第7章 第7節 第2項 海外ホテル・リゾート、都市開発事業の展開

7-7-2-1 北米を中心とした海外ホテル事業の環境悪化

海外事業は、1990年代半ばにドラスティックな事業再編を断行し、不採算施設の整理がおおむね一段落した。マウナ ラニ リゾートの所有土地は当社へ譲渡され、その後、段階的に開発可能な土地をすべて売却し、137億円を回収。ホテル、ゴルフ場の運営業での事業利益確保をめざし、2000(平成12)年度、マウナ ラニ リゾート社は、当期利益で黒字計上した。

海外ホテルは、1995年6月に当社100%出資で設立したパン パシフィック ホテルズ アンド リゾーツ社(以下、PPHR社)がシンガポールに本社を置いて、アジア地域のホテルの運営を担当し、北米地域については同社100%出資のパン パシフィック ホテルズ アンド リゾーツ アメリカ社(以下、PPHRA社)が運営を担当する体制とした。PPHR社はPPHRA社のほか、日本国内での販促活動を行う株式会社パン パシフィック ホテルズ アンド リゾーツ ジャパン、レストランの運営を行う株式会社インターナショナル レストラン サービスなどを傘下に置いた。

パン パシフィック ホテル シンガポール

PPHR社は、経済発展の著しいアジア地域での運営受託による利益拡大をめざし、1998年にフィリピン・マニラ、マレーシア・クアラルンプール国際空港のホテルのマネジメント契約を締結し、開業した。同時期にはマレーシアで他の複数ホテル開業の計画もあったが、あいにくタイから広がったアジア通貨危機の影響により見送られ、2004年時点でアジア地域では11ホテル(合計客室数4324室)の運営受託にとどまった。

またPPHRA社では1997年12月にカナダ・ウィスラーのホテルとマネジメント契約を締結し、同月に開業した。北米ではサンフランシスコ、バンクーバー(カナダ)に続く運営受託であった。

以上のように、海外ホテル事業は安定的な成長も見通せる状況にあったが、ここで東急グループ全体の経営危機が事業に大きな方向転換を強いることになる。グループの危機的状況を踏まえて有利子負債の削減を図る必要があるため、北米における保有資産を売却し、資金を回収することが決定された。

PPHR社を海外ホテル運営会社として存続して、主要ホテルを残すことを条件として資産売却を進め、2002年にバンクーバー、2003年にサンフランシスコのホテルを売却。サンフランシスコの売却にあたっては、引き続きPPHRAが運営受託することになったが、新オーナーからは最低業績保証などの厳しい契約条件が付された。

前述のアジア通貨危機の影響は長期化が避けられたものの、2000年後半に米国でITバブル崩壊、さらに2001年9月に米国での同時多発テロ事件が発生し、それ以降もイラク戦争、SARS、鳥インフルエンザなどの有事に毎年のように見舞われた。アジア地域を担当するPPHR社は2001年12月期を除いて黒字を維持したものの、北米でのホテル経営環境悪化で、子会社のPPHRA社は経営が不安定であった。

7-7-2-2 西豪州・ヤンチェップの街づくりがスタート

西豪州の州都パース郊外に位置するヤンチェップ地区の開発は、現地の合弁相手が早々に離脱したことや、開発予定地とパース中心部を結ぶアクセス手段が未整備なことなどから進捗が滞っていた。1970年代から開発に着手して不動産販売が順調に推移し、街づくりが終盤にさしかかった米国シアトル郊外のミルクリークとは対照的であった。

「ヤンチェップ」プロジェクトが再び動き始めたのは、1990年代に入ってからであった。その遠因となったのがパース都市圏の人口増加である。もともと西豪州では、州都パースへの人口集中が他州都に比べて顕著で、1991(平成3)年には州人口の内72.7%がパース地区に集中していた。同州は鉄やニッケル、金、ウランなど鉱物資源が豊富な州で、鉱業を中心とした経済発展により、さらにパース都市圏の人口が増加しており、インド洋に面した西海岸の平野部に沿って、南北方向に都市化が進むことが見通せるようになった。

こうしたなか、開発対象地域の付加価値を高めたうえで投資回収を進めたいと考える当社と、市郊外の無秩序な都市化を回避したいと考える西豪州政府との間で協議が整い、1995年12月に両者間でヤンチェップ地区の開発に向けた基本合意書(MOU)を締結した。この時点で当社が所有していた土地約6700haの内、1400haを公園用地や道路用地として政府に売却し、その資金で当社が地区内の道路建設など基盤整備を行うこととなった。

1999年7月には、州政府との間で戦略的協調合意書(以下、SCA)を締結した。このSCAには、州政府や当社などからなる協議機関の新設、マリーナ地区の開発促進、ヤンチェップ地区南部の開発推進と同地区までの幹線道路の延伸、雇用促進プロジェクトの推進の4点が骨子として盛り込まれた。そして、最終的にはヤンチェップ地区で5万5000戸の優良な住宅、約15万人の定住人口、約6万人の雇用人口の創出をめざすことが、州政府との間で共有された。

雇用促進プロジェクトの推進が盛り込まれたことは、特色の一つといえる。豪州国内で開発プラン策定段階から雇用創出が盛り込まれたのはこれが初めてで、日本国内に見られるような郊外ベッドタウンの建設ではなく、いわば自律的なコンパクトシティの形成がめざされたのである。

戦略的協調合意書を締結し、握手を交わす清水社長とコート西豪州首相(1999年)

さらに2000年8月には州政府議会と地元のワネルー市議会が、プロジェクト推進のための予算措置を決定。2002年には連邦政府から大規模プロジェクトの指定を受けて、開発にかかわる申請・認可がスムーズになり、各種助成が優先的に受けられるようになった。こうして官民一体となって地域開発を進める環境が整った。

そして当社子会社のヤンチェップ サン シティ社が、現地企業のカプリコーン インベストメント社との合弁で、2004年6月、宅地開発事業「カプリコーン ビレッジ ジョイント ベンチャー」をスタート。開発の第一段階としてヤンチェップ地区南部の約220万㎡を対象に宅地開発を進めた。現地での土地取得から30年の歳月を経て、ようやく開発着手にたどり着いた。

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