第3章 第4節 第3項 地方バス事業の展開

3-4-3-1 各地方における交通事業を中心とした展開

これまで述べてきたように東急グループは1950年代後半から航空事業への参画や、北海道、上信越などの地域進出を果たし、地域交通を軸とした開発を進めてきた。この時期、大手民鉄では当社以外にも、名古屋鉄道が東海地方近隣だけでなく北海道や北陸地方に進出し、バス会社を傘下に収めるなどの動きが見られた。

以下、東急グループのその後の動きについて、地域別に見ていくこととする。

1)北海道

地方におけるバス事業の展開で当社がとくに注力してきたのは、観光資源に恵まれ、本州などから多くの観光送客が期待できた北海道である。その経緯については前章で触れたが、皮切りは1957(昭和32)年10月の、札幌市内の路線網を持つ定山渓鉄道(1973年5月じょうてつに商号社名変更)の株式取得である。それ以降、1957年10月に函館市内とその郊外を幅広くカバーする函館バス、1960年5月に北見市を中心に道東部に路線を伸ばす北見バスを傘下に入れ、各社の経営再建に取り組んできた。

さらに、当社は1959年12月に、稚内市を中心に利尻島や礼文島にも路線網を持つ宗谷バスを買収。1960年には定山渓鉄道が早来運輸(のちのあつまバス)を傘下に、そして1961年から翌1962年にかけて北見バスが、紋別を拠点とした路線網を持つ北紋バスと、網走と東藻琴を拠点に路線・貸切バスや貨物運送、土木建設業などを手がける網走交通を系列下に収めた。この内北紋バスと網走交通については、1965年6月に当社が両社の株式を、北見バスから買い受けて、直接の傘下に置いた。

こうして、道内バス会社の東急グループへの参加が進んだ。宗谷バスと北紋バスの間で一部路線の譲渡や「オホーツク急行」(稚内~枝幸~雄武~紋別間)など相互乗り入れによる長距離バス路線が実現し、経営基盤強化や新しい観光ルートの開発につながったのも、同じ東急グループの一員として連携が図られた成果であった。

中山峠を走る定山渓鉄道バス(1973年)
日本最北端の宗谷岬を走る宗谷バス
網走駅前から東藻琴へ向かう網走交通の路線バス
北紋バス 紋別~雄武間の路線バス
斜里バスターミナルに停車中の斜里バス

1964年1月には、斜里町を中心に知床半島などへの路線を持つ斜里バスが当社の傘下に入った。これにより道内の民営バス29社の内当社傘下の会社は合計8社となり、路線免許キロは約3200kmで道内全路線の27.2%を占めることとなった。

2)上信越

北海道と同時期に進出を図った上信越で鉄道・バス事業を担っていた群馬バス、草軽電気鉄道、上田丸子電鉄の3社にも1960年代に大きな動きがあった。

草軽電気鉄道は1962年1月までに業績が不振であった鉄道を廃止してバス輸送に転換し、1966年5月に商号を草軽交通に改めた。上田丸子電鉄は、スキーブームも相まってバス事業の業績が回復する一方、沿線地域の過疎化が始まり鉄道事業の不振が続いた。このため、上田~別所温泉間の別所線(現、上田電鉄別所線)以外の鉄道路線を1969年4月と1972年2月に順次廃止し、別所線とバス事業に軸足を置いた。なお、同社は1969年5月に商号を上田交通に改めた。群馬バスはドル箱路線となる高崎~前橋間の輸送に加え、観光路線の開発を積極的に進めた。また、観光資源開発の取り組みとして、1962年12月に榛名湖畔に「榛名ユースハウス」という宿泊施設を開設(開設時は青少年を対象にした<榛名教育センター>であったが、間もなく一般向けに変更)、さらに伊香保には温泉旅館を開設するなど旅館業にも注力した。当社も1963年に伊香保~榛名山頂間のケーブルカーを持つ伊香保ケーブル鉄道を傘下に収め、群馬バスへ経営委託するなど、業容を拡大した。

  • 上州三原付近を走る草軽電気鉄道のさよなら列車(1962年)
  • 軽井沢駅前の草軽交通バスターミナル
  • 上田丸子電鉄丸子線のさよなら電車(1969年)
  • 群馬バスと前橋出張所(1957年)

