第7章の概要(サマリー)

1990年代初頭に始まるバブル崩壊は日本経済に深刻な打撃を与えたが、その傷口の深さが明らかになるのは、1997(平成9)年11月に金融機関の破綻が相次いでからである。バブル景気時の、地価や株式の上昇を前提とした過剰な貸し付けが不良債権化したことが主因とされ、これ以降、金融機関は融資を手控えると同時に債権回収を急ぎ、余剰資産を持たない企業はたちまち苦境に陥った。

東急グループにおいても多くのグループ会社が多額の融資を受けて事業の拡大を図り、バブル崩壊後には返済困難な有利子負債を抱えた。金融機関による債権回収は当事者会社のみならず、実質的な親会社と見なされた当社にも及び始め、東急グループの中核を担う当社は、否応なしにグループ再建の課題を負うに至っていく。

もう一つの大きな環境変化は、「日本版金融ビッグバン」により展開された企業会計制度の大改革(会計ビッグバン)である。企業活動のグローバル化に伴って国際的に通用する会計基準に改められることとなり、国内では2000年3月期以降、連結会計、退職給付会計、金融資産や不動産資産の時価会計などが順次導入された。とくに、以前にも増してグループ業績があらわになる連結決算への移行、そして簿価と時価の差が大きい不動産資産への時価評価の適用は、当社の経営に多大な影響をもたらすものであった。

こうしたなか当社は、2000年4月に「東急グループ経営方針」を発表。東急グループ各社の最大の株主として、グループ再生に主体的に取り組む姿勢を明らかにし、「選択と集中」によるグループ会社の再編成に臨んでいく。とくに早急な対応を要していたのがグループ総額で3兆円を超える規模に膨らんでいた有利子負債への対応で、これを順次処理すると共に各社の営業利益改善を図ることで、財務状況を健全化し、資本市場からの信頼を回復することにあった。

重複事業の統合、子会社のグループ外への譲渡、完全子会社化による含み損の一掃など、資本政策を含めた抜本的な構造改革を、当社のガバナンスにより断行した。所要キャッシュを得るためにやむなく優良資産を売却するなど苦渋の決断を伴ったが、2004年ごろには健全性の回復にめどをつけ、新たな成長に向かうに足りる経営基盤を確立するに至った。この間に東急グループの会社数は約500社から300社余りまで減少、大きな痛みを伴う改革となった。

個々の事業分野の主だった動きについて記しておく。

鉄道事業では、各路線の大規模改良工事により、輸送力増強、安全性向上、鉄道ネットワークの広域化と速達化を進めた。

東横線の混雑緩和を目的とした「目蒲線の活用による東横線の複々線化」関連では、2000年9月に営団南北線・都営三田線との相互直通運転を開始。これに伴い、目蒲線の運行系統を分割し、目黒線、東急多摩川線とした。さらに、目黒駅付近〜洗足駅付近間の立体交差化、武蔵小杉〜日吉間の線増工事を進め、工事は最終段階を迎えることとなった。

東横線は、2004年2月に横浜側で「みなとみらい線」との相互直通運転を開始したほか、渋谷側では営団13号線(現、東京メトロ副都心線)との相互直通運転を決定し、渋谷〜代官山間の地下化工事に着手した。また「大井町線の改良・延伸による田園都市線の複々線化」では、新たに大岡山〜大井町間を工事対象区間に加え、大井町線全区間での急行運転を可能にすることとした。田園都市線では、横浜市営地下鉄3号線(ブルーライン)に連絡するあざみ野駅を急行停車駅にし、こどもの国線を通勤路線化して新駅を設けるなど、全般的に利便性の向上に取り組んだ。

このほか鉄軌道事業では、駅や車両のバリアフリー化、一部路線でのワンマン運転による業務効率化を進め、自動改札機の導入完了に伴って駅業務の重点を接客サービスに置き、サービス向上に努めた。

沿線地域の開発事業では、多摩田園都市の土地区画整理事業が終盤を過ぎて販売できる土地も少なくなり、土地売却益中心から土地活用収益への転換を志向した。だが不動産賃貸の市況は回復途上にあり、当面は建売住宅販売や土地オーナーの不動産活用としてコンセプト賃貸マンションの供給などで街の付加価値向上をめざした。また前述の東横線・目蒲線(目黒線)の工事によって地下化された目黒駅や田園調布駅で、駅上部の開発を進めたほか、田園都市線の南町田や青葉台では商業施設を拡充、沿線の魅力向上に努めた。

渋谷駅周辺の開発では、二大プロジェクトとして建設を進めてきた渋谷マークシティとセルリアンタワーが相次いで開業。渋谷におけるオフィス賃貸が大きく拡大した。営団13号線との相互直通運転を契機にいっそうの渋谷開発を進めることとし、渋谷区で進められた街づくり協議に参加しながら、東急百貨店東横店の改築や東急文化会館の跡地開発などの検討を進めた。

流通・サービス事業分野では東急百貨店を完全子会社化、東急ストアを連結子会社化したほか、商業施設運営では運営主体となるグループ会社の整理統合に着手した。当社は2000年4月の「東急グループ経営方針」以降、経営資源を沿線に集中し、沿線地域での主たる収益源となる小売業(リテール事業)を、「鉄道」「開発」に次ぐ第三のコア事業として育成することで、新たな成長につなげることを展望した。 

またホテル事業では、「東急ホテルチェーン」と「東急インチェーン」の旗艦ホテルが渋谷に開業した。その一方で両チェーンの統合に向けた枠組みを模索し、まずはオペレーション部門の統合、次いでホテル経営の統合を進めることとなった。またリゾート事業でも「選択と集中」の一環でゴルフ場やスキー場を売却し、バブル景気の拡大路線を軌道修正する動きが続いた。

1998年から2004年までは、当社100年の歴史のなかでも、とりわけ存亡の危機に瀕していた時代の一つであったといえる。連結決算では2001年3月期と2004年3月期に巨額の当期純損失を出し、鉄道事業が堅調に推移していた当社単体決算でもグループ会社の損失処理などで2004年3月期に大幅な当期純損失となったが、ほぼ膿を出し切った格好となり、翌年度からV字回復をめざしていくこととなる。

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