第7章 第2節 第3項 大井町線の改良・延伸による田園都市線の複々線化

7-2-3-1 大井町線の改良区間を大井町駅まで延長

1995(平成7)年3月に特々事業の認定を受けた「大井町線の改良・延伸による田園都市線の複々線化」(認定名称:大井町線大岡山〜二子玉川園間改良工事および田園都市線二子玉川園〜溝の口間複々線化工事)は、自由が丘〜中目黒経由で営団日比谷線へ、大岡山〜目黒経由で営団南北線・都営三田線へと、都心へ向かうルートの選択肢を増やすことで、田園都市線・新玉川線の混雑を緩和し、同時に大井町線を速達化して活性化を図るのが狙いである。

前章でも記したように、目蒲線との乗換駅にあたる大岡山駅での工事は「目蒲線を活用した東横線の複々線化工事」の一環で1990年10月に着工、1997年6月に4線地下化を完了して方向別ホームを整えており、田園都市線と大井町線に分岐する二子玉川園駅の改良は1993年10月に着工、1999年9月に方向別ホームを完成させた。また自由が丘駅は大井町線ホームを延伸する工事などを実施した。

一連の工事は、認定名称にあるように、当初は大井町線の改良区間を大岡山〜二子玉川園間としていた。大岡山で目蒲線に乗り換えて都心へ向かうルートを早々に形成し、喫緊の課題でもあった田園都市線の混雑を緩和するためであった。

かねてから計画されていた東京臨海高速鉄道「りんかい線」の東京テレポート〜大崎間の工事が着手され、大井町駅でJR京浜東北線・大井町線と接続することとなった。臨海副都心は、民間主導の開発で商業施設やコンベンション施設などが整備され始め、輸送需要も高まりつつあったことから、当社は大井町線の改良工事区間を「大井町〜二子玉川間」に変更した特々事業計画の変更申請を2000年9月に行い、同年11月に認定された。これにより大井町線全区間にわたって改良工事を進めることとなった。

改良工事区間の変更に伴って主要工事に加わったのが、大井町駅改良工事、旗の台駅改良工事、急行待避施設の整備、梶が谷駅構内の留置線新設である。この内、旗の台駅改良工事は、盛土区間の一部を高架橋に変更し、従来の2面2線ホームを2面4線ホームに変更して急行待避が可能な施設にすると共に、階段が多く池上線との乗り換えなどが不便であった駅構内のバリアフリー化を行うこととし、2002年1月に着工。また大井町駅改良工事は、20m車両6両編成(当初計画では18m車両8両編成)の急行運転による利用客増に対応するためホームを延伸、幅員も広げる工事で、2002年11月に着工した。

大井町駅改良工事

また、当初は急行待避線を尾山台駅と等々力駅に設ける計画であったが、2000年の計画変更申請においては等々力駅のみとした。ただし、これについては環境影響を懸念する地元から反対の声が上がり、今後の協議事項として残された。

7-2-3-2 田園都市線の利便性向上とこどもの国線の通勤路線化

田園都市線は、複々線化工事のほかにも、利便性の向上などを図る施策が行われた。

まず挙げられるのが、「こどもの国線」の通勤路線化である。

同路線は「こどもの国」への交通機関として1967(昭和42)年に開業した。3.4kmの単線で、社会福祉法人こどもの国協会が線路設備などを所有し、当社が運送業務を受託していた。

1989(平成元)年1月には、2両編成運転時のワンマン運転を開始した。当社線でのワンマン運転はこれが最初である。既存車両(7000系)を改良して、自動放送装置や車外放送装置、扉誤扱防止装置を搭載し、運転士がホーム上の鏡による目視での車両側面の確認、ドア開閉を行った。

その後、沿線の宅地化がいっそう進み、通勤にも利用しやすくしてほしいとの要望が高まった。「こどもの国」の来園者輸送を主眼に置いていたことから、ダイヤは昼間の運行が中心であり、休園日には運行本数がさらに少なかったからである。横浜市が中心となって通勤路線化を計画し、1997年6月に運輸省から通勤路線化に関する事業基本計画変更の認可を受けて、通勤路線化することが決まった。1997年8月には、こどもの国線の鉄道事業免許がこどもの国協会から横浜高速鉄道に譲渡された。

通勤路線化に併せて、長津田駅とこどもの国駅のほぼ中間に恩田駅を新設し、2000年3月に新ダイヤでの運行を開始した。8時25分〜18時30分までだった運行時間を6時台〜23時台に拡大、運行間隔を短縮して運行本数を増やした。新たに定期券の販売も開始した。横浜高速鉄道により目黒線の3000系をベースとした20m片側3扉車両が新造され、原則2両編成のワンマン運転とした。

こどもの国線の通勤路線化により新たに開業した恩田駅(2000年)

1999年8月には、藤が丘駅の改良工事に着手し、上り線に急行通過線を新設して、急行列車のスピードアップを図った。

横浜市営地下鉄3号線(ブルーライン)と接続するあざみ野駅については、急行停車駅にするよう、横浜市から要望書が提出された。当社は、2000年10月に、この要望を受ける方向で検討することを回答した。港北ニュータウンの人口増加もあって、あざみ野駅の乗降人員数が他の急行停車駅に匹敵するほど増加してきていることや、藤が丘駅に急行通過線が完成してスピードアップが図れると、あざみ野駅に急行停車させるための増加時分を吸収できることなどからの判断であった。2002年3月のダイヤ改正で、あざみ野駅を急行停車駅とし、藤が丘駅の急行待避線の使用を開始して長津田〜渋谷間の所要時間を短縮、早朝および深夜の列車を増発するなど利便性を高めた。またこのダイヤ改正では、週休二日制の浸透に伴う利用人員の変化に対応するため、それまでの土曜ダイヤと休日ダイヤを統一して土休日ダイヤとし、大井町線・田園都市線で実施した。