3)中京

当社は1964年、名古屋市に本拠を持つ中部観光自動車から経営支援を求められたことから、1965年3月に東急鯱バスを設立したうえで、同年5月に東急鯱バスが中部観光自動車の事業を譲受した。事業内容は観光バスとタクシー事業が主体であった。観光バスは、伊勢志摩、南紀、京阪神、山陰、北陸、信州、伊豆箱根方面の観光ルートを有していた。

このころ名古屋は、名神高速道路と東名高速道路が小牧インターチェンジで結ばれようとする時期にあり(1968年に接続)、中央自動車道の整備も進みつつあって、長距離観光ルートの起点となることが期待されていた。

東急鯱バスは、観光バス事業が同業他社より高収益体質であった一方、タクシー事業は厳しい競争下で苦戦しており、目下の課題は経営再建であった。その策として、1967年2月から特定バスの事業免許を得て、東海製鉄(のちに新日本製鐵。現、日本製鉄)の従業員住宅と製鉄所間と製鉄所構内のバス運行を請け負い、経営の立て直しを図った。特定バスの運行は東急鯱バスの業績を改善させ、1969年度には2600万円の利益を計上した。

タクシー事業については規模の拡大による収益向上や効率化をめざして、名古屋市の新相互交通を1969年10月に買収し、商号を東急鯱タクシーと変更した。これにより、東急鯱バスのタクシーと合わせると名古屋市で名鉄、近鉄に次ぐ業界3位の規模となった。

また新日鉄グループとの関係ができたことにより、その後1970年代には新日鉄系列の日鐵企業、当社、東急鯱バスの3社が共同企業体を組成して、知多半島で宅地開発事業を行うなどの展開を見せることとなる。

名古屋城を背景に東急鯱バス(観光バス、1970年)
東海製鉄構内で運行された特定輸送バス

3-4-3-2[コラム] 長距離路線バス「長野線(渋谷~長野駅)」の開設

東京と地方を結ぶ長距離バスは、五島慶太会長が1948(昭和23)年ごろから抱いていた構想であった。

1954年に会長の特命で、渋谷~長野駅間(231.7㎞)の免許を申請した。この他、東京駅〜静岡駅間、渋谷〜那須温泉間を申請。わが国初の本格的な長距離バス路線の免許だったため、安全性や快適性などの面から慎重に審議された。長距離輸送に耐え得るバス車両の登場と共に現実味を帯び始め、7年の年月を要して、1961年3月に渋谷〜長野駅間のみ免許が得られた。

この長距離特急バス長野線は同年7月に運行を開始した。高崎と軽井沢に途中停留所を設け、午前便は「信濃路」、午後便は「善光寺」の愛称が付いた。冷暖房完備、ロマンスシート、エアサスペンションの採用など当時としては珍しいデラックス車両でもあったことから、夏場には予想を上回る営業成績を収めた。長距離バスではすでに1954年から渋谷〜江ノ島間(56.4km)の運行を開始しており、夏場には長野線に江ノ島線の車両を転用するほどの活況を見せていた。

長野行特急バス「信濃路」の第1便出発(1961年7月1日)
長野線をPRするポスター

しかし、好調は長くは続かず、並行して走る国鉄信越線の輸送力増強(碓氷峠のアプト式運行廃止、電化・複線化など)の影響を受けて、1963年度以降は需要が大きく落ち込んだ。さらに、運行地域の道路整備が進んだことによって自動車交通量が急増して定時制が失われ、遅延が慢性化した。こうした情勢を受けて当社は長野線廃止に踏み切ることとし、長野線は営業開始から約10年、1971年6月にその使命を終えることとなった。

3-4-3-3[コラム] ハイウェイ時代到来の期待を受けて「東名急行バス」が誕生

1965(昭和40)年に全線開通した名神高速道路に続き、東名高速道路の全線開通も控えるなか、わが国では本格的なハイウェイ時代到来を受けて、いっそうの輸送力増強が期待されていた。当社が中心となり、東名高速道路沿道の民鉄・バス事業者12社の資本参加を得て、1967年8月に東名急行バス株式会社が設立された。社長には五島昇が就任し、本社は当社本社内に置かれた。

