第3章 第2節 第2項 田園都市線延伸区間の開業と新玉川線の建設開始

3-2-2-1 溝ノ口〜長津田間の建設着手と開業

1960(昭和35)年9月、大井町線の延伸区間(溝ノ口〜中央林間間、延長20.1㎞)の敷設免許を取得した。着々と土地区画整理事業が進みつつある多摩川西南新都市、すなわち多摩田園都市の住民の足となる新路線である。当社ではこれを受けて具体的な建設ルートの選定を開始。起伏が連続する多摩丘陵を縫うように隧道や高架橋を設け、区間内を交差する道路とは立体交差を前提として高速鉄道に適した線形で設計を行った。免許申請時は単線で計画していたが、土地区画整理事業の伸展を背景に、施行申請時には複線とすることにした。

工事は、ルート選定の状況や沿線の開発状況などを鑑みて2期に分けて行うこととし、まず国鉄長津田駅に連絡する溝ノ口〜長津田間を第1期工事として工事施行申請を行い、1963年5月に認可された。同年10月11日、鷺沼駅および車庫予定地で起工式を挙行。同日に大井町線を、延伸区間も含めて「田園都市線」と改称した。併せて、多摩川西南新都市計画の区域を、正式に「多摩田園都市」と命名した。

第1期工事区間14.2kmは6工区に分け、鉄道用地の確保ができている各所からいっせいに工事に着手、1966年春の開通を目標に、急ピッチで工事を進めた。丘陵を切り開き、隧道を掘り進め、高架橋を組み上げ、そして駅舎や軌道を設置していく様子は社内報『清和』で毎号逐一報告され、新線開通への期待は高まった。

図3-2-3 田園都市線計画路線図
出典:『東京急行電鉄50年史』
  • 田園都市線建設工事(宮前平駅付近、1964年12月)
  • 田園都市線建設工事(市ヶ尾隧道、1964年12月)
  • 田園都市線建設工事(藤が丘駅付近、1965年10月)
  • 田園都市線建設工事(田奈駅付近、1965年8月)

鉄道用地は、土地区画整理事業区域については換地ないしは保留地を取得し、その他は当社単独買収を行うことで確保した。着工時点で約60%を確保していたが、用地の確保に難航したところもあった。

とくに現在の長津田駅東側は、東京芝浦電気(現、東芝)が横浜市の斡旋により関係地主と地元住民の賛意を得て工場用地として取得し、建設に着手するところだったことから、事務レベルでの交渉は暗礁に乗り上げ、最終的に同社石坂泰三会長と五島昇社長のトップ会談により、1965年2月に解決を見た。同社から買収した土地(約9万5000㎡)の内鉄道用地(約1万㎡)以外については都市施設の建設に充てることとした。これが一団地造成事業による住宅地、長津田ニュータウンである。長津田駅構内の国鉄用地払い下げも難航したが、代替地を用意することで、1965年秋には解決した。このほか元石川町などでは土地収用法による裁定を仰がなければならないケースもあった。

田園都市線工事の進捗を伝えるポスター(1965年2月)

田園都市線延伸区間の新設駅は当初7駅を予定していたが、地元の要望と駅間距離を考慮して最終的には11駅となった。これらの駅名は、地名が用いられたが、異色の命名となったのが仮称段階で元石川駅と呼称していた「たまプラーザ駅」である。五島昇社長の発案で、広場のにぎわいを中心に街が広がっていくことを願い、スペイン語で広場を意味する「プラーザ」を駅名に盛り込んだ。各駅のホームは4両編成に対応するものとして建設したが、将来の8両編成を見越して用地を確保したのも特徴である。なお当社路線の駅名表記は、1966年1月をもって「ノ」を「の」に、「ヶ」を「が」に変更した。

所属車両は新たに7000系30両を新造し、田園都市線で合計100両とした。運輸・車両関係の事業場は、自由が丘が手狭となったため、鷺沼に総合事務所を設け、ここに電車区・車掌区・検車区のほか電力区・信号区・保線区などを移設した。

