第3章の概要(サマリー)

 1959(昭和34)年から1969年にかけて、日本は各年の実質経済成長率でたびたび10%を超える驚異的な成長を遂げ、当時の経済指標として用いられていたGNP(国民総生産)で米国に次ぐ2位につけて、世界に冠たる経済大国となった。いわゆる高度経済成長である。1964年にはアジアで初めてのオリンピックを東京で開催。競技施設の建設と共に交通インフラ、生活インフラの整備が急ピッチで進み、日本の復興ぶりを世界に示した。
 当社もまた高度経済成長の恩恵を受けることとなるが、1960年代を迎えた時点では開発事業も鉄道事業も道半ばであり、五島慶太会長亡きあとの当社を率いた五島昇社長の下、一丸となって新たな成長のための基盤づくりに邁進した。
 開発事業では、モデル地区3地区の土地区画整理事業の進捗によって、多摩田園都市の輪郭が見え始め、沿線人口40万人の都市づくりに向けて着実な一歩を記した。とくに開発対象地域を通る田園都市線延伸区間(溝ノ口〜長津田間)の建設を、1966年4月の開通をめざして急ピッチで進めたことで、地元土地所有者の関心もいよいよ高まり、各地で土地区画整理組合の設立が相次いだ。
 伊豆地方の開発もまた、五島慶太前会長から託された一大事業であった。1950年代に構想された東京と伊豆を結ぶ有料自動車道路の整備計画は、国の道路行政方針により箱根ターンパイクのみの開通にとどまったが、伊東と下田を結ぶ鉄道路線は、いくつもの隧道工事を同時並行で行う突貫工事によって、1961年12月に竣工を迎え、伊豆急行として開通。本格的な伊豆観光の時代を迎えた。
 都心部では1956年の首都圏整備法の施行以来、新たな都市像の確立をめざして種々の計画が立案されたが、その一つに、丸の内に集中していた都市機能を周辺都市に分散させる副都心開発事業があった。新宿では淀橋浄水場跡地に高層ビル街が、池袋では巣鴨拘置所跡地にサンシャイン60を中心とする商業施設が誕生していくが、当社の本拠地である渋谷は、整備計画の対象となる区域がなく、首都圏整備法における副都心開発事業からは取り残される格好となった。
 このため渋谷の地位向上を図るべく、地元商店街や町内会、渋谷と縁の深い企業・団体が手を組んで渋谷再開発促進協議会が発足。当社では渋谷駅から離れた大向小学校跡地に東急百貨店本店を出店し、駅周辺に偏りがちだったにぎわいを面として広げる構想を打ち出した。続いて西武百貨店も渋谷に進出。こうして民間主導による渋谷再開発が助走段階を迎えた。
 鉄道事業では地域開発と一体となった新路線の建設を進め、田園都市線が長津田まで延伸、こどもの国線を開業させた。さらに大きな転機となったのは、運輸省に設置された都市交通審議会により、都市部の交通網整備について大局的な視野から検討が行われ、都心部の地下鉄建設推進と、郊外民鉄と地下鉄の相互乗り入れが明示されたことである。
 当社は第1号答申に示された地下鉄2号線(のちの日比谷線)の計画に合わせて中目黒駅を改良、当社と帝都高速度交通営団、東武鉄道の3者による相互直通運転を開始し、創業以来の宿願でもあった都心乗り入れが実現した。さらに第10号答申では、銀座線、丸ノ内線だけでは都心部の交通需要を満たせず、池袋、新宿、渋谷のターミナル駅の混雑がおびただしいという課題を踏まえて、地下鉄11号線が示された。当社はこれに合わせて、銀座線への乗り入れを前提としていた新玉川線の計画を、地下鉄11号線への乗り入れを前提とした計画に変更した。
 新玉川線は、道路渋滞の影響で定時運行が困難になっていた軌道の玉川線に代わる新路線として、さらには多摩田園都市と都心を結ぶ新たな動脈として計画していたものだが、大規模な都市改造が進む折から計画ルートの成案が得られるまでには二転三転した。ようやく1968年にルートが最終決定し、前会長から託された「5つの宿題(詳細は後述)」のなかでも、最後の着手となった。
 営業路線の拡大を進めていた路線バスもまた、道路渋滞の影響などにより路線の再編を余儀なくされ、収益改善のためにワンマン化などの合理化を推進した。
 1960年代は、開発事業と鉄道事業を両輪としつつ関連事業の展開にも弾みがついた時代である。とくに日本人の実労働時間が1960年をピークに減少し始め、観光やレジャーへの関心が高まったことから、東急グループでは旅行・レジャーにかかわる各社が急成長、ホテル新設が相次いだほか、レジャー関連の事業も着実な進展を見た。
 また日本の工業技術の進展によって耐久消費財の国内大量生産が軌道に乗り、庶民にも手が届く安価な商品が出回り始めたことから、三種の神器(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)に続いて3C(カラーテレビ・クーラー・自動車)の普及が進み、これに食品流通の進展も加わって、流通小売業に大きな変化が生まれ始めた。
 流通業界は1960年の時点で百貨店が王者として君臨し、地域生活に密着した小売店は個人商店が主流をなしていたが、やがてセルフサービス方式とワンストップショッピング(1か所で買い物を済ませることができる)、大量廉売に特徴を持つスーパーマーケットが台頭、「流通革命」の兆候が現れ始めた。東急グループとしても、百貨店の充実を図ると共に、多摩田園都市など開発地域におけるショッピング機能の充実も視野に、スーパーマーケットの出店を加速させた。
 また、東急不動産が当社と連携を図りながら分譲地販売のみならずビル賃貸業で着々と実績を重ねたほか、同社から東急建設、東急エージェンシーが独立して自律的な成長を見せた。一方、東映が東急グループから離れたほか、当社本業とのかかわりが少ない製造業を中心に再編成が進んだ。
 こうしたなか五島昇社長は、鉄道・バスに航空を加えた交通事業、地域開発事業、観光サービス事業、流通事業の四面からなる「三角錐体経営」を唱え始め、東急グループの向かうべき方向性を示すと共に、関連会社に対しては5年以内の1割配当を指示するなど、グループ経営の強化に乗り出した。そして国内での実績を礎に、やがて海外での事業展開も視野に入れていくこととなる。

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