第3章 第6節 第2項 渋谷駅周辺の改良・整備

3-6-2-1 東横線渋谷駅の改良、カマボコ屋根の登場

東京都内では、1959(昭和34)年に東京オリンピックの開催が決定して以降、1964年の開催に間に合わせるべく、交通網の整備が急ピッチで進められた。都内の自動車登録台数は1952年からの10年間で7倍近くに急増していたが、これに対応した道路整備はまったく追いついておらず、そこに東京オリンピック関連の道路整備も加わったのである。

渋谷駅周辺では、放射4号道路が道玄坂〜宮益坂間であまりに混雑が激しいため、これを短絡するルートとして霞が関から渋谷に至る幅員50mの放射22号道路(のちに六本木通りと国道246号線の一部などになる)が計画され工事が進んでいた。国鉄線と東横線の下を潜る部分は未着工の状態で、10年以上にわたり東京都と国鉄、当社の間で交差方法などについて種々話し合ってきたが、東京オリンピック開催前の供用開始に向けていよいよ成案が得られたため、当社はこれを機会に東横線渋谷駅の改良工事に臨むこととし、1961年5月に着工した。

図3-6-3 改良工事前の渋谷駅周辺と放射4号線の交差位置図
出典:『清和』1961年4月号

東横線渋谷駅の乗降客数(玉川線への乗換も含む)は、3面3線の旅客ホームに改良した1950年度の1日約14万人から、10年後の1960年度は1日約28万人、工事着工時は1日約30万人と2倍以上に増加していた。さらなる輸送力向上をめざして6両編成の運行を予定していたことから、これに対応できる工事内容とした。具体的には、「放射22号道路をまたぐ架道橋の新設」、「最小運転間隔3分を短縮する対応として東側に1面1線のホームと線路の増設」、「6両編成に備えたホームの延長」、「これに伴う渋谷川の付け替え工事」、「正面コンコースの混雑緩和と平均乗車を図るための、ホーム階段の設置」、「1階に南口出口の新設」、「国鉄乗換・西口方面の連絡通路設置」、「横浜方の貨物ホームの側線化と信号所の移設」である。なお、全面的な改築となるため、工事に際して横浜方に4面3線の仮設ホームを設置したのち、旧ホームの撤去、新ホームの設置を順に行った。

図3-6-4 ホーム階(2階)の改良工事平面計画図
出典:『清和』1961年4月号
図3-6-5 新設置される渋谷駅1階南口の断面計画図
出典:『清和』1961年4月号
横浜方へ移設された仮設ホームの渋谷駅(1961年8月)
左手前が取り壊された従来の渋谷駅ホーム、奥が仮設ホーム、改札口は移設されず、東側の旧ホーム上に設置した連絡通路で結ばれた(1961年10月)
渋谷駅工事の様子 首都高速3号線も建設中(1963年7月)

4面4線となった新しい渋谷駅は、1964年3月22日から1~3番線を、4月1日から1階南口改札を、同月12日から4番線の使用をそれぞれ開始し、同月16日に全体の完成を迎えた。一連の改良工事により登場したのが東横線渋谷駅を覆う大屋根で、アーチ型の屋根が連なる外観は「カマボコ屋根」とも呼ばれた。大屋根の外観はその後も維持され、2013(平成25)年3月に東京メトロ副都心線との相互直通運転開始に伴い駅が地下化されるまで、約50年にわたり東横線渋谷駅のシンボルとなった。

カマボコ屋根の東横線渋谷駅(1965年ごろ)提供:東急建設

3-6-2-2 渋谷東急ビル(渋谷東急プラザ)の竣工

 当社は1954(昭和29)年に東急会館(のちの東急百貨店東横店西館)を、1956年に東急文化会館を竣工させ、戦後間もなくして描いた渋谷復興の青写真を次々と実現してきたが、この青写真のなかで残っていたのが、西口正面の金融センタービル建設計画であった。

建設予定街区は東急グループの日本興業(元々は玉川電気鉄道の乗合自動車子会社で、当社に乗合自動車路線を譲渡したあと持株会社として存続)の所有地が多くを占めており、1954年に東急不動産が同社を合併して土地を引き継いだ。しかしそれは4か所に分散していて、しかも数十件の不法占拠者が建屋を建てて占有しており、いまだに終戦直後の雑然とした状態が解消されないままであった。

1956年以降、都内でも遅れていた渋谷駅西口の土地区画整理事業が進捗を見せ始め、幸い周辺には当社の所有地も相当あったことから、東急不動産の所有地も含めて一式を、当社管財部が中心となって権利関係の整理を行うこととした。同年2月には土地区画整理事業に伴う仮換地指定の通知があったが、仮換地に反対して移転を拒む占有者もあり、裁判所の決定に基づく代執行、土地明け渡しの和解調書に基づく強制執行などを経て、1961年4月に完了した。

東急不動産がビルの建設を予定していた同街区は、1963年2月までに大半が東急不動産の所有地となったが、住友銀行と個人地権者1人の所有地が含まれていた。このため最終的には3者による共同ビル(地下2階、地上9階)を建設することとし、敷地面積の専有割合に応じた所有区分を設定した。

これまでも1954年以降のビル需要や用途需要の変化、用地問題の進捗に応じてビルの建設計画は二転三転していたが、3者の提携により東急不動産は上層階を大きく使えることとなったため、改めてビルの使用用途について計画を練り直した。一時は賃貸オフィスビルとする案が有力であったが、オフィスの終業後にビル周辺が暗くなり、渋谷のにぎわいがそこなわれかねないことから、オフィスを中心に銀行、小売店や飲食店もテナントとして誘致して、複合ビルとしてオープンすることとした。

1965年6月、同ビルは渋谷東急ビル(のちの渋谷東急プラザ)として開業した。これを機に東急不動産の本社は同ビル5〜7階に移転、東急文化会館にあった同社渋谷営業所も同ビル1〜2階に移転した。このほかのフロア構成としては、3階に本と趣味の特選街、4階におしゃれ特選街、8階に美容院や歯科医院、9階に味の名店街、地下1階に東急のれん街、地下2階は大衆的な飲食店が集まるスナックコーナーとした。なお、東急のれん街は渋谷の商圏拡大を目的に、1965年5月に当社と東横(百貨店)の共同出資で設立した東急のれん街株式会社(1971年、東急百貨店子会社のフードマートに合併)が営業し、東横のれん街が菓子類を中心とした店舗だったため、東急のれん街は生鮮食料品を中心とする店舗にした。

また同ビルには法規上必要とされた収容台数分の駐車場を確保するため、屋上を駐車場専用として自動車専用エレベーターを設置、併せて立体駐車設備も設けた。ビル内に組み込まれた立体駐車場は、都内初であった。

渋谷東急ビル(のちの渋谷東急プラザ、1965年6月)
渋谷駅西口バスターミナルと渋谷東急ビル(左、1967年)

このあと渋谷駅西口では、東急百貨店東横店西館と3〜5階で接続する渋谷駅西口ビルを当社が建設して東急百貨店に賃貸し、1970年10月に東横店南館としてオープンした。さらに前述の玉川線撤去に伴って、新たなバスターミナルの改造工事も同年5月に終了した。

渋谷西口ビル(東急百貨店東横店南館、1970年10月)

これで当社による戦後復興期の渋谷の発展の青写真として描いた渋谷駅および駅周辺の地上部における改良・整備はひとまず落着し、このあと、街の中心地としての役割を果たしていくこととなる。

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