田園都市線延長線区間の建設と並行して、既設の上野毛〜高津間の改良工事も進めた。この改良区間では盛土と高架橋により高架線路としたが、なかでも大規模工事であったのは多摩川を渡る二子玉川園〜二子新地間の複線化であった。これまで多摩川を渡る二子橋は鉄道と道路の併用橋となっており、鉄道の単線と自動車、歩行者が同じ橋を共用していた。当社は下流側に鉄道線専用の橋梁を新たに架設して複線を確保することで、運転速度や安全性を向上させた。単線時代は7分間隔が限界であったため、他路線に先駆けて4両編成運転にするなどしてこれまで苦心していた同区間における輸送力の確保や、所要時間の短縮(専用線化により運転速度が向上、1分20秒短縮となった)といった課題もようやく克服することができた。

  • 上野毛~高津間改良工事(二子玉川園駅付近、1964年)
  • 道路併用橋時代の二子橋(1964年12月)
田園都市線延長開業後の二子橋

延伸区間は予定通り1966年4月1日に開通した。二子玉川園駅前で竣工式、装いを新たにした溝の口駅で開通式、青葉台駅前で祝宴会がそれぞれ挙行され、盛大な開通式典となった。さらに翌4月2日には駅前の当社経営の遊園地である二子玉川園にて地元関係者を対象にした招待会を実施した。伊豆急行を除き、自社路線開通は戦前の東横線高島町〜桜木町間以来となるが、何よりも地元にとっては待望久しい鉄道開通であった。

田園都市線溝の口~長津田間開業祝賀電車 溝の口駅(1966年4月1日)
田園都市線溝の口~長津田間開通祝宴会 2回に分けて2500人を招待した(青葉台駅前広場、1966年4月1日)

3-2-2-2 田園都市線の延伸と、こどもの国線開業

長津田までの延伸開業から間もない1966(昭和41)年9月、当社は第2期工事として、長津田〜中央林間間、5.9㎞の工事施行認可申請を行い、翌1967年4月に認可を得た。この路線は多摩田園都市開発の町田市と大和市にまたがる第4ブロック(多摩川西南新都市計画の開発ブロックが見直され、新たに設定された第4ブロック。詳細は第3節を参照)を東西に貫通するルートで、1960年に町田市鶴間の一部で土地区画整理組合の設立準備が始まるなどしていた。

図3-2-4 田園都市線長津田~中央林間間の計画線と新たに設定された多摩田園都市第4ブロックの位置図
出典:『多摩田園都市 開発35年の記録』

第4ブロックで最も東側に位置する小川第一地区は、1965年に土地区画整理組合の設立が認可され、後述するように東急不動産が組合から業務一括代行方式で土地区画整理事業を受託した地区の一つである。開発計画には当初段階から田園都市線の延長を織り込んでおり、1968年春には区画整理事業が完成する予定であったことから、東急不動産からの要請も踏まえ、第2期工事は、長津田から小川地区までの開通を急ぐこととし、1967年6月に着工した。その後、同地区の町名が、一般公募にて「つくし野」に決定されたことから、駅名も「つくし野駅」に決定した。長津田〜つくし野間1.2㎞の開通は1968年4月1日で、同日開催された祝賀会では、「つくし野」の町名選定の選考委員会メンバーでもあった画家の岡本太郎も祝辞を述べている。同月25日には東名高速道路が部分開通し、第4ブロック南側に横浜(現、横浜町田)インターチェンジが設けられた。

  • 竣工間際のつくし野駅(1968年3月) ※長津田~つくし野間は当初単線で開業
  • 長津田~つくし野間開業でテープカットする五島昇社長(長津田駅、1968年4月1日)

延伸工事を進める一方で、1967年4月、田園都市線の支線ともいえる長津田〜こどもの国間3.4kmのこどもの国線を開業した。

「こどもの国」は、子供たちの健全育成を目的として作られた児童厚生施設で、1965年5月に開園したものの、交通の便に恵まれず、田園都市線や小田急線の駅からのバス輸送に頼っていた。同地は旧日本陸軍の田奈弾薬庫跡地で、引込線と共に、戦後米軍が接収を続けていたが、当時の皇太子殿下(現、上皇陛下)ご成婚の記念事業として、「こどもの国」建設計画が持ち上がり、1961年に米軍から返還を受けたものであった。

