第3章 第3節 第1項 軌道に乗る土地区画整理事業

3-3-1-1 野川第一、恩田第一、荏田第一をモデル地区に

多摩川西南新都市の建設において、土地区画整理事業の第1号となる野川第一土地区画整理組合の事業は、これからの区画整理事業の成否を占う試金石となる先行事例であった。

野川第一地区(川崎市)の施工面積は22万1067㎡(22.1ha)、開発前の土地利用は公共用地(道路)3.8%、畑73.0%、山林13.0%、その他10.2%で、当社の所有地が施工面積の57.3%を占めていた。開発地域のなかでも、施工面積が小さく、当社所有地の割合が高いことから、最初に着手するには最も適した地区であった。

組合の設立認可を受け、1959(昭和34)年5月24日に開催された野川第一土地区画整理組合第1回総会では組合役員の選挙と評価員の選任が行われ、組合役員10人(理事8人、幹事2人)と評価員3人を決定した。組合役員は組合員から5人、組合員以外から5人が選ばれ、当社の関係者が半数を占めた。

なかでも当社常務は、組合員として事業に参画し、この事業にかける当社の意気込みを示した。翌月には第1回理事会が開催され、当社常務が理事長、当社衛星都市建設部の部長が理事長代理、そして相談役に地元組合員2人が選出された。

業務一括代行方式により、組合から土地区画整理事業の代行を委託された当社は、現地に組合事務所を開設して準備を進めた。同年6月30日、組合との共催により起工式を挙行し、組合設立以前に承認されていた基本計画に則って、土木工事に着手した。なお、組合は、総会にて保留地取扱規定を「1)保留地は、本組合の事業代行の受託人に対し、その事業の代価として引き渡す。2)保留地の引き渡し時期は、事業代行受託人が受託事務を完了したときとする」と定めたうえで、その代行契約の相手先を当社とする決議を行った。

組合の第1回総会は野川小学校で開催された
図3-3-1 野川第一土地区画整理事業計画図
出典:『多摩田園都市 開発35年の記録』

施行期間中には、仮換地案を不服とする地権者との協議がもつれた時期もあったが、最終的には区域外の当社買収地との土地交換によって解決を図り、1960年末には土木工事が終了した。最終的な換地計画は1961年3月の第4回総会で決定され、換地処分登記および清算業務によってすべての業務を完了したあと、同年12月の第5回総会で組合の解散を決議し、竣工式を挙行した。施行後は公共用地率22.9%(道路19.2%、公園4か所、3.7%)、その他を宅地とし、宅地の利用は集合住宅地、独立住宅地(個人)、施設用地(ショッピング施設、幼稚園、医療施設など)の3つに分けた。平均減歩率は38.8%であった。当社が代行契約に基づき負担した総事業費は8200万円で、その代価として取得した保留地は4万9286㎡となった。

区画整理を終えた野川第一地区

土地区画整理事業終了後の野川第一地区は、歩車分離による幅員15mの都市計画道路や同12mの幹線道路などが整備され、街路にはトチノキとプラタナスを植林し、整然とした市街地となった。そして野川団地と命名された宅地は瞬く間に完売し、上々のスタートを切ることができた。東光ストアの出店や医療施設の誘致、五島育英会が運営する幼稚園の開園など施設整備も進め、大手企業への社宅用地の販売も行った。こうして竣工から2年あまりで当社所有の約9割の土地が販売された。また、同地区は当社線および国鉄南武線からも離れているため、武蔵小杉駅に連絡するバス路線を新たに設けた。

生まれ変わった野川第一地区は、これから開発が予定されている地区の土地所有者、土地区画整理事業に関心や不安を抱く人々に先例を示す、いわゆる「モデル地区」となり、見学コースの定番となった。当社はこうしたモデル地区をおおむねブロックごとに設け、開発を先導する役割を持たせた。

東光ストア野川売店(1962年)
恩田第一地区(現、つつじが丘)