渋谷駅〜名古屋駅間の高速バスは、東名高速道路が1969年5月に全線開通して間もない同年6月に運行を開始した。当初は渋谷の当社本社社屋脇から発着していたが、渋谷駅西口の混雑を避けるため、1970年10月からは旧玉川線渋谷駅跡地に新設された東急百貨店東横店2階に接続するバスターミナルを発着場所として利用した。

渋谷の当社本社脇のターミナルから出発する東名急行バス(1969年)
渋谷のバスターミナルを出発する東名急行バス(1970年)

東名急行バスは好調なスタートを切ったものの、東海道新幹線が1970年の日本万国博覧会の開催を見据えて車両の長編成化など輸送力の増強を図ったことが打撃となり、利用者数は伸び悩んだ。不採算路線の整理を進めたが抜本的な改善には至らず、1975年3月をもって廃止となった。

「東名急行バス」以外にも当社は、東名高速道路と名神高速道路の小牧インターチェンジの隣接地に子会社の小牧ドライブインを通じて、ガソリンスタンド、ボウリング場やプール、レストランなどを備えた「小牧ハイランド」を1968年5月に開設した。しかしボウリング場業界の過当競争により収益が低下、1975年4月にガソリンスタンドを除き閉鎖している。

3-4-3-4 マイカー普及や過疎化を受けて多角化を図る地方バス各社

当社は伊豆半島では伊豆急行を設立、鉄道を開通し、周辺地域の開発を進めて、鉄道と開発の両輪で不動産事業や観光事業の成果を上げた。しかし、当社が買収した地方バス会社は総じて資本力が乏しく、本業のバス事業が不振の会社が多かったため、その再建が優先された。早くに当社の傘下に入った定山渓鉄道は開発事業を主力事業として成長させていたが、その他の会社は周辺地域開発の余力やノウハウが不十分で、バス事業と開発事業を両輪とする余裕はなかった。

前章でも記したように、北海道に進出した五島慶太は、定山渓鉄道と夕張鉄道を一本化することで石狩平野の東西を結ぶ鉄道の動脈を形成し、これに沿線の観光資源開発も進めさせることを構想していた。しかし現実の北海道は、マイカーが急速に普及し、道路整備も進んだことで渋滞は少なく、鉄道の存在価値は徐々に後退。

定山渓鉄道の電車(豊平駅)

札幌市内の公共交通を担ってきた定山渓鉄道の場合は、単線運転で貨物輸送もあるため運転間隔が開いていたほか、並行する国道の改良が進み、冬季の除雪体制も整ってきたため、旅客はマイカーやバスへ、貨物輸送はトラックへのシフトが進んだ。自動車交通が主体となったことで踏切での事故や交通渋滞が増えたことから、北海道警察が安全対策として20か所以上の踏切の立体化または事業廃止を札幌市や定山渓鉄道に要求した。さらに1972(昭和47)年2月に開催が決まっていた札幌冬季オリンピックに向けて検討が進められた札幌市営地下鉄の建設計画が決定打となり、鉄道事業の廃止が決まった。鉄道用地の譲渡や営業補償、代行バスの運行などに関する札幌市との交渉を経て、1969年10月31日に鉄道線の営業を廃止した。

このようにマイカーの普及は、地方の鉄道、バス各社にとって抗いがたい逆風であったが、これに地域の過疎化による需要減少も加わって、1960年代後半には路線バスの収益が低下。貸切バス(観光バス)も特に北海道では、観光シーズンが夏のごくわずかの時期しかないのが実状で、経営の先行きが見えない時代を迎えた。

こうしたなかで地方バス各社は、経営多角化による生き残りをめざした。1958年に不動産事業を開始した定山渓鉄道は、人口が急増し始めていた札幌の地の利を活かし、1960年代までに札幌市郊外の沿線を中心とした各所で、総面積約130万㎡の土地を買収して住宅地造成に着手し、真駒内地区462区画をはじめとした約4000区画の宅地分譲の販売を行った。多摩田園都市にならって学校や病院も誘致し、バス事業に並ぶ収益部門となった。宅地分譲については1966年から北見バスが、1969年から1971年にかけ、群馬バス、函館バス、網走交通が相次いで開始した。さらに、ガソリンスタンドやホテル経営のほか、前述の小牧ドライブイン・後述の東急レクリエーションと同様に、当時沸き起こったブームを当て込んだボウリング場経営などへの進出もみられた。

上田交通は丸子駅跡にボウリング場を建設

東急100年史トップへ