当社では1957年以降、ここを多摩田園都市開発計画区域に加えたいと考えていたが、同敷地と引込線の払い下げは叶わず、こどもの国建設が決まったのちも地方鉄道敷設免許申請と払下願を提出した経緯がある。

開園後2年間で約200万人の入場者を数え、青葉台駅などからのバス便輸送の混雑や不便の解決が望まれた。そこで、同施設を運営するこどもの国協会(現、社会福祉法人こどもの国協会)と当社が協力し、協会が鉄道敷設免許を取得、当社が協会から建設工事の設計と施工を受託し、鉄道線の貸与を受けて営業することとなった。既設引込線の改良工事と電化工事が主たる工事内容で、1967年4月7日の着手後、1か月を待たずに同月28日、開通を迎えた。開通当初は中間駅のない路線であった。

開業日の祝賀花電車(こどもの国駅、1967年4月28日)
こどもの国のシンボルマークを付けて走るこどもの国線電車(1967年)

その後、当社は長津田駅とこどもの国駅の中間に長津田車両工場を建設することとし、1969年10月に着工した。これまで、1928年に完成した元住吉工場で全車両の定期検査を行ってきたが、輸送量増強による車両数の増加で対応が限界となり、新たな車両工場を同地に求めることとなったものである。最新鋭の設備を整えた長津田車両工場は、1972年10月に操業を開始した。

新設した長津田車両工場(1976年)

3-2-2-3 紆余曲折を経た新玉川線のルート

五島昇社長が引き継いだ「5つの宿題」の内、結果的に最も重い宿題となったのが新玉川線(渋谷〜二子玉川園間)の建設である。1959(昭和34)年2月に免許を受け、1964年2月に部分的に着工、現ルートでの建設工事が始まったのが1969年5月、全線開通が1977年4月という歳月の長さが、宿題の重さを物語っている。一連の経緯については『新玉川線建設史』に詳細が記されているが、ここでは要点を絞って記しておく。

1)免許線(一次ルート)から工事施行認可線(二次ルート)まで

玉川線は、戦後間もなく専用軌道化を計画したことがあった。1946年5月に渋谷~三軒茶屋間を、1950年10月に三軒茶屋~二子玉川間を、いずれも軌道法による工事方法変更で併用軌道から新設軌道への変更を認可申請、高架化も含めて計画し、申請したが、いずれも審議未了のまま保留された。

玉川線の輸送人員は、1958年度の年間6457万人を最高に、頭打ちとなり、1963年~1965年度は年間6200万人台で推移していた。しかし、先述した連接車・200形の導入(1955年)は玉川線の混雑解消が目的であり、同時に朝間ラッシュ時の運転間隔を2分から1分38秒短縮していたが、輸送人員は頭打ちとはいえども最高時から5%程度の減少に過ぎず、これ以上の輸送力増強は難しかった。また、自動車交通の増加による道路渋滞で定時運行が困難になったことに加え、積載量が多いトラックの通行による軌道の損傷も激しく、道路を共用して走る路面電車の限界は誰の目にも明らかであった。

当社が1953年に城西南地区開発趣意書を発表し、都市交通審議会が1956年に第1号答申で郊外民鉄と地下鉄の乗り入れを提案したことにより、玉川線の専用軌道化計画は新しい段階を迎えた。すなわち、新たに建設する玉川線の専用軌道と地下鉄との相互乗り入れという、郊外と都心を高速鉄道で結ぶという五島慶太時代からの宿願が現実味を帯びてきたのである。

これを形にしたのが前章でも触れた新玉川線の最初の計画、すなわち銀座線(地下鉄3号線)との乗り入れを前提とし、路線の一部に東急ターンパイクとの併用高架橋を盛り込んだ1956年7月の免許申請である。この免許は1959年2月に下りたが、付帯条件がつけられた。一つは、免許路線の内渋谷〜三軒茶屋間を当時は東京都の所管であった都市計画道路放射4号線(現、国道246号)のルートと一致させること。もう一つは1964年の東京オリンピック開催に間に合わせること、それを前提に1年以内に工事施行認可を申請することだった。