野川第一地区と共に、モデル地区に選定していた横浜市港北区の恩田第一地区および荏田第一地区では、1961年にそれぞれ土地区画整理組合の設立に至った。この内恩田第一地区は事業が概ね順調に進み、1964年には組合解散決議に至り、新町名は「つつじが丘」と決定。後述するように、最寄り駅の青葉台駅を中心とする街づくりの先例を示す地区となった。

もう一つの荏田第一地区は、1957年に初めて開催した地主説明会のあと、既設国道(2級国道東京・沼津線、のちの国道246号)の拡幅も含めた改良工事にかかわる減歩負担などをめぐって紛糾し、土地区画整理組合の設立まで歳月を要した。横浜市が、「区画整理は公共の利益のために行うものである」との理由で、組合設立を不服とする地権者による意見書を不採択とし、組合設立が認可されて、ようやく第1回組合総会の開催により事業がスタートしたのが1961年7月のこと。しかし事業開始後もその地権者と横浜市の係争が続き、組合との合意事項の一つであった換地評価の見直しにも手間取り、ようやく1968年10月に組合解散決議がなされて、事業が完了した。総事業費は当初計画を大幅に上回り、超過分の大半は当社が負担した。地元との協力関係が欠かせない土地区画整理事業の難しさを実感する地区となった。

区画整理を終えた荏田第一地区(1969年)

3-3-1-2 「多摩田園都市」の誕生と相次ぐ土地区画整理組合の設立

前節で触れたように、1963(昭和38)年10月11日、当社は開発対象地域を貫く大井町線溝ノ口~長津田間の延伸工事に着手、大井町と延伸区間の路線名を「田園都市線」と命名し、併せて多摩川西南新都市と呼ばれていた開発地域の名称を「多摩田園都市」と決めた。鉄道建設工事が本格的に始まったことで地元の関心はいよいよ高まり、前述の先行モデル3地区に続いて、1964年12月までに10地区、さらに1966年4月の田園都市線溝の口~長津田間開業を経て、1969年12月までに15地区で、土地区画整理組合の設立が認可された(内2地区は東急不動産が業務一括代行契約を受託)。このなかには、当社からの働きかけではなく、地元からの強い要望を契機に組合設立に至った地区もあった。

1961年に改めて設定した4つのブロック(詳細は後述のコラムを参照)それぞれを見ると次のように進捗していた。

第3ブロックでは組合設立が相次ぎ、1969年12月までに10地区で組合設立が認可された。この内恩田第二地区は事業面積172万9233㎡、下谷本西八朔地区は104万4671㎡と広大な面積となっており、これにより田園都市線の青葉台駅や藤が丘駅周辺で広範囲な開発が先行する格好となった。

事業が進む恩田第二地区で測量する当社社員

第2ブロックでは1969年12月までに6地区で組合設立が認可され、この内事業面積118万411㎡となる元石川第一地区の土地区画整理事業開始により、たまプラーザ駅北側の開発が進むこととなった。

同地区では、当初は他地区と同様に碁盤状の街路網を計画していたが、市境や高圧線の鉄塔の影響により切土工事が進まなくなり、整地作業を一時中断した時期がある。当社所有地が8割近くを占め、多摩田園都市の中央部に位置する区画でもあることから、これを機に思い切った構想を採り入れて、新都市全体のシンボルになるような街づくりを行うこととした。

具体的には、海外で試みられていた歩車道完全分離のラドバーン方式、行き止まり道路を伴うクルドサック方式の区画街路を採用、幹線街路には緑地帯を設け、さらに街路の交差部分には景観に優れた歩行者専用のアーチ橋を設けるなどして、風格のある街づくりを進めた。新町名は、開発以前の丘陵地にちなんで「美しが丘」と命名された。

図3-3-2 元石川第一土地区画整理計画図
出典:『多摩田園都市 開発35年の記録』
図3-3-3 クルドサック方式の区画街路
出典:『多摩田園都市 開発35年の記録』
アーチ型の歩行者専用道路と緑地帯付きの幹線道路
元石川第一地区空撮(1968年)
※左側にクルドサック式区画道路が見える
元石川第一地区航空写真(1968年)

