第7章 第2節 第1項 目蒲線(目黒線)の相互直通運転開始と東横線の複々線化

7-2-1-1 営団南北線・都営三田線との相互直通運転開始

1986(昭和61)年に制定された特定都市鉄道整備積立金制度の適用により、1987年に特定都市鉄道整備事業計画(以下、特々事業)の認定を受け、1988年に着工した「目蒲線の活用による東横線の複々線化(認定名称:目蒲線目黒〜多摩川園間改良工事および東横線多摩川園〜日吉間複々線化工事)」は、一部の工事(詳細は後述)を残しながらも地下鉄(営団南北線・都営三田線)との相互直通運転(以下、相直)開始に向けた準備を整え、地下鉄側の竣工を待った。

相直の開始時期は当初1997(平成9)年をめざしていたが、遺跡発掘や難工事の影響で数次にわたり開業時期が延期となった。2000年2月に、同年9月の相直開始と、目蒲線の運行系統を「目黒〜多摩川園〜武蔵小杉」と「多摩川園〜蒲田」の2系統に変更することを発表した。前者を「目黒線」、後者を「東急多摩川線」と名称変更し、同年8月6日に2系統での運行を開始すると共に多摩川園の駅名を「多摩川」に改称(後述)した。系統変更に伴い、東急多摩川線も池上線と同じ18m車両3両編成に変更。目蒲線で走行していた7200系ツーハンドル運転台車が引退し、当社所属鉄道線の全運転台がワンハンドル化された。

目蒲線に唯一残っていた引退間際のツーハンドル車

「目蒲線の活用による東横線の複々線化」は東横線の混雑緩和を目的として計画したもので、目黒線の地下鉄相直により東京西南部と都心を結ぶ新しいルートを形成することで、東横線利用客の内一定割合の乗客を目黒線利用に誘導し、混雑を分散化することを狙いとしていた。相直により目黒線の利用客数が増えることから、一連の工事では、従来の18m車両4両編成に対応していたホームを改良して、20m車両8両編成の運行ができる環境を整えた。さらに近い将来にはワンマン運転を開始することとして、これに備えて武蔵小杉駅から順次ホームドアを設置した。 

目黒線の相互直通運転に備えた武蔵小杉駅でのホームドア取り付け作業

当社では相直用に、ワンマン運転に対応した新造車両の3000系を導入、6両編成で運行を開始した。この3000系は、当時主力であった8000系車両に比べて車体重量を17%軽くし、エネルギー効率を30%以上向上させたエコ車両であり、併せて低騒音機器の採用などで周辺環境にも配慮を行った。

導入された3000系車両

また、相直開始前日には地下鉄側の白金高輪駅で、帝都高速度交通営団(現、東京地下鉄)総裁、東京都交通局長、当社清水社長によるテープカットを行い、コンコースで祝賀会を執り行い、9月26日、6両編成での相直が開始された。

南北線と三田線の全線開通、目黒線との相互直通運転開始を記念し、式典を実施

その後、2001年3月28日に埼玉高速鉄道線(赤羽岩淵〜浦和美園間)が開通し、同線とも相直を開始、営団南北線(目黒〜赤羽岩淵間)を介して武蔵小杉から浦和美園までの長距離鉄道ネットワークが形成された。なお、2008年6月には目黒線日吉延伸によって、相互直通運転区間が日吉〜浦和美園間となる。

また都営三田線(目黒〜西高島平間)は、港区や千代田区など都心のオフィス街を通る通勤路線の性格が強く、東横線や目黒線の沿線住民にとっては、通勤の利便性が大きく向上した。

表7-2-1 東横線と目黒線の輸送人員推移(1999年度~2004年度)
注1:『東急100年史』資料編をもとに作成
注2:2000年8月6日運転系統変更(目黒線:目黒~武蔵小杉間直通運転開始)、同年9月26日目黒線と地下鉄線との相互直通運転開始
表7-2-2 目黒線開業前後の東横線複々線化区間1日平均乗降人員の推移(1999年度~2004年度)
注1:「会社概要」をもとに作成
注2:2000年8月6日運転系統変更(目黒線:目黒~武蔵小杉間直通運転開始)、同年9月26日目黒線と地下鉄線との相互直通運転開始
注3:自社線乗換人数は含まず(例:武蔵小杉駅での東横線⇔目黒線)
注4:1999年度の多摩川園駅の目蒲線は目黒線と東急多摩川線の欄に、田園調布駅の目蒲線は目黒線の欄に入力している

東横線の混雑率(祐天寺→中目黒)は1999年度187%から2000年度178%へと大幅に改善された。後述する目黒駅付近〜洗足駅付近間立体交差化や武蔵小杉〜日吉間線増工事が途上だったこともあって、特々事業の認定時の目標値である混雑率162%の実現にはまだ届いていなかったが、目黒線を東横線から都心への新たなルートとした東横線の混雑率改善は、着実な進捗を見せた。

なお「目蒲線の活用による東横線の複々線化」は1997年12月に特々事業の積立開始から10年を迎えたため、1998年度から積立金の取り崩しを開始した。認定工事費2108億円中530億円を積立金で賄っており、充当割合は約25%であった。

