第3章 第1節 第1項 グループ経営の確立へ

3-1-1-1 五島昇社長による新時代の始まり

創業期から戦後の発展までを導いてきた五島慶太会長の死去後、当社は五島昇社長の下で一丸となって事業を推進していくこととなった。43歳を迎えたばかりの五島昇社長は、1959(昭和34)年8月24日、本社会議室に本社幹部社員および現業長を集めて、自らが最高責任者として事業推進していく決意を示した。

あいさつをする五島昇社長

また、1960年の年頭あいさつでは、これまで当社に長期経営計画というものはなく会長の方針に任せきりだったが、一人の英雄に頼ったワンマンコントロールの経営は自ずと変わるべきであると指摘し、今後は社員一人一人の推進力で事業を進めていく姿勢を打ち出した。

大きな時代の転換点を迎えて、五島昇社長は新体制の確立を進めたが、最初に着手したのは東洋精糖問題であった。これは、当社が事業領域を広げていくなかで、1958年3月から同社へ経営参画したものであったが、精糖業は当社本来の事業ではないとして手を引く判断を早々に下し、1959年9月同社に全株式を売却する契約を締結した。

さらに1959年11月、財界の重鎮を相談役に迎えて事業を推進していく体制を整えた。相談役に就任したのは、石坂泰三、小林中、水野成夫の3人である。石坂泰三は第一生命や東京芝浦電気(現、東芝)の社長を歴任、日本経済団体連合会会長を務めていた財界の大立者で、「大東急の再編成」では民鉄3社を設立(再発足)する際に設立発起人の一人となるなど、当社にとって縁の深い人物である。小林中は労働紛争が激化していた戦後の混乱期に当社社長として難局にあたり、その後は生命保険協会会長、日本開発銀行初代総裁を務めていた。また水野成夫は戦中に国策パルプ会社の設立に参加し、戦後はフジテレビジョンや産業経済新聞社(産経新聞)社長を務めるなどマスコミ界の重鎮であった。

3人の相談役を迎え、有形無形の支援を得ながら、五島昇社長は新しい時代の経営を推し進めた。

3-1-1-2 「5つの宿題」と経営計画委員会の設置

五島昇社長は前会長の遺業、いわゆる「5つの宿題」を受け継いだ。それは次の5つである。

  1. 伊東下田電気鉄道(伊豆急行線)の建設
  2. 東京ヒルトンホテルの建設
  3. 箱根ターンパイクの建設
  4. 新玉川線の建設
  5. 多摩川西南新都市(多摩田園都市)の開発および大井町線(田園都市線)延長線の建設

これらを完遂するには、10年以上の年月と、500億円以上の資金が必要になると目され、これに耐え得る綿密な事業計画・資金計画を立てる必要があった。

このため当社は1960(昭和35)年9月に経営計画委員会を発足させた。これは従来のような特定案件に関する少人数の委員会とは異なり、各組織から幹部を等しく集めて現下の経営課題を共有しつつ打開策の検討を行い、常務会を通じて、その具体策を社長に答申する点に特徴があった。この委員会の役割には、次の2つがあった。

1)会社経営の基本方針の決定に資するため、鉄軌道事業・自動車事業・付帯事業の増収対策に伴う新設改良設備工事の範囲や着工時期などの諸計画、新規事業(上記の5つの宿題を指す)の建設実施計画、資金計画、収支予想などの総合計画を策定すること

2)経営の安定的発展を図るための増収対策、業務の合理化策の立案を行うこと

こうしてスタートした経営計画委員会は、その後、社内各部門にわたる体質改善に取り組むと共に、経営計画としては鉄軌道事業と自動車(バス)事業の設備増強計画と、伊東下田電気鉄道、東京ヒルトンホテル、新玉川線の建設などを中心とする5か年計画をまとめた。また業務改善では、経費節減のほか、事務機械化設備の導入、不動産賃貸料(地代・家賃)の改定、休閑地の整理、乗車券様式の改訂、鉄道電話の自動化などについて検討を行い、随時実施していった。

この経営計画委員会は所期の目的を果たし、1961年8月の業務組織改正によって発展的に解消となり、重役室企画課および監理課に引き継がれた。

3-1-1-3 三角錐体経営の萌芽

当社はこれまでも交通事業や開発事業に関係する関連会社を設立し、付帯事業に関係する関連会社も含め、1961(昭和36)年3月末で合計67社と7財団・学校法人からなる東急事業団(東急グループ)を形成するに至った。そのうち、67社の内訳は陸運業21社、海運倉庫業3社、製造業12社、サービス業17社、商業6社、不動産建設業と金融業8社である。財団・学校法人を除いた東急グループ全社の年間総売上高(関連会社間の取引を相殺しない単純合算)は約1000億円にのぼり、1961年3月期における当社単体売上高約98億円の10倍を上回る規模となっていた。

なかでも東急不動産は、当時は建設業も担っていたため多摩川西南新都市建設や、その他の都市開発、国内各地での地域開発を広く行い、土地売買のみならず集合住宅やビルの賃貸事業でも力を発揮して、国内有数の不動産会社に成長した。のちに東急不動産から分離独立した東急建設、東急エージェンシーも着々と業容を拡大しつつあった。

