第7章 第5節 第1項 渋谷に誕生した新たなランドマーク

7-5-1-1「渋谷マークシティ」の竣工・開業

2000年代初頭に入って渋谷では、前章の「東急アクションプラン21」で重点事業とした二つのプロジェクトが完成した。「渋谷マークシティ」と「セルリアンタワー」である。

渋谷マークシティは、当社と京王帝都電鉄(現、京王電鉄。以下、京王)、帝都高速度交通営団(現、東京地下鉄。以下、営団)、の3社共同事業である。営団銀座線の車両基地(7090㎡)、京王井の頭線渋谷駅(3402㎡)、当社がバス発着基地として保有していた旧玉川線の土地(3890㎡)を一体開発し、鉄道施設、ホテル、オフィス、店舗などの複合施設を建設する「渋谷道玄坂一丁目開発計画(TKTプロジェクト)」として、1994(平成6)年4月に着工した。総事業費約750億円のプロジェクトである。

工事は第1期工事と第2期工事に分けられた。第1期工事は、営団と京王が、鉄道施設を主体とする地下から4階までの低層部分を施工し、1997年12月に新しい井の頭線渋谷駅が完成した。第2期工事は、当社が高層部の25階建てホテル棟(EAST)と23階建てオフィス棟(WEST)の建設、低層部の内外装や設備工事を行った。1999年3月には、施設の運営管理を行う株式会社渋谷マークシティを3社共同出資(当社36%出資)により設立した。

2000年4月7日に渋谷マークシティはグランドオープンを迎えた。京王井の頭線渋谷駅の改札口が2か所新設されたほか、施設内に地域冷暖房プラントを設けた。

同プロジェクトの立案段階では、渋谷の街が小売・飲食など商業用途に偏りすぎているとの認識から、ホテルやオフィスを拡充し、副都心としての機能が充実したバランスのとれた街づくりをすることを課題とした。とくにホテルについては、1990年初頭の政府登録の国際観光ホテルの客室が、同じ副都心と位置づけられた新宿は3600室超、池袋は約2000室に対し、渋谷はわずか199室しかなかった。当社は当初から二大プロジェクトそれぞれにホテル用途を入れることを意図しており、ホテルの拡充によりオフィス需要も高まるという考えであった。

ホテル棟には当社の渋谷エクセルホテル東急が出店。当時、渋谷最大の客室規模で、客室インターネットやレディスフロアの設置などビジネス客や女性客の利便性、快適性を高めた。オフィス棟にはNTTエレクトロニクス、コナミ、GEエジソン生命保険、サイバーエージェント、HISなどの企業がオフィスを構えた。バブル崩壊後の不況は長引いていたが、テナント契約率100%で開業を迎えることができた。

渋谷マークシティ外観、左がオフィスのあるWEST棟、右がホテルのあるEAST棟
図7-5-1渋谷マークシティのフロア構成
出典:『清和』2000年4月号
渋谷マークシティ東側の出入口 ※JR渋谷駅ハチ公口方面

7-5-1-2 「セルリアンタワー」の竣工・開業

渋谷の二大プロジェクトのもう一つは「渋谷・桜丘町プロジェクト」である。1950(昭和25)年から当社が本社を構えてきた桜丘町の敷地の高度利用を図るもので、最終的には隣接地と合わせた一体的な再開発により、ホテルとオフィスを主体とした超高層複合ビルを建設することとなった。地下6階地上41階建て、総事業費は約500億円という規模で、1997(平成9)年11月に着工した。

このビルは、「世界へ24時間、情報・文化を発信する、国際交流の拠点」というコンセプトで各施設が造られた。眺望に優れた高層フロアには、東京でも屈指のグレードのホテルを、東急ホテルチェーンが運営することになった。また、中低層のオフィスフロアは、IT関連企業の誘致を念頭に、さまざまな施策を施した。非接触ICカードを用いた高度なセキュリティ空間を実現したほか、最新鋭の情報通信環境を整えるため、日本初のマルチキャリアビル(複数の通信事業者により、高速データ通信用として光ファイバーが引き込まれているビル)とし、屋上にはFWA(加入者系無線アクセスシステム)のアンテナを設置できるスペースを設け、各種通信サービスの基地局としての活用を可能にした。テナント企業はそれぞれの目的に合った通信サービスを、自由に選択できるようにしたのである。さらに、ホテルの宴会場はコンベンションホールとして活用できるよう、天井高7.2m、最大1400㎡超の空間、オフィスフロア同様の高度な通信環境を整備した。

背景には1990年代後半からのIT関連企業の成長があった。創業間もないITベンチャーの多くが自由闊達なコミュニティを求めて渋谷に集まり、渋谷は、シリコンバレーならぬ「ビットバレー」(渋い=ビター=ビット、谷=バレーという文字上の連想から)と呼ばれるようになった。時代の寵児であったIT関連企業は賃借需要が旺盛で、なおかつ最新鋭の情報通信環境を求めていたのである。

