第3章 第5節 第2項 観光・レジャー事業の進展
3-5-2-1 東急観光の成長と東急航空
1960年代は、観光旅行の需要が大きく伸び始めた時期である。当時は修学旅行や団体旅行が中心で、利用交通機関は国鉄が圧倒的に多く、近場の旅行ではバスガイド付き貸切バスも好まれた。
当時、東急事業団(東急グループ)において旅行業を営んでいたのは1956(昭和31)年設立の東急観光と、1954年設立の東急航空である。この内国内旅行を主とする東急観光は、案内所(営業所)の全国展開と取扱額の拡大により、国鉄の団体旅客取扱指定業者ならびに国鉄団体乗車券の発売会社となり、たちまち大手旅行業者の一角に入って1960年代を迎えた。
その後も営業所拡大のペースは衰えず、1969年末には北は北海道から南は鹿児島まで80か所超の営業所を展開。事業規模を示す取扱額は1960年度の31億円から1969年度の156億円へと大きく成長した。設立当初こそ旅館食堂業に経営を依存していたが、156億円の内152億円が旅行業によるものになり、旅館食堂業は付帯事業の位置づけとなった。
一方、旅行商品は鉄道やバスなどの交通機関や宿泊施設といった、商材を組み合わせて販売するものであることから、手数料収入が利益源であるが、利幅が薄いという宿命を持っており、業界で圧倒的なシェアを誇る日本交通公社でも1963年度まで赤字決算が続いていたとされる。(※)
※ 土井厚『旅行業界』教育社、1984年
東急観光も設立以来赤字が続いていたが、国鉄商品の取扱開始と、前章で述べた国際線航空券取扱事業者の東急航空との合併(1960年1月)により国内旅行、海外旅行、輸出入貨物取扱、旅館食堂業の部門を持つこととなったことから、1960年度以降は最終黒字に転じた。1960年2月には日本航空、全日本空輸と航空券販売委託を締結した。景気拡大によるレジャーブームの後押しを受けて利益が拡大し、1965年度には累積赤字を解消、待望の1割配当を実現して、1966年春には、この年に初めて設けられた関連事業会社の会社表彰制度による「東急経営三賞」において「経営功労賞」を受賞した。
国内旅行の需要が高まる一方、海外旅行についても潜在需要は底堅かったが、1964年までは海外渡航回数や外貨の持ち出しが制限されており、海外旅行についてはいわば揺籃期、始まりのころにあった。東急観光は海外旅行の取り扱いも含めた総合観光業をめざして、東急航空といったんは合併して東急観光航空部としていたが、前述のような制限により航空部の業績はふるわず、1962年にはこれを分離して同名の東急航空として独立させた経緯がある。
その後、1963年4月から海外への渡航制限が段階的に緩和され、外貨持ち出しの枠も徐々に広がって、海外旅行の需要が立ち上がり始めた。
これに呼応して国際線にジェット機を就航させていた日本航空は1965年、海外旅行のパッケージツアーを「ジャルパック」としてホールセール(卸売販売)を開始。添乗員付きで、日本語しか話せなくても海外旅行が楽しめる、月賦が利く、1人でも参加できるなどの特徴から爆発的な人気を呼んだ。日本航空はIATA (国際航空運送協会)加盟の東急航空など11社を代理店としていたが、IATAに加盟していない東急観光は加盟している東急航空と提携して旅行者を募集しなければならなかった。これがのちに、両社が再び合併すること(1972年)につながる。
なお東急観光でも1966年から東急航空との提携で海外募集型企画旅行の販売を開始し、のちのトップツアー(TOP TOUR)の原型となるが、「ジャルパック」(日本航空)、「ルック」(日本交通公社)といった他社の海外パッケージツアー商品に大きく先行されていた。
3-5-2-2[コラム] 東急タワー大食堂
東急観光は、前述の星ヶ丘茶寮や伊豆今井浜の真砂荘(のちに同社による改装、増築により、1963<昭和38>年7月に今井浜東急ホテルとして開業)などさまざまな旅館や飲食店の経営をしていたが、特筆すべきものに東京タワー内の「東急タワー大食堂」があった。これは、東京タワーが竣工した1958年12月に、200席の無料休憩所を兼ねた食堂として開業したもの。東京タワーの建設にあたり、日本電波塔株式会社から当社に対し、タワー1~2階に設置される観光客用の食堂経営の依頼があり、当社がこれを借り受けて東急観光に転貸し、その経営を任せた。開店以降は修学旅行団体などに利用されて好調に推移し、1964年4月には440席に拡張されて、一時は欠損を抱えていた旅館食堂部門の利益計上にもつながった。1968年12月からは当社を介さず、日本電波塔と東急観光が直接、賃貸借契約を結ぶ形となった。1990年代のバブル経済崩壊後に同社の事業整理が進むなか、旅行業以外の付帯事業で唯一残っていた直営事業であった。この食堂は、東急観光が東急グループを離脱した2004(平成16)年以降も「タワー大食堂」として営業が続いていたが、2009年12月末をもって51年の歴史に幕を閉じた。
