第3章 第2節 第3項 バス事業の拡大から再編成へ

3-2-3-1 営業路線の拡大と営業所増設

高度経済成長期の都市部の人口膨張により、市街地は徐々に東京都区部から多摩地域市部へ、そして神奈川県内へと広がっていき、鉄道が通っていない地域の足として、あるいは鉄道駅への連絡の足として、路線バスは重要な役割を果たすようになった。

当社では輸送需要の拡大に応えて、新規バス路線の開設や既設路線の延伸に取り組んだ。

1960(昭和35)年6月に渋谷~二子玉川園間、同年9月に渋谷~野沢竜雲寺間、1962年8月に目黒~二子玉川園間、同年9月に溝ノ口~蟹ヶ谷間、1964年6月に渋谷~千歳船橋~祖師ヶ谷大蔵間、1964年10月に横浜駅西口~新横浜間、1965年6月に溝ノ口~小杉間をそれぞれ新設や延伸するなど、多くの路線の新設、延伸、増便などを行った。併せて1960年から1966年にかけ、これまでの9営業所(淡島、弦巻、瀬田、目黒、不動前、中延、荏原、池上、川崎)に加えて日吉、高津、駒沢、新羽の各営業所を新設した。こうして東京都および神奈川県における営業キロ数と在籍車両数は、1960年度末の448km、628両から1965年度末の542km、909両へと大きく進展を遂げた。

渋谷駅西口バスターミナル(1962年12月)
1962年10月に新設された高津営業所(1962年)

開発が進みつつあった多摩田園都市一帯のバス路線としては、田園都市線延伸開業直前の1966年初頭の時点で、この地域を取り囲む東横線、南武線、小田急線、横浜線の主要駅である綱島駅、武蔵小杉駅、溝の口駅・武蔵溝ノ口駅、柿生駅、長津田駅、小机駅、中山駅に連絡していた。当社のバス路線が大半であったが横浜・川崎の市営バスや小田急バス、神奈川中央交通のバスも一部運行されていた。

そして、同年4月の田園都市線溝の口~長津田間の開業に合わせて、バス路線の大幅な再編成を実施。当社では、15系統を新設すると共に、既存の10系統の経路を変更し、各駅と連絡した。新設路線では中距離直通バス路線として長津田駅と、二子玉川園駅を経由して渋谷駅を結ぶ路線も設けられた。

多摩田園都市は人口増の端緒についたばかりで輸送人員も発展途上ではあったが、社運を賭けた開発事業とあって、バス部門としてこれを支える狙いがあった。再編成直後は大幅な経路の変更に沿線住民の戸惑いもあったが、一部路線網を修正すると共に新経路の周知に努めて定着を図った。

図3-2-8 田園都市線延伸に伴うバス路線の再編成図
出典:『多摩田園都市 開発35周年の記録』
田園都市線延長開業後の青葉台駅前バスターミナル(1966年5月)

1969年5月11日からは、前述の玉川線廃止に伴って代行バスによる輸送を開始した。これに対応するためバス116両を投入、大橋営業所を新設した。玉川線の代行輸送という性格から早朝から深夜まで運行時間帯が幅広いため、大橋営業所には乗務員のための宿泊設備を備えた。代行輸送では都心では初めてとなる急行バスも渋谷~二子玉川園間で運転され、途中停留所は三軒茶屋、駒沢、瀬田の3か所のみであった。

渋谷停留所に設置されたターンテーブル(1970年5月)

代行輸送にあたっての大きな課題の一つに、バスの増加でいっそう混雑することになる渋谷駅のバス発着環境の整備があった。これについては、玉川線渋谷駅跡地をバスターミナルとして活用した。玉川線廃止後に整備を進め、バスの進路方向を180度回転させるターンテーブルの設置や当社バス専用道路(渋谷〜道玄坂上間)を整備し、代行バス以外の一部路線と「東名急行バス(後述)」がこのバスターミナルから発着するようになった。代行バスに関しては、道路幅員が狭く渋滞が激しい用賀付近について、玉川線の廃線跡を利用した専用道路を設けた。

渋谷駅付近は玉川線の廃線跡に設置された専用道路を利用(1970年5月)

こうして、1960年代に入ってからの一連の路線網増強や玉川線の代行輸送に伴って、バス営業所は1969年度末には13営業所(1969年度に大橋営業所を開設し、不動前営業所を閉鎖)となり、在籍車両が1000両を超えた。

