第3章 第1節 第2項 グループ経営の枠組み形成

3-1-2-1 東急グループの陣容拡大

1960年代は東急グループ各社がそれぞれ成長を始めた年代である。東急グループ全社の総売上高は単純合算で1959(昭和34)年度に937億円であったが、10年後の1969年度には約4倍の3896億円となった。各社が地力をつけて市場を開拓し、グループ外の企業からも評価を得て取引を拡大させていった結果であった。

前述のように東急不動産は、本業の不動産事業が順調に成長を遂げるなかで、付帯事業を分離・独立させることとなり、1959年に東急建設、1961年に東急エージェンシーが設立された。

東急建設は、元々は当社が戦後復興のための建設会社として1946年に設立した東京建設工業が前身である。設立間もない東急不動産の業績を安定させるために、東急不動産に東京建設工業を合併させ、付帯事業として実力を蓄えてきた。

1959年に東急建設として独立した直後は、東急不動産時代の受注残工事と当社事業所の建設などで経営の安定化を図りつつ、伊豆急行線の建設工事では全10工区の内1工区を元請けして隧道工事などで活躍、多摩田園都市の宅地造成や東急不動産の事務所や商業ビル・集合住宅建設も数々手がけた。高度経済成長期ならではの旺盛な民間建設需要に支えられたほか、東海道新幹線や高速道路など官公庁関連の受注も着々と増えて業績を急拡大させ、1969年度には売上高493億円、当社関連会社のなかでも東急百貨店(529億円)に次いで2位の業績を収めるに至った。

東急建設が担当した初の超高層ホテル「ホテルパシフィック東京」

目覚ましい急成長と数次の増資を経て東急建設は1963年9月に東京証券取引所第二部に株式を上場、さらに1967年8月には第一部に指定替えを果たした。技術面では独自工法の開発にも取り組み、のちには住宅が密集した都心周辺での鉄道立体交差化工事で卓越した技術力が発揮されることとなる(後述)。

赤坂に移転した東急エージェンシー本社

東急エージェンシーは、当社の戦前からの付帯事業である広告事業がルーツである。東急線沿線各駅の看板やポスターなどの交通広告や中吊りなどの電車内広告が主たる収入源で、これらの業績は安定的であった。一方、経済界の発展に伴って広告業界はテレビ広告を中心に活況を呈し始めており、広告事業自体の発展を実現するには好機であったことから、1961年に広告代理店として独立した。

設立当初は東急不動産からの出向者と、媒体および広告代理店出身者の混成部隊でスタートし、テレビ・ラジオ・新聞といった主要マスメディア各社との取引開始を図った。既成の広告代理店保護の観点から新聞各社との取引開始は遅れたが、1962年2月には6大紙と代理店契約を結んだ。

しばらくは交通広告や東急グループ関連の広告代理店業務に依存していたが、1960年代後半には人気テレビ番組の企画制作からクライアント対応までを一貫して行えるようになるなど実力を蓄え、「東急グループのハウスエージェンシー」というイメージを払拭した。

また、戦前から1950年代にかけ各地域で設立・傘下入り・統合を繰り返していた貨物運送事業については、1963年に東京通運と厚木通運が、1964年に日本貨物急送と東北急行運送(1959年傘下入り)が、1965年に平野運送が伊豆急行の関連会社・伊豆急通運をそれぞれ合併したことにより、東京を拠点とする貨物運送関連会社は相鉄運輸、東急運輸、東京通運、日本貨物急送、伊豆貨物急送(合併に併せ平野運送を商号変更)の5社に集約された。

このほか、特筆されるものとしては、白木金属工業の関連会社入りがある。その詳細は後述するが、白木屋の関連会社であったことから、東横百貨店による白木屋買収と共にグループとなった。百貨店とは関係ない自動車部品製造業であったため、1964年12月に当社と東急車輛製造が株式を折半所有する形で直接の関連会社にした。モータリゼーションの発展と共に業績、業容も拡大してのちに株式上場も果たす。さらに、主要取引先でもあったトヨタ自動車も出資し、1988年には商号をシロキ工業に改めた。

そして、関西の会社が関連会社になったのもこのころである。当社は1961年に御堂興業(本社大阪市)を傘下にし、1962年11月に結婚式場や宴会場、駐車場などを営む大阪会館を開業した。なお、グループにて関西へ本格進出するのは東急土地開発による大規模開発であり、これについては次章以降で触れる。

