第3章 第6節 第1項 新宿・池袋を追尾する渋谷

3-6-1-1 渋谷再開発促進協議会の発足

1956(昭和31)年施行の首都圏整備法により、既成市街地については都市機能の維持・発展のために種々の計画が立てられたが、その一つに副都心計画があった。1958年に首都圏整備委員会が策定した首都圏整備計画で、新宿、池袋、渋谷が副都心に指定され、以降、新宿では淀橋浄水場跡地に超高層ビル街が整備されることとなり、池袋では巣鴨拘置所の跡地に超高層ビルのサンシャイン60を核とする複合商業施設が整備されることとなった。

一方、渋谷にはこれらに相当する広大な対象地域がなく、「渋谷副都心地区」として調査対象とはなったものの、その後の開発は民間主導で行われることとなった。

1968年に改正された都市計画法では、従来の絶対高さ制限に代わり、容積率制度が導入された。当時、東京都の首都整備局長の職にあって制度導入を牽引した山田正男はこれを、従来の行政主導で「つくる都市」から、民間の経済活動により「できる都市」への、都市観の転換として捉えていたという。(※)

※中島直人『都市計画の思想と場所 日本近現代都市計画史ノート』東京大学出版会、2018年、107ページ

これにより、将来のインフラ整備を前提としながら容積率が定められ、副都心地域を中心に、従来を大幅に上回るような市街地の高度利用が促進されることとなった。

渋谷においても、民間事業者が主体となり、インフラ整備など公共的な視野も考えながら、地域全体のなかで個々の敷地利用がどうあるべきかという高い視点で都市をデザインしていくことが期待された。

このころの渋谷駅周辺航空写真 1965年3月

新宿や池袋で大規模な再開発事業が進むなか、渋谷中心部の商店街や町内会から渋谷の地盤沈下を懸念する声が上がり始め、渋谷の今後について検討を進めるため再開発協議会を設立する機運となり、これに法人諸団体が呼応して、1964年12月に渋谷再開発促進協議会が発足した。参加したのは、駅周辺の商店街7団体、14の町内会のほか、当社、東急不動産、東横(現、東急百貨店)、京王帝都電鉄(現、京王電鉄)、帝都高速度交通営団(現、東京地下鉄)、日本放送協会、西武百貨店、銀行団体など渋谷とかかわりの深い12の法人・団体であった。

その創立総会では役員の選出が行われ、石坂泰三(日本経済団体連合会会長)と前田義徳(日本放送協会会長)が名誉会長に、迫水久常(参議院議員、渋谷サービス社長)が会長に就任し、理事長は五島昇社長が務めることとなった。主な事業内容は、①渋谷再開発に関する調査研究、資料の収集・作成、②講演会などの開催、③渋谷再開発に関しての要望・陳情・請願などであった。この渋谷再開発促進協議会が、現在の渋谷再開発協会の前身である。

渋谷再開発促進協議会は、1965年に発足した新宿、池袋、渋谷の3副都心連絡協議会に参加したほか、毎年各地で開催されていた全国都市再開発促進連盟の全国大会にも参加して情報交換を行うと共に、1965年から開発ビジョン研究会を十数回開催して、再開発の方向性を探った。そして磯村英一(東京都立大学名誉教授)、坂倉準三(大都市再開発問題懇話会委員)、清家清(東京工業大学教授)、山口辰男(横浜市立大学教授)の各専門家を相談役に迎えて、協議会としての再開発計画の立案を急いだ。こうして1966年に発表したのが「渋谷再開発計画’66」(代表:坂倉準三 大都市再開発問題懇話会委員)である。

渋谷再開発促進協議会はこの計画を渋谷区長や渋谷区役所の関係部課長、渋谷区議会議員、さらには東京都の関係局長に説明したほか、民間企業や地元商店などには再開発への投資を呼びかけた。渋谷はすり鉢状の地形の中心に駅があるため、街の発展が中心に偏りやすい特性があること、山手線を境に東西に分断されていることなどを踏まえて、渋谷駅を中心に半径500mの場所に拠点施設を点在させ、回遊できるアーケードや環状道路、のちに東京メトロ副都心線として実現される渋谷~新宿~池袋間の地下鉄を整備することなどが計画に含まれていた。この計画は、あくまでも協議会として主体的にまとめた青写真であり、これが直ちに東京都や渋谷区による都市計画に組み入れられることはなかった。

