

この内、車内警報装置については、前章で触れたように、1956(昭和31)年12月2日に発生した東横線祐天寺1号踏切での列車追突事故を教訓に、当社が民鉄ではいち早く導入し、1963年までに全路線で設置した。また、ATSは1927年に東京地下鉄道(のちの営団地下鉄)が開業した時点から早々に実用化されていたが、その後は機械式(打子式)から電気式、電子式へと進化し、地上装置と車上装置の信号のやりとりの方法や制御方法の違いなど多様な方式が考案されていた。

しかし、国鉄が三河島列車多重衝突事故(1962年)を教訓に車内警報装置からATSの導入に舵を切り、民鉄でも1964年以降列車衝突事故が多発したことから、運輸省は1966年11月、大手民鉄に対してATSの設置基準に関する通達を出した。当社はこの通達に従って、まず東横線全線で設置工事を行い、1968年4月に運用を開始。さらに他の路線でも設置工事を進めて、1970年3月までに鉄道全路線で運用を開始した。

当社で導入したのは信号機械メーカーとの共同開発による東急型ATSと呼ばれる方式で、地上の2点間を通過する所要時分から速度を割り出し、規定速度を超えた場合に非常ブレーキを動作させるものであった。技術的に発展途上の電子機器でもあることから、既設の車内警報装置と兼用したのが特徴であった。

  • ATS設置を告知するポスター(1967年4月)
  • ATSの車上装置 左壁面に取り付けられている

また駅ホームの保安設備として、「ITV(産業用テレビ)」を設置した。曲線ホームを有する駅では編成の長大化によって、発車時に車掌が前方扉を目視確認しにくいケースがあり、利用者の乗降確認のための補助要員が必要となっていた。

一方、1963年の渋谷駅を皮切りに、乗降客の多い主要駅で旅客誘導案内放送を効果的に行うために、ホームの状況を見られるようITVを設置していた。そこで、これを活用して、乗降確認の要員問題を解決することとし、1967年4月に大倉山駅上りホームに車掌のホーム監視用のカメラとモニター各2台を設置した。そののち、車掌用ITVは13駅に設置された。

同年12月には、同駅で旅客がホーム下に転落した場合の対策として転落報知器を設置し、いずれも順次適用駅を拡大していった。

3-2-1-7 駅業務近代化の始まり

1960年代は、多くの人員を要していた駅業務の省力化・近代化を図る時代であった。駅業務には乗車券の発売や改集札、旅客の整理誘導、駅の清掃、案内放送、手・小荷物取扱など多様な業務があったが、当社は機械で代替できるものは機械に任せ、代替できない業務の内副次的な業務は外注化するなどの方針を立て、順次、実行していった。

まず券売機については1952(昭和27)年に渋谷駅に設置したのが始まりだが、硬貨を入れてハンドル操作により切符が押し出されてくるという、原始的な機械であった。その後1956年に単能型(1区間乗車券のみ)の電動式券売機が登場、当社の券売機の主流となった。さらに1963年には、乗車券に必要な記載事項を印刷して発券する多能式自動印刷券売機を導入し、発券業務の簡素化やコスト低減を図った。自動券売機については機械メーカーによる開発競争もあって、さまざまな種類が試された時代である。

  • 手動式自動券売機
  • 電動式自動券売機
  • 多能式自動印刷券売機(渋谷駅、1963年10月)
自動券売改札機(自由が丘駅、1968年)

また1968年には普通券自動券売機と改札ゲートを組み合わせた自動券売改札機を開発し、目黒駅と自由が丘駅で試用を開始した。出札業務と改札業務を1か所で自動的に行うもので、国内初の試みであった。話題を呼んだが、処理効率が悪いため4駅7台の導入にとどまり、4年後の1972年に姿を消す結果となった。なお、当時はまだ磁気記録面のある乗車券ではなく、本格的な改札業務の機械化は次の時代のことであった。

案内放送の自動化は1969年7月から始まった。各番線の列車の出入・停止および出発信号と、列車の行先別や急行・普通の判別信号をもとに、それぞれに適した録音済みテープのトラックが選択されて音声がホームに流れる仕組みであった。これと連動して、ホームに設置された行先案内表示器の表示内容も変わるようにした。

このほか駅の清掃については1968年から東急サービス(1961年に当社が設立した城南交通が、渋谷サービスを経て商号変更された会社)に委託することとし、渋谷駅をはじめとする主要11駅を皮切りに、委託駅を順次拡大していった。

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