1999年4月には建物の名称を「セルリアンタワー」とすることを発表。英語で青空を意味するネーミングで、青空のように爽やかで心地よい空間でありたい、国際交流の新たな活動拠点として、グローバルに日本と世界をつなぐタワーでありたいとの思いを込めた。

2000年4月に上棟を迎え、2001年3月に竣工、4月からテナント入居が始まり、5月に「セルリアンタワー東急ホテル」の開業も含めグランドオープンとなった。開業2日前に行われた竣工開業披露宴には各界の要人、自治体関係者、関連企業など約1500人が出席し、中曽根康弘元首相が乾杯の発声に立った。

開業に合わせてセルリアンタワーに直結させる形で、首都高速3号線と国道246号線をまたぐ歩道橋が建設省との共同事業にて設置された。高速道路の上に歩道橋を設ける先例はなかったが、関係各所との調整により、実現したものである。セルリアンタワーへの動線というだけでなく、渋谷の南北方向の分断解消により、街の回遊性を向上させるものとして期待された。

図7-5-2 セルリアンタワーの計画断面図
出典:『清和』1997年11月号
図7-5-3 セルリアンタワーのロゴマーク
出典:ニュースリリース(1999年4月16日)
建設工事の様子(1998年5月)
完成したセルリアンタワー
国道246号線および首都高速3号線の上部に設置された歩道橋

ビルの付加価値を高めるため、セルリアンタワーには、西洋の文化を象徴する「ジャズスポット」と日本の文化を象徴する「能楽堂」を設け、文化の面からもさまざまな人、とくに本物志向の大人を満足させる役割を担った。ちなみに当社は戦前、多摩川園内に「多摩川能楽堂」を所有しており、当社として建設した能楽堂はこれが2か所目である。

セルリアンタワー能楽堂

当社の狙い通り、オフィスは外資系金融関連やIT関連企業などテナント契約率100%で開業した。100%稼働を維持し続け、ホテルの客室稼働率も高水準で推移し、セルリアンタワーの資産価値は高まった。こうしたなか当社は、2004年3月セルリアンタワーの信託設定などを行った。当社グループが抱える財政的課題を克服するための決断で、固定資産の流動化により有利子負債の削減を図ると同時に、渋谷をはじめとする沿線活性化事業など今後の新規投資に備えて所要資金を調達する一環であった。これにより、当社はセルリアンタワーの所有者ではなくなったが、ホテルや能楽堂の運営、オフィスを含めたプロパティマネジメント(不動産運営管理)業務の受託者として、セルリアンタワーの資産価値の最大化に努めることとした。

不動産の証券化が2022(令和4)年現在ほど一般的ではなかった当時、旧本社敷地でもあり、東急グループのシンボルとして長年にわたって構想し、苦労の末に開業した虎の子の物件について、その所有権を開業後わずか数年で手放したニュースは、社内外で衝撃として受け止められた。

7-5-1-3 スクランブル交差点前に「QFRONT」が開業

渋谷マークシティやセルリアンタワーに比べれば小規模ながら、スクランブル交差点(渋谷駅ハチ公前交差点)前のランドマークであり、SHIBUYA109に続き渋谷の街のアイコンともなったのが1999(平成11)年12月に開業した「QFRONT」である。

この地には1960(昭和35)年に峰岸ビルが建てられ、東宝系の映画館などが入居、まだ雑然とした佇まいが残っていた渋谷駅周辺では存在感を示す中層ビルであった。1968年には峰岸ビルの北側に西武百貨店が開業、峰岸ビルを挟んで東急百貨店東横店と相対する格好となった。スクランブル交差点前という絶好のロケーションであることから、東急百貨店が中心となって同ビルの再開発を働きかけ、老朽化に伴う1997年の解体後、東急百貨店関連会社の札幌プラザ株式会社が事業主となって、他の地権者と共に共同でQFRONTを建設した。

QFRONTは地上8階、地下3階建てのマルチメディア情報発信型の商業ビルで、ビルの外壁はガラスで覆われており、渋谷駅側の外壁に当時としては異色の大型街頭ビジョン「Q'S EYE」を設置した。これは、縦23.5m、横19mの超大型フルカラーLEDビジョンで、一般企業や東急グループのCMのみならず、行政からの情報発信としても活用された。テナントとしては、カルチュア・コンビニエンス・クラブの旗艦店「SHIBUYA TSUTAYA」のほか、開業直後は東宝系のミニシアターなどが入居した。

渋谷スクランブル交差点の前に建設された「QFRONT」

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