図3-2-5 新玉川線の第1次免許ルート
出典:『多摩田園都市 開発35年の記録』

当社は1959年2月、新玉川線建設部を設置して、ルート選定と具体的な設計作業に入り、現地測量を開始。前述の付帯条件を踏まえて渋谷〜三軒茶屋間の大半を地下化し、三軒茶屋から用賀付近までは蛇崩川沿いの高架橋とする案(二次ルート、蛇崩川ルートとも呼ばれる)をまとめた。これに対して地元の世田谷区側からは全面的に地下化することが要望されたが、工事施行認可の申請期限が迫っていたため、将来的な変更の余地を残しつつ、1960年2月に工事施行認可を申請、翌1961年8月に認可された。竣工期限は1964年8月で、東京オリンピック開催前までの短期間での工事完了が求められることとなった。

だが、工事にすぐに着手できる状況ではなかった。放射4号線では、道路新設区間(駒沢以西)は進んでいたものの、既設道路の拡幅、とくに三軒茶屋周辺で用地買収が滞っていた。その間に新玉川線の二次ルート、蛇崩川ルート内の空地には次々と建物が建てられてしまい、オリンピックまでの完成は事実上不可能となった。

図3-2-6 新玉川線の工事施行認可申請ルート
出典:『多摩田園都市 開発35年の記録』

こうしたことから1962年6月、当社は渋谷~三軒茶屋間を全面地下化する方針を決定、7月に同区間の工事着手届を提出、さらに8月、同区間が放射4号線の地下にあたることから、道路の使用に基づく鉄道敷設許可申請書を提出した。そして、ようやく1964年2月に用賀の車庫予定地で起工式を行うに至った。オリンピック前には、渋谷〜三軒茶屋間の中間にあたる大橋付近でシールドマシンの立坑を掘削するための準備にとどまり、本格的な工事はオリンピック後となった。

オリンピックを終えてからも新たな問題が浮上した。滞っていた放射4号線の拡幅工事は1963年9月までに完成していたが、新たに1966年7月に首都高速道路3号線(以下、首都高速3号線)の渋谷〜用賀間の延長が都市計画決定されたのである。首都高速3号線は、終点であった渋谷の当社本社前から延伸し、東名高速道路の東端につなげ、すでに開通していた名神高速道路を経て東京〜西宮(兵庫県)間の大都市間交通を完成させる計画であった。渋谷〜三軒茶屋間は、首都高速3号線のルートと新玉川線ルート(二次ルート、蛇崩川ルート)、そして路面電車の玉川線がほぼ重なっていた。

このため当社は首都高速道路公団との間で協議を重ね、首都高速3号線の下部工事と新玉川線の隧道工事を一体的に進める案が検討された。だが工事の都合上、玉川線の軌道を撤去しなければ、この案は成立しない。そこで玉川線をいったん地下に通して隧道を新玉川線に転用する案、玉川線を一時的に平面移動させる案も俎上にのぼったが、工期や費用負担などの問題から、この調整は単純には進まなかった。

2)地下鉄11号線と最終ルート(三次ルート)の決定

八方ふさがりとも見られる状況のなかで、当社では新たな打開策の検討が進んでいた。後押ししたのは、1966年4月の田園都市線延伸区間(溝の口〜長津田間)の開通である。多摩田園都市の開発は着々と進んでおり、沿線住民の利便性向上の必要性が高まっていた。

沿線住民が都心に出るには、二子玉川園駅で新玉川線に乗り換えるか、自由が丘駅で東横線に乗り換えるかなどの乗り換えの不便が伴っていた。また、前述の田園都市線(現、大井町線区間)と地下鉄6号線(のちの都営三田線)との乗り入れを想定して1964年4月に路線免許申請をしていた桐ヶ谷~泉岳寺間について、都市交通審議会の部会では異を唱える動きが出ていた。