3-5-2-3 箱根ターンパイクの開通と周辺地区の開発
都心と富士・箱根・伊豆方面を有料自動車道路で結んで、国道1号線の混雑緩和ならびに長距離バス運行と観光ルート形成を目的に、当社が1954(昭和29)年と1957年に事業免許申請を行っていたターンパイク3路線は、前章でも記したように、1956年の日本道路公団設立、第三京浜道路や西湘バイパスの具体化により計画変更を余儀なくされた。国土を横断・縦貫する主要な高速道路や有料自動車道路は国家事業として同公団により推進されることとなり、1960年5月、箱根ターンパイク(小田原市早川〜箱根町大観山付近)だけが免許されるにとどまった。
当社は直ちに測量および設計を進めて1962年10月に着工、並行して用地買収を行いながら、全5工区に分けて建設工事を行った。1965年7月に全長13.8kmが開通し、同月22日に開通式と記念行事のヒルクライムレースを開催、翌23日に営業を開始した。箱根側の大観山には大食堂を有するレストハウス(大観山スナック)を開業した。
箱根ターンパイクは大半が箱根外輪山を尾根伝いに通るルートで、小田原側から進むと湘南海岸から三浦海岸、大島までの眺望が楽しめ、白銀山や大観山へと向かうにつれて富士箱根伊豆国立公園・箱根エリアの景観を堪能できる、格好の観光ドライブコースである。四季折々の森林美が楽しめ、周辺には太閤一夜城とも呼ばれる石垣山一夜城などの史跡もあり、豊富な観光資源に恵まれていた。
当社は箱根ターンパイクの計画と並行して、ルート南側にあたる湯河原町吉浜地区の地域開発に着目し、同地の土地取得契約を湯河原町との間で結んでいた不動産会社、吉浜開発を1957年に買収していた。道路建設が進みつつあった1963年5月、吉浜開発の社名を箱根ターンパイクと改め(さらに1966年12月に東急ターンパイクに変更)、同社が開発事業とターンパイク事業を併せて行うこととした。当時の計画によれば、箱根外輪山の東南にあたる白銀山の南側にゴルフ場やスケートリンク、動物園、クレー射撃場など観光施設を開設して、ロープウェイやモノレールで結び、別荘分譲地を設けて奥湯河原温泉地を開発する構想であった。
箱根ターンパイクは、当社にとって初めての道路事業である。建設費などの初期投資には多額を要するも、開通後には人件費を抑制できるのが鉄道事業との大きな違いで、通行料収入さえ上がれば採算が十分にとれ、沿線地域の開発と相まって大きく成長できると目算されていた。
しかし、開通後の自動車通行量は、事前の予想を大幅に下回った。それは箱根ターンパイクの起点側(小田原)と終点側(箱根)での主要道路とのアクセスが不便だったためである。1967年10月に終点側延長線(大観山〜十国道路、湯河原パークウェイ接続部)が一部開通、1972年1月に起点側で西湘バイパスと接続して、増収は図られたものの抜本的な収支改善にはつながらず、赤字は膨らむ一方であった。
東急ターンパイクの財務内容が深刻化するなか、1972年3月に当社は東急ターンパイクが所有する開発用地などの土地ならびに有料自動車道を買い上げ、自動車道の営業を同社に委託する形とした。
この間、富士箱根伊豆国立公園の北西側に位置する御殿場・裾野地区に着目し、ここに富士高原都市の開発を計画して、1968年4月から対象地域の買収を開始した。同地区には国道246号と東名高速道路が通っており、御殿場には東名高速道路のインターチェンジが計画されていた(1969年御殿場インターチェンジ供用開始および全線開通)。都心から100km圏内にあり、富士の自然を背景に生活を楽しむには絶好の地であり、セカンドハウスとしての需要も見込まれた。
富士高原都市の具体的な開発計画が策定されて本格的に始まるのは、1970年代半ばのことである。
3-5-2-4 レジャー関連分野の台頭
1950年代後半の高度経済成長期を通じて所得を拡大させた日本人は、余暇時間の過ごし方、楽しみ方にも徐々に関心を向けていった。大手企業の一部で週休2日制が導入され始めたことも新たな変化であった。そして、「レジャー」という言葉が注目され始めたのは1960年代初頭のころであり、映画・演劇鑑賞やギャンブルなどを包含する意味合いから、旅行やハイキング、アウトドアなどがレジャーの概念として定着していった。東急事業団(東急グループ)では、東急観光のほかにレジャー関連事業にかかわってきた代表的な企業は、映画興行を経営の柱とする東急文化会館(渋谷パンテオン・渋谷東急・東急名画座・東急ジャーナルの4館を運営)と新日本興業(新宿東急文化会館にてミラノ座、新宿東急の2館、中野などで映画館5館を運営)である。
