第3章 第4節 第1項 伊豆急行線の全線開通

3-4-1-1 2年間の突貫工事で開通迎える

1959(昭和34)年2月、西武鉄道系列の駿豆鉄道との競願を制して伊東〜下田間の地方鉄道敷設免許を得た当社は、直ちに現地測量と地質調査を開始して設計作業に取りかかり、同年7月、工事施行認可申請書を提出した。これと並行して早々に用地買収に着手すると共に工事計画の詳細について検討を行った。

この間には会社設立の準備を進め、1959年4月に伊東下田電気鉄道の創立総会を開催、諸議案の可決後、正式に発足した。総会には五島慶太会長も姿を見せ、役員互選により五島昇が同社社長に就任した。工事施行の認可が下りたのは同年末のことで、建設資金については銀行10行と生命保険会社2社から協調融資を受けることが決定。着工式を迎えたのは、1960年1月のことであった。

当社は、各方面に対し伊東下田電気鉄道の着工から2年以内の竣工開通を宣言していた。伊東〜下田間全長約46kmのルートはできるかぎり海岸縁のわずかな平地を選んだが、それでも当初計画で隧道が27か所(最終的には31か所)もあり、難工事となるのは必至であった。当社は全区間を10区に分けていっせいに工事を進めることとし、各工区の請負業者を決定、各建設会社が総動員で着手する格好となった。

建設前の実地踏査 1959年4月

建設にあたって大きな課題となったのが線路用地の買収である。当社の鉄道計画のみならず、これと前後して熱海峠と天城高原を南北に結ぶ静岡県道路公社による伊豆スカイラインの建設(1962年開通)、日本道路公団による東伊豆道路(現、国道135号)の建設(1967年全通)など、伊豆半島の交通網整備がいっせいに進み始めたほか、空前の観光開発ブームに突入しており、その影響で地価の高騰が生じていたからである。伊東止まりだった鉄道が下田に延びることで伊東温泉の地位が揺らぐことと、隧道掘削による伊東の水源・温泉源の影響を恐れた地元の抵抗もあった。

当社は隧道坑口の買収を優先して長大隧道の工事着手を急いだ。水道・温泉水脈に影響すると懸念した一部住民による建設反対運動が起こった伊東市内水道山については、地質学者に調査を依頼して問題ないことを確認した。さらに、県道や県管轄河川、市町村道との合計300か所以上に及ぶ交差箇所について関係当局と協議を進めるなど、慌ただしい日々が続いた。なかでも難問題となったのが、ほぼ同時期に日本道路公団が建設着手した東伊豆道路の熱川区間とルートが重なっていた点である。路線の変更が建設費の増額に及ぶことなどから妥協点はなかなか見いだせず、ようやく1961年半ばを過ぎて公団との合意に達した。この間の1961年2月には、社名を伊豆急行に改めた。

こうした諸問題による工事進捗の遅れ、また難工事が続くなか、着工2年目の1961年春には隧道工事中の落盤事故が相次いだ。とりわけ東町隧道での落盤事故では13人の尊い命を失い大きく報道された。着工直後に三島労働基準監督署の指導を得て災害防止協力会を結成し、講習会や研究会を開催してきたが、無事故・無災害の目標が完遂できなかったことは無念であった。

熱川隧道建設工事

1961年6月、全線中で最長となる谷津第2隧道(2796m)が貫通したことで工事はいよいよ大詰めを迎え、10月中旬には全31か所の隧道が竣工した。土木工事を終えた区間から軌道や電気関係の工事に着手し、10月20日に全線の軌道や架線が結ばれた。11月1日には伊東駅構内で国鉄線との線路接続式を挙行し、試運転を経て開業を待つばかりとなった。