3-2-3-2 バス事業の収支改善に向けて

バス事業の規模的な拡大は図られたが、収支の面では苦境が続いていた。最大の要因は、都内のバス運賃が1951(昭和26)年12月の改定以降、長らく据え置かれたままだったことである。当時の運賃は、賃率2円50銭を基準とする対キロ区間制とし、初乗り1区(約6km)15円、以降1区増すごとに10円加算という区間制であった。このため1962年7月、都バスと大手バス会社9社は、山手線外を区間制から地帯制(ゾーン制)に改め、初乗り20円、以降半地帯ごとに10円を加算する運賃変更の認可申請を行った。同年11月に、バス運賃では初めての公聴会が開かれたが、運賃改定の決定には至らなかった。

これに対抗してバス会社による軽油引取税の納税拒否問題が起こり、さらに1964年3月には東京乗合バス協会(現、東京バス協会)として行政訴訟を起こす事態にまで発展した。しかし同年11月に行政の不作為を認める判決が下され、ようやく1965年1月、東京都では13年ぶり(神奈川県では6年ぶり)の運賃改定が実現した。その内容は、改定前の運賃区界を基準とした特殊区間運賃制となり、初乗り1区(約6km)は、5円増額の20円(以降、1区増すごとに10円加算は変更なし)というものであった。続いて1967年10月にも都内バス運賃の改定がなされ、従来の区間運賃制から地帯制運賃となり、初乗りは1地帯(約10km)30円に値上げされ、以降1地帯ごとに20円を加算する運賃になった。

当社ではバス事業の合理化も同時に進めた。とくに当時の採用難を背景に、車掌を必要としないワンマンバスに踏み切った。東京23区内で初めてワンマンバスを運行したのは1961年の当社の馬込循環線(大森駅~馬込銀座~大森駅間)で、その後当社は、ワンマンバス運行の路線を急速に拡大させた。1967年の地帯制運賃の導入により都内路線の9割が30円均一となり、運転士の硬貨の取り扱いが簡素になったことも、ワンマン化に拍車をかけた。その結果、ワンマン化の実施率は1966年度末の56%から1967年度末に77%となり、1973年6月に100%を達成。所定要員数を削減し、生産性の向上につながった。

バス車内で運賃の精算をする女性車掌
大森循環線ワンマン化のお知らせ看板(1963年4月)
ワンマンバス(渋谷停留所 渋41系統)

一方、30円均一化とワンマン化が進んだことで、運賃収受はこれまでの車掌が直接運賃を収受し乗車券を発行する形から透明の箱へ運賃を投入する方式が大半となったため、営業所に集まる収入金は硬貨が大量となり、各営業所の事務員によるその計算と管理が課題となった。そのため、1968年7月に、当時東急グループの一員であった国民相互銀行の協力を仰いで、荏原営業所内に民間バス初の集中計算センターを設置した。各営業所から集めた収入金の計算、報告、管理から両替準備金の手当までを一括集中処理で行ったことやバス車内に循環式料金箱(収受した硬貨をもとに両替ができる運賃箱)の設置を開始したことも合理化策の一手であった。

集中計算センターの硬貨計算機での作業

1960年代のバス事業を語るうえで、もう一つ触れておかなければならないのが、バスという交通機関の役割低下である。都市交通審議会による答申により、着々と地下鉄網が広がり、一部が山手線外にも広げたほか、郊外路線と相互直通運転を行うこともあり、鉄道の利便性が増加した。とくにこうした路線と重複するバス路線は影響が大きく、当社でも1968年11月の地下鉄1号線(都営浅草線)の全線開業を受け、多摩川大橋~東京駅八重洲口間の路線を1970年8月に廃止した。また、道路の混雑で定時運行が困難になってきたことでも、バス離れが進んだのである。これに乗用車の急速な普及が加わり、バスに頼っていた郊外ではマイカーに切り替える動きも活発化した。

長距離バスなどを除いた一般路線バス運輸成績において、営業キロ数のピークは1968年度の839.1km、輸送人員のピークは玉川線の代行バスを開始した1969年度の256百万人で、1970年代には徐々に減少へ進んでいくこととなる。

なおバス事業の苦境を打開すべく1961年に渋谷〜長野間を皮切りに長距離バスの運行を開始、1969年に同業他社との共同出資による東名急行バスの開業もあったが、これについては後述する。

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