映画興行は、1958(昭和33)年に最盛期を迎えたあと、テレビの普及などによって下降し始めており、人件費などの費用の増加や、設備増強に伴う金利・減価償却費の増加によって利益率が低下しつつあった。このため経営規模を拡大して合理化を図り、付帯事業の強化にも取り組むこととし、新日本興業は新宿東急文化会館の隣接地に新宿ミラノ新館を建設、1965年12月に遊技場やダンスホールで構成される娯楽センターを開業した。そして、映画興行は一本化を図ることとし、1966年8月にまず東急文化会館と上野東急(1956年12月設立、開業)が合併、さらに同年11月には新日本興業と東急文化会館が合併して、前者が存続会社となった。
これにより新日本興業は映画館12館やアイススケート場、遊技場、料飲店などの運営のほか、東横や東光ストア、その他テナントからの賃貸収入を得ていた東急文化会館(渋谷)の付帯事業も継承することとなった。しかしアイススケート場の業績不振、一部映画館や新宿ミラノ新館の利用者減少により、合併後の決算で10%配当から無配に転落したため、徹底した合理化と不採算部門の整理を実施、映画館1館の閉鎖や製氷事業の撤退、新宿東急文化会館のアイススケート場の閉鎖を行った。当時ブームに沸いていたボウリング事業に進出することとし、アイススケート場の跡には、1967年12月に「ミラノボウル」を開業した。こうした企業体質の改善や新規事業への進出が功を奏し、1968年度(1968年2月~1969年1月)決算で配当12%を実現するまでに業績好転を見た。
1969年3月、新日本興業は商号を東急レクリエーションと改め、レジャー事業を多角的に推進し、時代の要請に応える東急グループの企業としての骨格を整えた。なお、好業績のボウリング事業は1970年代前半に各地へ展開していくこととなる。
白馬観光開発の業績向上にも目を見張るものがあった。同社は1958年7月の設立以来、八方尾根スキー場を経営してきたが、続けて栂池高原の開発を進めて、1962年11月に親の原スキー場、これと隣接して1964年12月に栂池高原スキー場を開業した。さらに、八方尾根と栂池高原の中間にあたる岩蕈山(いわたけやま)に岩岳スキー場を1966年12月に開業した。八方尾根と栂池高原のスキー場がどちらかといえば上級・中級者用のスキー場であるのに対して、岩岳スキー場は初心者にも親しみやすいなだらかな傾斜が特徴であるため、これにより初級者向けから中上級者向けまで、変化に富んだ多様なスキーコースが整った。スキー人口が着実に拡大を見せるなかで、白馬観光開発のスキー場は国内スキー場のなかでも高い人気を獲得し、同社は1966年度以降、10%を超える配当を継続できるまでに成長した。
レジャー関連事業で、もう一つの柱になっていくのがゴルフ場事業である。1961年にスリーハンドレッドクラブを設立し、茅ヶ崎市に18コースを設けて翌1962年7月に開業。縁のある個人会員のみのゴルフクラブとし、国内トップクラスの格調高いカントリークラブとして名を馳せるに至った。
1955年12月に開業、9ホールのパブリックコースと練習場を備え、年間10万人の利用があった世田谷区の砧ゴルフ場は、当社が社有地にゴルフ場を建設したうえで、土地、施設共に東京都へ寄付し、約10年にわたり都から経営を受託してきた。しかし、都が公園緑地化計画に伴い、当社にゴルフ場としての利用終了と土地明渡しを求めたため、1966年4月15日に砧ゴルフ場を閉鎖し、土地を返還した。跡地は緑地公園(ファミリーパーク)として整備が進められ、現在では都立砧公園となっている。
また、前述した目黒蒲田電鉄時代の1931年に開場したゴルフ場(1932年等々力ゴルフコースに名称変更、1939年閉鎖)と同じ名称で1958年9月に開業したものが玉川ゴルフコースである。多摩川河川敷の両岸に18ホールのコースを備えた会員制のゴルフ場であったが、こちらも国による公園緑地化計画により、9ホール分の土地を返還した。会員制の形態での経営が維持できなくなったことから、玉川ゴルフコースは1967年12月に閉鎖および会社を解散した。そこで、休眠会社にあった東急ゴルフ場が、残る土地(9ホール)を譲受し、公園緑地化の趣旨に沿って事業を再開することとした。1968年1月1日にパブリックコースとして社名と同じ東急ゴルフ場(現、東急ゴルフパークたまがわ)を開業した。クラブハウスやレストランなどの施設は世田谷区にあるが、ゴルフコースは対岸の川崎市にあるため、プレーヤーは渡し船で多摩川を渡っていた。渡し船の運行は現在終了し、川崎側の8ホールで営業しているが、都心に近く気軽に楽しめるコースとして親しまれている。