当社と伊豆急行は同年10月からさまざまなイベントを開催した。三波春夫ら著名歌手を招いたコンサートや、伊東から下田の往復10区間で争う有力実業団・大学選抜による伊豆駅伝、東横百貨店での開業展示会、駒沢野球場での東映対巨人の野球のオープン戦など多彩であった。そして開通式2日前の12月7日、開通を見ることなく死去した五島慶太の墓前で五島昇社長ら伊豆急行役員が開通報告をしたのち、記者会見を経て、銀座東急ホテルにて通産大臣の佐藤栄作をはじめ政財界、文化人、芸能人ら約1000人を招待した開通披露パーティーを開催した。翌日8日には芸能人や文化人らが出演した「伊豆急開通前夜祭・歌と踊りのグランドショウ」を東京で、9日には「伊豆急開通前夜祭・伊豆急まつり」を下田で開催、合計1万人以上を集めた。

そして、12月9日、2年前に起工式を行った南伊東駅で竣工式を、伊東駅では発車式を行い、故五島慶太の遺影を乗せたハワイアンブルーの祝賀電車が伊東から下田に向けて出発した。沿線の歓迎ぶりは南下するごとに熱を帯びていき、終点の伊豆急下田駅には下田町長や、同年に当社の傘下会社となった富士航空(後述)のヘリコプターで駆け付けた石原裕次郎をはじめ著名人も参加し、華やかな祝賀行事が行われた。

五島慶太の遺影が掲げられた電車の出発式でテープカットする五島昇社長
祝賀会で祝辞を述べる石原裕次郎 ※左は五島昇社長

明けて12月10日、伊豆急行線は開業日を迎えた。開業後は国鉄車両10両編成による東京駅から伊豆急下田駅までの直通列車が走ることとなり、東京駅で日本国有鉄道総裁によるテープカットで約1000人が乗車した祝賀列車が出発、3時間25分程かけて伊豆急下田駅に到着した。初日の伊豆急行線の利用客数はおよそ1万人を数えた。

伊豆急行線開業祝賀列車と歓迎風景(伊豆高原駅)

開業翌日の12月11日には、下田海善寺にて伊豆急行建設工事殉職者合同慰霊祭が行われた。2年間の工事期間中には前述の落盤事故を含め合計35人の尊い生命が犠牲となっており、当日は遺族のほか伊豆急行役員、各建設会社代表など100人が列席し、その霊を弔った。

図3-4-1 伊豆急行線路線図
注:『東京急行電鉄50年史』をもとに作成

3-4-1-2 鉄道収入増と不動産事業の伸展で収益体質へ

「伊豆にも鉄道を」という、明治時代以来60年越しとなる地元の宿願が叶ったことで、伊豆半島は東京からもアクセスしやすい観光地として大きな注目が集まった。

1963(昭和38)年7月、伊豆急行は旅行あっせん業の認可を受け、東京、名古屋、大阪などに案内所を設けて伊豆への誘客を強化したほか、沿線市町村や地元の協力を得ながら民宿やキャンプ場の育成、協定旅館の組織化、臨海学校の誘致、海水浴場の開設、各種催し物などを実施した。これと並行して、東京からの直通列車増発や熱海~伊豆急下田間直通列車運転時間帯の拡大などで利便性の向上にも努めた。その結果、輸送人員は1962年度の392.0万人から毎年着実に増加を見せ、1969年度には倍近い755.2万人を記録した。大半は定期外の旅客で、観光路線として人気を獲得していることが鮮明となった。

だが伊豆急行の経営は厳しい状況が続いた。それは、鉄道用地の高騰や工事量の増大などで建設資金が当初計画から6割増の約100億円にも達していたからである。建設当初の協調融資85億円に加えて増資も行ったものの、鉄道収入よりも支払利息が多いという状況で、重荷を抱えたままの経営が続いた。

この苦境から脱するべく、伊豆急行では1962年8月に不動産部を新設した。不動産事業の開始は当初から織り込み済みで、鉄道用地の確保と同時に沿線の事業用地の確保に努めており、約400万㎡の土地を保有していた。1961年から伊東市内で合計3万㎡弱の社有地を分譲地として売却したのを手始めに、同年9月には伊豆高原地区の造成工事に着手し、1963年2月から、伊豆高原別荘地として販売を開始した。