3-1-2-2 事業整理の断行と分離

量産体制に入った「くろがねベビー」

三角錐体経営の考え方に沿って東急グループの骨格を形成していく過程のなかで、本業とのかかわりが薄い製造事業の多くは相次いで撤退することとなった。

東急くろがね工業は東急グループによる自動車工業界への参入として大きな関心を集めた自動車メーカーで、軽三輪トラックを主力に生産していた。1959(昭和34)年には他社に先がけて軽四輪トラック「くろがねベビー」の発売を開始、1960年には専用工場として埼玉県上尾市に上尾工場を新設して増産体制を整えた。

「くろがねベビー」は同年末から翌1961年初頭にかけて月産1500台を記録するなど順調なスタートを切ったが、軽四輪トラック市場の拡大を見込んだダイハツ工業、東洋工業(現、マツダ)、新三菱重工業(現、三菱重工業)などが相次いで参入した。東急くろがね工業は販売網が手薄だったことから販売台数が急減し、1962年2月に不渡り手形を出すに至った。

東京地方裁判所に対して会社更生法に基づく会社更生手続きの申し立てを行い、更生計画を進めた。生産部門は、日産自動車のエンジン生産などを受け持ちながら再生を図って、1964年9月に東急機関工業として独立。1970年7月に当社と東急グループ各社が保有していた株式のすべてを日産自動車に譲渡、同社は日産工機と社名を変え現在に至っている。生産部門以外は、東急グループの商事会社として1962年末から事業を本格化していた東急興産に吸収合併された。こうして東急くろがね工業は消滅した。

同じく自動車関連では日東タイヤに資本参加(25%)して育成に努めてきたが、業界の熾烈な販売競争に打ち勝つには、タイヤ生産・販売と密接な関連を持つ大企業に経営を託すのが得策と考え、1968年12月、当社が保有する株式の大半を三菱グループに譲渡した。

畜産用配合飼料の製造・販売を手がけていた東急エビス産業もまた、東急グループのなかでは異色の存在であった。1956年に共に東急グループの一員となっていた日本糖蜜飼料と同社横浜工場に隣接する倉庫会社の横浜協同埠頭の合併により1961年6月に誕生した会社である。配合飼料業界は、食生活の洋風化に伴う畜産製品の需要急増により市場規模を拡大させ、同社も東京・大阪両証券市場第一部に株式上場を果たすなど地位を向上させてきたが、1960年代後半には業界内の競争が激しくなり、貿易自由化に伴う外資の参入などもあって業界再編が迫られていた。こうしたなかで三菱商事から三菱系同業2社との合併について当社に打診があり、当社がこの提案を受け入れることとした。1971年12月に東急エビス産業は三菱系の菱和飼料と共に、同じ三菱系の日本農産工業に吸収合併された。

東急エビス産業横浜工場全景(1968年9月)

このほか製造業では、1957年に東急グループ入りを果たしていた石油精製会社の東亜石油の株式を1961年、同業大手のアラビア石油に譲渡し、株式交換の形で当社はアラビア石油株式の一部を引き受けることとなった。

また、長年にわたって東急グループの中核的な存在であった東映を、東急グループから分離独立させたことも大きな出来事であった。

東映は、映画産業が斜陽化しつつあるとの認識のなかで、テレビ事業への参画、テレビ映画製作、コマーシャルフィルム製作、ホテル、不動産、タクシー、ボウリング場などに進出して経営の多角化を図り、同社の関連会社も約40社となっていた。東映の大川社長は、当社副社長のほか東急グループの20社の役員を務めていたが、東急グループという大きな傘を離れて独立独歩の事業展開を加速させていく意向を持っていた。このため五島昇社長との間で話し合いが行われ、資本の相互保有関係を解消するなどを決定し、1964年9月をもって東急グループから離れることとなった。なお、東映に経営委託していたプロ野球球団の東映フライヤーズは、当社の関連会社・東急ベースボール倶楽部の下での体制がその後も継続していたが、1973年1月同社に譲渡した。

渋谷駅前を通る東映フライヤーズ優勝パレード(1962年10月)

当社の本業とかかわりの薄い製造会社や東映をはじめ、その他にも下表の関連会社が東急グループから離れたことにより、東急グループの事業領域はいよいよ鮮明となり、三角錐体経営を前面に押し出した事業展開を加速させた。

表3-1-1 本文記載会社以外の1960~70年代の関連会社事業整理(整理終了順)
注:『東京急行電鉄50年史』をもとに作成

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