このほか2003年3月に、営団半蔵門線を介して、田園都市線と東武伊勢崎線・日光線との相互直通運転を開始した。これは、半蔵門線水天宮前〜押上間の延伸工事、東武鉄道による伊勢崎線曳舟〜押上間における半蔵門線との直通化工事の竣工によるもの。田園都市線中央林間〜東武伊勢崎線・日光線南栗橋が乗り換えなしで結ばれることとなり、神奈川・東京・埼玉の一都二県を結ぶ全長約100kmの広域ネットワークが形成された。

3社間での相互直通運転を開始(2003年)※左から東武鉄道・営団地下鉄・当社の車両

こうして、当社鉄道線では大規模改良工事や相互直通運転などに伴い、鉄道ネットワークの拡大や速達化も含めて利便性が大きく進んだ。このころは米国のITバブル崩壊と同時多発テロで戦後最も景気が低迷していた時期であったが、2002年ごろから徐々に回復傾向へと歩み出したこともあり、当社線の輸送人員は回復へ向かい、年間輸送人員10億人の大台を見据えることになった。

表7-2-3 鉄軌道輸送人員の推移(1990年度~2004年度)
注:『東急100年史』資料編をもとに作成

7-2-3-3[コラム]新型車両「5000系」の導入

当社は2001(平成13)年12月、「人と環境に優しい車両」を設計コンセプトとした新型車両「5000系」を、2002年春から田園都市線に導入することを発表した。5000系の主な特徴は、以下の通りである。

  • 車体の軽量化により、走行時の騒音を低減すると共に、消費電力の少ない制御装置を用いることにより、8500系より消費電力を約40%削減
  • 従来の主力車両であった8500系よりも車体床面を4cm下げることで、ホームと車両乗降口の段差を縮小
  • 当社車両では初めて15インチ液晶モニターをドア上に設置し、停車駅案内や乗り換え案内を表示
  • 各車両に2か所、乗務員と通話できる非常通報装置を設置。車いすスペースを設けた号車では、車いすスペースにも設置
  • 車内環境の快適化のために、窓には熱線吸収・紫外線カットガラスを採用
  • 高効率タイプの空調機器の採用により、冷房能力を増強し、状況に応じてきめ細かく温湿度を調整

前述したようにJR東日本と東急車輛製造が共同開発し、2000年3月にJR中央・総武緩行線で導入されたE231系を設計のベースとし、部品を共通化するなどしてコストダウン化を図ったことが、従来の車両開発とは大きく異なる点である。

当社の車両開発はこれまで、大規模改修を加えながら40〜50年間使用することを前提にしてきたが、利用客のニーズの変化に柔軟に対応していく必要があることなどから、ライフサイクルを約40年に設定し、製造と運用の両面でコストダウンを図るため、JR車両との共通部品も採用した新型車両に転換したのである。

2002年5月、田園都市線で10両1編成の運転を開始し、さらに2003年3月からの東武伊勢崎線・日光線との相互直通運転に備えて50両(5編成分)を新造して、相直における主要車両として活用していった。5000系は将来的に標準となる通勤型量産車として開発したもので、これを継承する5080系を2003年3月から目黒線に、2004年4月から5050系を東横線に、2007年12月から7000系を池上線・東急多摩川線に、2008年3月から6000系を大井町線に導入した。

田園都市線に導入した新型車両5000系

7-2-3-4 駅名や路線名の変更

当社は2000(平成12)年8月、多摩川園駅と二子玉川園駅の駅名変更、目蒲線の運行系統および路線名変更、田園都市線・新玉川線の路線名統一を行った。

多摩川園駅と二子玉川園駅は、駅名の由来となった遊園地が共に閉園し、地元からも駅名変更の要望があったため、それぞれ「多摩川駅」、「二子玉川駅」に変更した。

目黒〜蒲田間を運行してきた目蒲線を、「目黒〜武蔵小杉(のちに日吉)」と「多摩川〜蒲田」の2系統に分割して運行を開始し、路線名を前者は「目黒線」、後者は「東急多摩川線」とした。同時に、多摩川駅を東横線の急行停車駅に加えたほか、東急多摩川線の平日朝夕のラッシュ時間帯の列車を上下線合わせて10本増発するなど、東急多摩川線利用者の利便性を確保した。

また、「田玉線」とも通称されていた田園都市線(二子玉川園〜中央林間間)・新玉川線(渋谷〜二子玉川園間)の路線名を「田園都市線(渋谷〜中央林間間)」に統一した。同一の運行系統であり、二子玉川を境に路線名を分けることで利用者に誤解が生じやすいため、統一したものである。

東横線の学芸大学駅、都立大学駅については、駅名の由来となった両大学共、移転していることから、1999年6月に、駅名を変更するか、地元アンケートを実施した。両駅に投票箱を設置して、地元の意向確認を行うものであった。総票数2549の内、駅名変更に賛成が学芸大学駅37%、都立大学駅59%で、変更を検討する目安としていた3分の2以上に達しなかったため、駅名存続を決定した。

多摩川園駅から多摩川駅への駅名票架け替えの様子

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