別荘地の分譲にあたっては、まず水道と温泉の確保が課題であった。水道は伊豆高原の山側にあたる池地区の溶岩台地に深井戸を掘って水源を確保し、1964年2月に給水を開始した。また、温泉は熱川温泉近くの湯ノ沢から伊豆高原分譲地まで線路に沿って総延長約12kmの引湯管を敷くことを計画。国内最長ともいわれた引湯管は湯垢除去が難題であったが、調査や実験を繰り返して克服した。同年10月から通湯を開始し、ここに伊豆高原温泉が誕生した。さらに1967年からは内見会という招待キャンペーンを実施した。事前にダイレクトメールや広告で見学希望者を募り、東京から伊豆高原まで団体輸送して現地をマンツーマンで案内するという趣向で、分譲契約獲得の原動力となった。こうした努力の結果、1969年度までの累計の販売区画数は1850区画、同じく累計の売上総面積は119万4000㎡に及んだ。

伊豆高原別荘地

伊豆高原別荘地の分譲を中心とする不動産事業の好調により、伊豆急行は1965年度に初めて最終損益で黒字を計上、19億円超まで膨らんでいた累積損失を1967年度に解消し、1968年度上期に5%の初配当ができるまでに業績を好転させた。この初配当を契機に五島昇は同社社長を退任した。

このほか伊豆急行では開業前から関連会社数社を設立、ないしは買収していた。まず1961年4月、東海自動車との共同出資により下田ロープウェイを設立し、伊豆急下田駅と寝姿山を結ぶロープウェイが同年11月に開業、翌1962年夏場には夜間運転を行った。山頂には展望台や幕末見張所跡などを整備し、遠く伊豆七島の夜景も楽しめる新名所として温泉客などに好評を博した。

前述の伊豆高原別荘地への温泉供給にあたっては1961年6月に湯ノ沢研究所(のちの南伊豆温泉開発)を傘下に収めた。

伊豆急下田駅と寝姿山を結ぶロープウェイ(1961年)

1961年5月には、船舶運航事業を行うちくまや海運(のちの伊豆急マリン)を設立し、下田港内を巡る観光周遊船などを運航した。旅客の増加に応えて1962年1月には伊豆急自動車(のちの伊豆急東海タクシー)を設立してタクシーの営業を開始した。さらに1963年6月には南伊豆のレジャー施設を運営する伊豆急スポーツセンター(のちの稲取ゴルフクラブ)を設立し、伊豆稲取駅から約6kmの天城連峰を背にした地にゴルフ場やサッカー場などを設けた。このほか駅構内の売店営業などを行う伊豆急サービス(のちの伊豆急物産、伊豆観光ホテル<ホテル伊豆急>の前身)、陸上貨物運送を行う伊豆運輸(のちの伊豆貨物急送)もほぼ同時期に設立した。

3-4-1-3[コラム]川奈駅列車衝突事故と「無事故誓いの日」

1968(昭和43)年6月18日午前10時30分ごろ、伊豆急下田駅発上り列車が、列車交換駅の川奈駅構内で停止位置を冒進し、川奈駅到着直前の熱海駅始発下り列車に接触衝突した。上り列車の1両目が脱線し、乗客51人が重軽傷を負った。伊豆急行開業以降初めての事故であり、大勢の乗客がけがをする事態となった。その後、事故原因が運転手の睡眠不足に伴う居眠りと判明。同社には非難の声が集中し、利用者の信頼を裏切る結果となった。この時期、東急線ではATS(自動列車停止装置)の設置が進んでいたが、伊豆急行線にはATSが設置されていなかった。この事故を踏まえて伊豆急行は、労働管理の強化、ダイヤの再編成といった施策を講じたうえで、1969年7月にATSを設置した。この事故を契機に、伊豆急行では毎年6月18日を「無事故誓いの日」とし安全祈願を実施、また毎月18日に事故防止対策委員会を開催し、二度と事故を起こさないよう安全への教訓としている。

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