同協議会はその後も精力的に再開発プランの作成を進め、1971年10月に「渋谷再開発計画'70」を発表した。すり鉢状の地形を覆う人工地盤を建設し、渋谷駅を中心とした地域を、5000億円の巨費を投じて3期計画で大改造、1985年を目標に「新都心」として再開発しようとするものであった。具体的には、渋谷駅前に超高層ビルを、その西側に中層ビルを連続して配置するほか、当社本社敷地を再開発し超高層ビルとショッピングセンターを設けるなど、6拠点を開発する計画であった。こうした計画が検討されるなかで、当社による大向小学校跡地の開発(東急百貨店本店計画)や、西武百貨店の渋谷進出などの動きが出てくるのが1960年代後半であった。

図3-6-1 渋谷開発拠点配置計画図
出典:『渋谷再開発計画'70』 渋谷再開発促進協議会

3-6-1-2[コラム] 渋谷まつり「わんわんカーニバル」

当社や東急グループ各社が参画した渋谷再開発促進協議会は、再開発の機運醸成と街への親しみを高める活動を主な目的とする団体である。同協議会の1965(昭和40)年度の事業計画には、渋谷の商工・観光振興として「多彩な商業祭と行事の合同企画と広報活動」が掲げられた。この商業祭については、渋谷再開発促進協議会が主体となり、渋谷区役所、渋谷区商連、商店街、町会、観光協会との共同主催で行われた。「渋谷まつり」と名づけられた商業祭の第1回は1966年11月3日から4日間にわたって開催され、ハチ公を模した装飾車を先頭にした「わんわんパレード」は原宿から渋谷までを3時間ほど練り歩いた他、犬の譲渡会、犬の着ぐるみなどをまとった人々による仮装行列、人気歌手によるコンサートなどの企画が目白押しとなり、多くの観客でにぎわった。当社や東横(現、東急百貨店)も、吹奏楽団による演奏や装飾車でのパレードへの参加などを通じて協力した。

第1回「渋谷まつり」でハチ公を模した装飾車のパレード
第1回「渋谷まつり」でのわんわん仮装行列

なお、渋谷再開発協会(1972年5月、渋谷再開発促進協議会から名称変更)や当社の記録では、1968年までは「渋谷まつり わんわんカーニバル」として、1969年からは「渋谷まつり チャーミングしぶや」として第5回(1970年)まで開催されたが、その後も渋谷区や商店街などが中心となり、当社や東急グループ各社、渋谷所在の有力企業も協力し、形を変えながら現在に至るまでさまざまなイベントが開催されており、こうした街ぐるみの取り組みが渋谷の活性化につながっている。

3-6-1-3 東急百貨店本店で面的な広がり促す

1960年代前半、渋谷は大きな環境変化によって、重大な岐路にあったといえる。前述のように新宿、池袋が再開発に着手し、渋谷の地位が相対的に下がるのではないかという危惧が生じたことが最大の環境変化だが、それだけではない。

まず、1964(昭和39)年8月の中目黒駅を介した東横線と日比谷線の相互直通運転開始により、渋谷を通らない人が増えるのではないかという懸念があり、前述のように相互直通運転開始後の調査では、渋谷駅の乗降客数が減少していた。また、ワシントンハイツ(在日米軍施設)跡地について、1961年10月に東京オリンピックの選手村(のちに都立代々木公園と国立オリンピック記念青少年総合センターになる)と国立代々木競技場が、1963年2月にはNHK放送センターが建設されることが決まり、オリンピック閉会後の渋谷に大きな変化をもたらすことが予想された。

こうした渋谷を巡る変化のなかで、のちの針路を決定づける要因となったのが、東急百貨店本店の開業(1967年11月)と西武百貨店渋谷店の開業(1968年4月)である。そして両店の開業がほぼ同時期であったことには、少なからぬ因果がある。