一方1960年代前半を中心として、東急車輛製造以外の製造業の多くを随時撤退したほか、映画製作事業を分離するなど、グループ陣容の見直しや再編成が相次いだ。

こうしたなかで、東急グループの事業領域を指し示す考え方として登場してきたのが、五島昇社長が提唱し始めた「三角錐体経営」である。三角錐体の四面それぞれを事業領域に当てはめて東急グループのあるべき姿をわかりやすく示したもので、のちに「交通事業を経営の根幹となる底部に置き、残りの三面を開発、観光サービス、流通で構成」する考え方として定着するに至っていく。

この考え方が初めて社内報『清和』で披露された300号(1964年10月号)では「鉄道・バスを中心とした地域開発、デパート、不動産、観光」を四面の構成としており、必ずしも最初から定まったものではなかった。だがいずれにしても、東急グループの事業領域の方向を定めることで、経営資源の投入先について一定の線引きをする一歩としたのは確かである。

三角錐体経営の考え方が組織体制として明確に現れるのは1970年の組織改正からになるが、その前段として、次に記す事業本部制の採用があった。

3-1-1-4 初の事業本部制採用とグループ経営管理の強化

1965(昭和40)年6月、当社は初めて事業本部制を採用した組織改正を行い、鉄道事業本部、自動車事業本部、開発事業本部の3事業本部を新設、さらに翌1966年6月には建設事業本部を新設して4事業本部制とした。事業本部ごとの損益管理を強化し、着実に収益を確保するための策であった。

このころ先に挙げた「5つの宿題」の内、伊豆急行、東京ヒルトンホテルが無事に竣工開業を迎え、大井町線延長線の内溝ノ口(現、溝の口)〜長津田間の開通が翌1966年に控えていた。しかし残る宿題のなかでも当面の難関と見られていたのが多摩田園都市の開発である。土地区画整理事業における保留地の取得などには膨大な資金を必要とするが、鉄軌道およびバス運賃の値上げが思うように進まないなかで当社の収益性が落ちており、また拡大を続けてきた関連事業(グループ各社)への投資負担も膨らむ一方であった。

とくに関連事業については1965年4月現在で約300億円を投融資し、これに約250億円の保証(潜在債務)が加わり総額では500億円を超えたが、その金利負担を勘案すると年間10億円の負担が発生する状況となっていた。

このため1965年4月に行われた社長会(関連会社の社長らが集う恒例行事)で五島昇社長は、当社において交通事業の増収および合理化に努め、事業本部制の採用で利益体質への転換を進めると共に、各社に対しては出向社員への人件費補給打ち切りを含む対応策に乗り出すことを言明した。

社長会はこれまで、恒例となっていたグループ内外の親睦行事「東急まつり」と同日に、当社および関連会社各社の社長との情報交換を目的に行われるのが常であったが、これ以降は各社の社長から当社社長へ直近1年間の業績報告や総括を求める場として活用されることとなった。各社に対しては、今後5年間のうちに1割配当を実現するよう要請し、5か年計画を提出させるなどして管理を強化した。

翌1966年以降「東急まつり」は、直近1年間に優れた業績を残した関連会社に経営優秀三賞(経営優秀賞・経営功労賞・経営努力賞)を授賞する場ともなった。これが今日まで続く東急グループ会社表彰制度の始まりである。

3-1-1-5 コンピュータ導入とグループ利用

前述の経営計画委員会で検討テーマとなっていた業務合理化策の一環として、当社は段階的に事務の機械化を進めることとし、1962(昭和37)年に日本IBMのパンチカードシステム導入を決定。本社1階に機械計算室を設けて穿孔機や会計機など一式を設置し、1963年5月から順次各種計算業務を開始した。

パンチカードシステムは、パンチカードの孔の位置を読み取って計算やデータ保存などに使う、機械式の事務機である。計算業務が一時期に集中しやすい給与計算を主たる用途に大手企業で導入が進みつつあり、商用コンピュータが登場する以前には最も一般的なデータ処理システムであった。当社においても、第一次計画として給与計算を手始めに株式業務、会計業務、資材管理業務で活用、その後は第二次計画として各種統計業務、交通量調査、経営資料作成などに応用範囲を広げ、さらに関連会社の各種計算業務も行うようになった。

渋谷東急ビルに設けられた電算室とコンピュータ

その後、1960年代後半には米国を中心にコンピュータを導入する企業が相次いだ。当社はグループ全体でのコンピュータ活用を念頭に、先進的な導入事例となっていた米国各社を関連会社幹部と共に視察。その有用性が確認できたことから、従来の個別業務ごとの事務処理から総合的なデータ処理へと段階を進めるべく、大型汎用コンピュータの導入を決定した。

当社では初代のコンピュータに日立製作所のHITAC8400を選定。これを1970年3月に渋谷東急ビル(のちの渋谷東急プラザ)7階に設置して稼働を開始し、1972年にはさらに1台を増設した。1号機は当社が鉄軌道・バス収入決算、統計処理などのバッチ処理用として使用、2号機は東急不動産が各営業所とオンラインで結び、不動産仲介物件の情報検索と照会サービスに使用した。不動産業界でのオンラインシステム採用は業界初の試みであった。またこれと併せて、東急グループ各社(東光ストア、東急興産、日本貨物急送など)での共同利用を促し、グループ全体での情報システム活用の先行事例とした。

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