新たに開発対象とした第4ブロックでは、112万5344㎡の大和市北部第一など合計3地区で1969年12月までに組合が設立された。町田市の小川第一地区は、東急不動産が土地区画整理事業の業務一括代行を行う第1号となり、同社による総合的な街づくりの先例となった。

一方、野川第一地区を筆頭に開発が先行した第1ブロックでは、事業面積100万㎡超の3地区など合計9地区で1969年12月までに組合設立が認可されたものの、全般的には事業完了までに長期間を要した。南東部では、地元の反対により組合設立には至らずに開発対象から外さざるを得ない地区も少なからずあった。

これは、多摩田園都市の開発対象地域のなかでも都心に近い便利さなどから地価の値上がりが大きく、1960年前後に買収を行った時期に比べて5〜10倍の価格で取引される事例もあったため、以前の土地所有者から代金補填の要求がなされ、補填金の支払いが組合設立の条件になるなど、合意形成が難航したことが要因であった。また、一般に土地区画整理事業は減歩や、換地による所有地の移動を伴うため、なかなか理解が得られなかったことも理由に挙げられる。このため地区内の土地所有者や借地権者など3分の2以上の同意を得て組合設立に至ったあとも、未同意者の抵抗は根強く続き、開発終了が1970年代末期までずれ込む地区が続出、総事業費は計画を大幅に上回った。

総事業費の増大は、当社にとって重荷となった。とくに土地区画整理事業が本格化し始めた1960年代前半、当社は売上の大半を鉄軌道事業とバス事業に依存していたが、営業利益の増加率が鈍化しており、このままの状況が進めば鉄道事業の伸びが大きい小田急電鉄に間もなく営業利益で追い抜かれるとの危機感が抱かれていた時期でもある。

業務一括代行方式の受託契約では、事業資金は当社が取得する保留地に抵当権を設定せず、当社が無担保で組合に貸付する形をとっていたため、土地区画整理事業が拡大するにつれて支出超過の傾向が鮮明となった。当社にとって一大プロジェクトといえども無担保融資を青天井で実施するわけにはいかず、五島昇社長の指示で30億円を上限と定め、それ以上は開発部門が工夫して調達することとされた。このため、担当部署であった衛星都市建設部は自らの手で事業資金を捻出するために、やむなく土地区画整理事業途中の土地を青田売りせざるを得ない状況となった。青田売りとは、造成前の土地を図面上で販売するもので、1966年4月の田園都市線延伸開業までの4年間に100万㎡を超える規模で行われた。

表3-3-1 1960年代までに設立された多摩田園都市の土地区画整理組合
注:『多摩田園都市 開発35年の記録』をもとに作成

3-3-1-3[コラム] 「多摩川西南新都市計画」におけるブロック設定の見直し

当社は1961(昭和36)年、開発対象地域のブロック分けについて計画を変更した。多摩川西南新都市計画(1956年策定)における第3ブロックを開発対象地域から外し、田園都市線第2期延伸区間となる長津田~中央林間間上に位置し、市街地開発区域に指定された町田市南部と大和市北部の各一部を、新しい第4ブロックとして、開発対象に加えたのである。これに伴って、港北区恩田町(現、青葉区恩田町)などの従来の第4ブロックは、第3ブロックに改めた。

多摩川西南新都市計画における第3ブロックを外すことになったのは、日本道路公団による第三京浜道路の建設で東急ターンパイク計画が実現不可能となったこと、ブロック内の横浜市港北区池辺町や東方町が、前章で触れたグリーンベルト問題の結論として市街地化許容区域外となったのをはじめ、優良農地を持つ地元が開発に反対して社有地の確保が容易でなかったこと、田園都市線のルートから離れることが確定的になったこと、などが理由であった。

なお旧第3ブロックの内市街地開発が可能な地域において、のちに横浜市により港北ニュータウンが建設され、この地域に横浜市営地下鉄3号線(現、ブルーライン)や4号線(現、グリーンライン)が開通することとなる。

図3-3-4 新たなブロック分けがされた多摩田園都市の位置図
出典:『東急グラフ』 1963年10月1日号

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