当社側から見た事の発端は、渋谷区立大向小学校が移転することとなり、当社がその跡地を1963年6月に落札、渋谷区から取得したのが始まりである。その用途として当初考えられていたのはスポーツセンターの新設であった。当時の渋谷はすり鉢状の地形由来から街の集客施設が駅近辺に集中しており、これが新宿や池袋から開発が遅れる一因ともされ課題とされていた。当社はこのスポーツセンターと、建設が決まったオリンピック施設やNHK放送センターとが連携しながら、渋谷の街のにぎわいを広げて課題解決しようとしたのである。しかし、西武百貨店の渋谷進出計画を知り、小学校跡地の用途を渋谷東横百貨店の新館(のちの東急百貨店本店)に変更することを決断した。それは、新たな百貨店が加わることは歓迎する一方で、渋谷のにぎわいがより駅近辺に偏るおそれもあったためであり、スポーツセンターより集客性の高い百貨店施設を駅から少し離れた大向地区に建設することで、商業地としての面的な広がりを渋谷にもたらし、街全体の活性化を促すことを狙ったのである。この百貨店の建設は、1966年10月に着工されたが、前述の渋谷再開発促進協議会の開発ビジョンにも沿い、地元からも賛意を得て進められた。建物建設にあたっては、当社と東横百貨店の2社で渋谷開発株式会社を共同で設立(1966年8月)、同社が建物を保有し百貨店がそれを賃借する形態をとった。

大向小学校跡の東横百貨店新館建設用地
図3-6-2 渋谷駅周辺の東急グループおよびその他の拠点位置
出典:『東京急行電鉄50年史』

西武百貨店の渋谷進出については、1991(平成3)年に刊行された『セゾンの歴史 上巻』(由井常彦編、リブロポート刊)と2015年に発刊された『わが記憶、わが記録 堤清二×辻井喬オーラルヒストリー』(御厨貴、橋本寿朗、鷲田清一編、中央公論新社刊)に経緯が記されている。これによれば、西武百貨店が新宿もしくは渋谷への進出機会をうかがっていた1962年秋、渋谷区宇田川町にあった松竹の映画館(渋谷松竹映画劇場)の土地所有者が再開発を考えていることを銀行筋から聞きつけ、これを渋谷店の用地にしようと計画したのが発端である。同地は井の頭通りを挟んで南北に分断されているなど百貨店の立地としては恵まれたものではなかったが、西武百貨店の実質的な社長として経営を任されていた取締役店長の堤清二は、親会社である西武鉄道の反対を押し切って計画を進めた。

この間、西武側の動きを早々に察知した五島昇社長が堤清二に声をかけて会談の場が持たれ、五島昇社長は西武百貨店の進出に歓迎の意を伝えた。先代の五島慶太と堤康次郎の間では箱根や伊豆を巡る覇権争いなどで激しく対立した時期もあったが、五島慶太が1959年に、堤康次郎が1964年に他界して代替わりとなったことで過去の関係を払拭し、少なくとも渋谷再開発に関してはよきライバルと認め合い、互いの切磋琢磨によって渋谷の地位向上に努めることとなったのである。こうして、1967年11月1日に東急百貨店本店(同年9月に東横から東急百貨店に商号変更)が、1968年4月19日に西武百貨店渋谷店が開店した。

東急百貨店本店(1967年)

西武百貨店の開店前後にあたる1968年3月と5月には、渋谷再開発促進協議会による渋谷駅周辺各地における来街者通行量調査が行われた。その結果、栄通り(のちの東急本店通り。現、文化村通り)は1965年の調査と比較して、神宮通り(現、公園通り)とセンター街は3月と比較して5月の通行量がいずれも増えており、百貨店の開店により人のにぎわいが広範囲化したことがわかった。そしてこの変化が、次の時代にさらなる変化を生み出すこととなる。

なお1968年3月に渋谷駅西口と東口において、現在の国道246号線と、バスターミナルに通じる道路および明治通りとの交差点にそれぞれ歩道橋が建設された。この内西口の歩道橋は全長199mの日本一長い歩道橋であった。これにより渋谷駅南側への人の流れも大きく変わった。

渋谷駅西口の当時日本一長い歩道橋 ※建設中

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