第3章 第1節 第3項 流通部門の再構築
3-1-3-1 百貨店事業の修正と再拡大
百貨店やスーパーマーケットは東急グループの流通部門を担う存在であり、三角錐体の一面を構成する重要な部門だが、1960年代は全般的に、その後の方向性は定まらなかった。
1958(昭和33)年に白木屋と合併して新発足した東横は、都心店(日本橋)とターミナル店(渋谷・池袋)による販売力強化が期待されたが、それほど成果は上がらず、業績は緩やかな上昇から減速へと低迷した。これは、関西の大丸、阪急、そごうなどが関東に進出し、さらに西武、東武、小田急、京王などの各百貨店が新設され、競争が激化したことが大きな要因であったが、それ以外にも同社の宣伝面の弱さやサービスの低下も指摘されていた。同じターミナル百貨店として東武鉄道が東武百貨店を開業(1962年5月)させたことで、その隣接地となり劣勢に回った池袋店(池袋東横百貨店)は以降、売上高の対前年割れが続くこととなりその象徴ともいえた。
危機感を募らせた五島昇社長は、1963年9月に東横の社長を兼務すると共に、伊勢丹の常務を副社長に迎えて改革に着手、これまでの売上至上主義を廃して利益率に重きを置いた経営への転換を進めた。副社長は、取引先任せになっていた仕入部を廃止して売場ごとの商品発注と単品管理を徹底、商品の回転率を高めて在庫を減らしたほか、取引先の集約化や支払条件の改善による関係強化、外商部門における取引の改善、渋谷東横百貨店と日本橋白木屋の包装資材の統一などによる経費削減と、多方面にわたる改革を推進。財務体質を着々と改善していった。
一方、売場面積が小さく、東武百貨店の進出で苦境に立たされていた池袋店については、営団地下鉄日比谷線を介した相互乗り入れ(後述)などを通じて当社と関係を深めていた東武鉄道が、同百貨店を増床させたい意向があったなどから当社(東横)側と思惑が一致し、池袋店を東武鉄道関連会社の東武百貨店へ譲渡することを決定、1964年5月に閉店した。
1966年9月には渋谷再開発の一端を担うべく、渋谷区から購入した大向小学校跡地に新店を建設することを決定。翌1967年9月に法人商号を東横から東急百貨店に改め、新店を本店、渋谷東横百貨店を東横店、日本橋白木屋を日本橋店と改称した。日本橋店は同月の営団地下鉄東西線大手町~東陽町間の開通により立地条件が向上するため、これを機に名称を改めたものであった。
1967年11月に開業を迎えた東急百貨店本店は、食料品や日用品中心の売上構成であった東横店と差別化を図って、付加価値の高い衣料品や家具などの品揃えを強化、1970年には西側を増築してガラス張りのエレベーターを設置するなど、来店客の増加を図った。また東横店は1970年、南側に完成した渋谷駅西口ビルを当社から賃借して、東横店南館とした。
1963年以降の体質改善(商事部門縮小、在庫商品縮減、仕入販売一本化など)が徐々に浸透したことに加え、本店の開業、本店および東横店の増築も相まって東急百貨店の業績は向上していき、1970年5月に開かれた社長会では1969年度の経営優秀賞を受賞した。そして東急百貨店は、地方へも進出し、多店舗化を図っていくこととなる。
3-1-3-2 小売業界に台頭するスーパーマーケット
1930年代に米国で生まれた小売店の新しい業態、スーパーマーケットは、セルフサービス方式、ワンストップショッピング、大量販売で利便性と低価格を実現し、消費者の支持を得た。国内ではレジスターのメーカーがこの新業態の誕生に先駆的な役割を果たし、1950年代に青山に紀ノ国屋が誕生、小倉市や横浜市などにもセルフサービス方式の小売店が誕生し、スーパーマーケットの黎明期となった。
当社は1950年代半ばには、この新業態に関心を向けていた。スーパーマーケットという新業態を新都市、多摩田園都市にふさわしい最新の小売装置と捉えていたのである。それは五島慶太の慧眼でもあった。
東急グループでは、前述の通り中小小売業者保護の観点から百貨店の新規出店を規制する百貨店法が1956(昭和31)年6月に施行されたため、白木屋が設立した白木興業が、白木屋分店(五反田・大森・高円寺)の営業を継承していた。
一方、東横(当時は東横百貨店)は子会社として、現在の東急ストアの起源にあたる東横興業を同年10月に設立。同社による第1号店として、武蔵小杉東興店(のちの東光ストア武蔵小杉店)を開店した。同店は従来型の対面販売を行う食品小売の専門店をテナントとして誘致しており、いわば東横のれん街の小型版といった趣で、まだスーパーマーケットの体裁ではなかった。消費者はセルフサービス方式に不慣れであり、精肉や鮮魚などのプリパッケージの技術や大量陳列に適した什器類も未発達であった。
東横興業は白木興業を合併し、社名を東光ストアに改称したのち1957年末には、白木興業が展開していた店舗や渋谷東急文化会館、渋谷地下街(百貨店法上の規制により東横<百貨店>の代わりに約5年間のみ営業)に出店した店舗など、合計8店舗を展開するチェーンストアとなった。以後、百貨店法の規制を回避するための店舗という概念を脱し、スーパーマーケットの展開が本格化した。東光ストアで初めてセルフサービス方式を部分的に採用したのは高円寺店(1958年10月)で、これに鷹番町店が続き、1959年3月には本格的なスーパーマーケットの第1号店として武蔵境店が開店した。
東光ストアは新規出店と並行してチェーンストアとしての基盤整備に取り組み、親会社の東横に依存していた仕入業務を自社で行うべく仕入部を新設、大量の仕入品をストックして各店に配送を行うため、1961年12月に東横線都立大学駅高架下に商品倉庫と検品所を設置した(1965年に八雲商品センターへ移管)。また商品のプリパッケージ化を加速させたほか、コンピュータを活用した品番管理を開始、初めてのプライベートブランド商品として東光トイレットペーパーを開発するなど新機軸も打ち出した。
1965年時点で東光ストアは東急線沿線を中心に19店舗を展開していたが、ダイエーや西友ストアーなどが急ピッチで新規出店を進め、東光ストアはチェーン拡大で立ち遅れてしまった。
東横百貨店が前身の東横興業を全額出資にて設立した以降、資本構成は白木興業の合併(1957年4月)により東横百貨店50%、白木屋50%となったが、1957年度末ごろに当社が両社から株式を取得し、当社60%、東横百貨店20%、白木屋20%にし、東横百貨店と白木屋の合併で当社60%、東横40%となっていた。そののち2度の増資をして当社と東横が同じ出資割合で引き受けた。
こうしたなかで1965年12月に資本構成の再編成が行われ、東光ストアの出資割合は当社40%、東横30%、東急不動産30%とし、さらに1966年3月には前述の東横(百貨店)の改革と同様に、五島昇社長が東光ストアの会長を兼務すると共に、伊勢丹から迎えた東横の副社長を社長に据えて改革に着手した。東光ストアを「スーパーマーケット」として発展を図り、流通事業全体の立て直しを行うためであった。
このあと東光ストアは、1970年までの5年間で24店を開店してチェーンストアとしての規模拡張に臨んだほか、1970年5月には同業の長崎屋との業務提携を行うなど積極的な経営が推進された。これと並行して既存店のリニューアルを実施。都立大学店をパイロット店として売場のリニューアルや低温物流などの新しい試みを検証したほか、13店で冷房設備を導入、照明を明るくして華やかな雰囲気のある内装とし、商品を引き立てる陳列に改めた。