このため、当社は、免許申請時の銀座線乗り入れを前提とした標準軌(1435㎜)および第三軌条方式による集電方式ではなく、田園都市線と同様の狭軌(1067㎜)およびパンタグラフによる集電方式を踏襲した新玉川線を建設すると共に、同様の方式による新たな都心方面への地下鉄路線を整備して乗り入れすることで、同じ電車に乗ったまま都心に向かう構想を立てた。銀座線は戦前に建設された、トンネル断面や車両が小さな地下鉄であることから、輸送力の増強には限界があり、多摩田園都市住民の輸送には足りないため、渋谷から都心へ向かう地下鉄新路線の建設を働きかける必要性があると判断した。

当社は、この新たな構想を1967年半ばから関係各方面への打診を行い、同年12月には都市交通審議会に五島昇社長自らが出頭して公述した。翌1968年4月の都市交通審議会第10号答申で地下鉄11号線として、二子玉川園〜渋谷~神宮前(現、表参道)~永田町~九段下~神保町~大手町~蛎殻町(現、水天宮前)が設定され、当社の新たな構想が実現に向けて大きく動き出した。これが新玉川線と営団地下鉄半蔵門線となる。

このあとも関係機関との種々の協議はあったものの、当社はこれを機会に、首都高速3号線建設工事との干渉を避けるために、現在の世田谷線となる三軒茶屋~下高井戸間を除いた玉川線と砧線を廃止して代行バスで輸送を確保すること、地元の強い要望に応えて渋谷から二子玉川園駅手前の瀬田付近までのほぼ全線を地下化する(第三次ルート)ことを決断。1968年8月に建設省都市局および道路局、首都高速道路公団、東京都と覚書に調印して、これを公表した。地下鉄11号線が都市計画決定されたのは同年12月のことであった。

図3-2-7 新玉川線ルートの変遷
注:『新玉川線建設史』をもとに作成

3-2-2-4 玉川線の廃止と新玉川線の建設着手

1969(昭和44)年4月26日に玉川線と砧線の廃止が許可され、当社は首都高速3号線の延伸工事が始まる前日の5月10日をもって両線の営業を終了することとした。5月8日からの3日間は「さようなら玉電」と装飾された花電車が運行され、最終日は土曜日と重なったこともあって、多くの沿線住民や鉄道ファンが別れを惜しんだ。

花電車にお別れのあいさつをする人でうまった沿道(三軒茶屋付近)
さよなら電車と盛大な送別を受ける乗務員(用賀駅)

二子玉川園と砧本村を結ぶ砧線も同時に廃止としたが、三軒茶屋と下高井戸を結ぶ世田谷線は首都高速3号線の工事に影響がなく、また自動車などの影響を受けない専用軌道が大半であることから存続することとした。

砧線でも花電車が運行され、小学生の見送りを受けた(中耕地~吉沢間)

一方、新玉川線建設のための準備は、関係機関と工事内容の調整について細部の協議を行い、覚書や協定の締結などを経ながら着々と進めた。

新玉川線の延長9.6kmの大部分を占める地下部分の建設工法は、地表から隧道を掘る開削工法、円形の鉄枠を推進しながら掘り進めるシールド工法の2つを、区間に応じて適用することとした。第一期工事の内容は、大橋付近のシールド基地(シールドマシンの発進基地となる立坑)構築、大橋付近から中里までの開削工法区間約2.7km、駒沢シールド基地およびその駅部と新町付近の構築2か所の合計約3kmである。開削工法区間の内約2.5kmは箱型隧道とし、首都高速3号線の橋脚、建設省が計画していた共同溝も一体構造として設計、3種の工事を同時に進めたのが大きな特徴であった。

折しも1970年4月、大阪の地下鉄工事現場でガス爆発による大惨事が起きたこともあって、工事の安全性確保には細心の注意が払われ、監督官庁や道路管理者、ガス会社、施工業者などとの連携を密にとりながら工事を進めた。第一期工事の完了は1971年12月、同月には首都高速3号線が東名高速道路と結ばれて開通した。

高速3号線と同時に新玉川線の工事が進められた中里付近(1969年)
工事中の三軒茶屋付近(1969年ごろ)

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