7-2-1-2 目黒駅付近〜洗足駅付近間立体交差事業の推進

「目蒲線の活用による東横線の複々線化」では、目蒲線の改良の一環として、地上交通との平面交差が多い目黒駅付近から洗足駅付近にかけて立体交差化することとした。この計画は、1965(昭和40)年の目蒲線と東京都都市計画道路補助26号線との交差部への踏切設置以来、踏切は暫定設置であり、速やかに立体交差する、として協議が続いていたものである。行政の財源に限りがあることから進展しないままであったが、1984年に事業調査が開始され、1995(平成7)年9月に東京都の都市計画事業「目蒲線立体交差事業」として認可された。地元への工事説明会などを経て、東京都、品川区、目黒区、当社がそれぞれ区間を分担して、1996年1月に着工。これにより事業区間約2.8kmにある18か所の踏切を解消し、安全性の向上、交通渋滞の緩和を図ると共に、鉄道によって隔てられていた沿線地域の一体化が進むこととなった。

図7-2-1 立体交差事業により解消された踏切
出典:「第133期事業報告」(ビジネスレポート、2002年6月)

計画線を目黒駅側から見ていくと、地上駅だった不動前駅までの区間を高架化して踏切2か所を解消、不動前駅から掘割区間を経て、洗足駅付近までを地下化して、踏切16か所を解消し、再び掘割区間を経て洗足駅に至るものである。

最初に着手したのが目黒〜不動前間の高架化工事である。東横線大倉山〜菊名駅間立体交差化工事で実績がある直上高架切替工法(STRUM工法)を採用した。1998年1月に高架橋建設の支障となる不動前駅の駅舎を約70m目黒寄りに仮移設して使用開始したあと、1999年10月9日の終電後に高架切り替え工事を行った。

この工法は、新しい高架線で使う線路を数ブロックに分けて既存線の上部に事前に作っておき、切り替え当日に各ブロックを計画の高さまで下げて(一部は既存線を上げて)、接続するというもの。これと併せて、不動前駅を元の位置に戻して仮設の高架駅とする工事も行った。切り替え当日の夜は、過去最大規模の作業員数約1200人を動員。建設省や東京都、品川区、目黒区をはじめJRや民鉄各社など関係各所から1000人以上が視察するなかで行われた。これにより、目黒〜不動前間の踏切1か所(目黒1号踏切)が解消、その後不動前~武蔵小山間の踏切1か所(不動前1号踏切)も解消された。高架切り替え後に、線路仮受桁の直下で高架橋本体の構造物を構築して、仮受桁を順次撤去、高架橋の本設化を進めた。環状6号線上の高架橋本設化は、2001年10月のことであった。

なお不動前付近〜洗足付近の地下化工事も並行して進められ、同区間の立体交差化が完成するのは2006年7月である。

  • 工事着手前の不動前駅(1996年)
  • 工事完成後の不動前駅付近(2003年)

7-2-1-3 武蔵小杉〜日吉間線増工事の着手

「目蒲線の活用による東横線の複々線化」で、最後に着手したのが武蔵小杉〜日吉間の線増工事である。この区間の工事は、当初段階からさまざまな計画変更の経緯があるので、主な変更内容も含めて記しておく。

1987(昭和62)年12月の特々事業の認定時は、東横線を従来通り地上に残したまま目蒲線を高架線として新設、目蒲線の延伸部分には元住吉駅を設けずに、武蔵小杉駅と日吉駅の間を直行する計画であった。都心への新たなルートとして機能させる目蒲線を、高速で結ぶことを優先していたのである。

工事着手前の元住吉駅(1999年)

ここで課題視されたのが、元住吉駅東西それぞれの商店街を結ぶ、元住吉1号踏切道である。人や自転車の通行量が多い踏切で、東横線の営業線に加えて元住吉車庫に出入りする列車も通過するため、1日の遮断時間が約12時間にのぼっており、地元や川崎市側は「遮断時間が改善されなければ、商店街の分断が解消されない」と難色を示して、全面的な高架化を要望。また「目蒲線の元住吉駅ができなければ利便性が向上しない」との意見も寄せられていた。

このため当社は、川崎市と地元が立ち上げた「まちづくり協議会」に参加して協議を進め、ようやく1997(平成9)年に変更案の成案を得るに至った。具体的には、武蔵小杉~元住吉間に新設する高架線を東横線用とし、元住吉駅は日吉寄りに移して東横線と目蒲線が停車する橋上駅舎にする、目蒲線は武蔵小杉を出てからいったん地上を走り(高架となる東横線との二層構造)、元住吉駅の手前で高架化して元住吉駅に入線する、というものであった。これにより元住吉1号踏切道は車庫からの出入庫列車が通過するだけとなり、1日の遮断時間を約3分の1に短縮できることとなった。さらに高架駅となる元住吉駅は島式2面4線ホームで、外側には優等列車の通過線を配線して合計6線とした。

橋上駅となった元住吉駅から武蔵小杉駅方面の複々線区間を望む(2008年)

またこれに伴って、東横線の跨線橋となっていた尻手黒川線(道路)と鉄道線の位置関係を上下入れ替えて、道路を地上に、東横線と目蒲線を高架にすることとした。

最終的には大半の区間の工事が川崎市との共同事業となり、環境アセスメントの手続きを経て、2000年3月に起工式を迎えた。同年9月、第6章で述べた多摩川橋梁〜武蔵小杉間の線増工事が竣工し、一連の「目蒲線の活用による東横線の複々線化」はいよいよ最終段階を迎えた。

なお武蔵小杉〜日吉間には、目蒲線と東横線も含めた出入庫の列車が通過する武蔵小杉1号踏切道が残ったが、川崎市の事業により道路のアンダーパス化が計画され、工事の進捗により踏切が解消されることとなった。

図7-2-2 武蔵小杉~日吉間線増工事概要図
注:『清和』2000年4月号をもとに作成

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