第7章 第6節 第2項 沿線を中心とした生活サービスの推進

7-6-2-1 新たな起爆剤と睨んだ「メディア事業戦略」

当社は1999(平成11)年7月の組織改正で、事業開発室を新設した。効率化や合理化だけでは収益は伸びず、企業としての活力や発展が望めないことから、将来的に新たな収益をもたらす新規事業を立案、推進することを使命とする部署である。事業開発室には、生活情報事業部から移管したメディア事業開発部と企画部を設けた。

2000年7月には同年4月に策定した「東急グループ経営方針」に連動した組織改正が行われ、新設の事業戦略推進本部の下に、メディア事業開発部を継承するメディア事業室と、企画部を継承する事業開発室を設けた。前者のメディア事業室は、「東急グループ経営方針」において、成長戦略の一つに掲げた「メディア事業戦略」を担った。当社が構築してきた鉄道敷光ケーブル網と当社子会社の東急ケーブルテレビジョンが構築したケーブルテレビ(以下、CATV)網の情報インフラを活かして、新しいメディア関連ビジネスを創出するのである。具体的には、コンテンツビジネスの立ち上げ、電子商取引(ECコマース)での活用、さらには高速通信の双方向性を活かした新しいビジネスの展開など、鉄道インフラの周囲に街が生まれ、消費が生まれて大きな市場が形成されてきたように、情報インフラをプラットフォームとして新しいビジネスチャンスを発掘・育成し、東急グループの成長につなげようとする考えであった。

メディア事業の根幹となるのは、東急ケーブルテレビジョンが構築してきた情報インフラである。同社は多チャンネルを最大の売りとするテレビサービスの加入世帯数が伸び悩み、収支の面では苦戦が続いていたが、1998年4月に定額制の超高速インターネットサービスを開始してから状況が一変。高速通信網として普及の途上にあったISDN(総合デジタル通信網)の200倍以上の超高速スピードでありながら、利用料を安価な定額制としたことで大きな注目を集め、申し込みが殺到した。急速なパソコンの普及に伴って、ネット検索やホームページ閲覧、メール送受信などで通信需要が急増していた時期のサービス開始であった。これにより当社から関連資産を譲受した同社の営業利益は1999年度に大幅増となった。「メディア事業戦略」では、この高速通信網を活用して、さらなる成長をめざした。

1999年10月からは当社を含む民鉄6社で、各社の鉄道線敷に沿って敷設した光ファイバー網を利用したLAN(ローカルエリアネットワーク)間接続実験を行った。各社の光ファイバー網はおおむね鉄道路線網の範囲であり、とくに当社の場合は路線距離が短いため、単体での事業展開は限定的になる。そこで各社と接続し合って光ファイバー網を広域にすることで、事業展開の可能性を膨らませることとしたのである。

これが発展して、2000年4月に、当社を含む民鉄4社が発起人となって日本デジタル配信株式会社(以下、JDS)を設立(当時の当社出資比率9.1%)。発起人4社のほか、民鉄3社、東急ケーブルテレビジョン、東京電力など合計12者の株主で構成。いわゆる「関東民鉄連合と東京電力」という形でBSデジタル放送や地上波デジタル放送の開始に向けて、CATV各局へのデジタルコンテンツの配信事業などを行うこととした。そして、2002年に同社などが出資して人工衛星による配信会社が設立された(のちにJDSが吸収)。

一方、2000年4月には、当社、ソニー、トヨタ自動車の3社で高速インターネット向けコンテンツの配信事業を検討するAII企画(のちに事業会社化)を設立した。

また同年6月にはソニー、当社、東急ケーブルテレビジョンの3社で、ブロードバンド(高速・大容量通信)・ネットワーク事業の展開に向けた戦略的業務提携を締結。これを機にソニーが、当社から、東急ケーブルテレビジョンの株式を取得し、同社株式の10%を取得した。

情報通信を巡る環境の変化は目まぐるしく、国内では2001年ごろから電話回線を利用した安価なADSL(非対称デジタル加入者線)サービスが急速に普及、NTTによる光ファイバー網による高速通信の低廉化も進み、東急ケーブルテレビジョンの競争力も盤石ではなくなった。このため同社は、沿線の地域社会に密着した通信事業者として、きめ細かなサービスに徹することとし、2004年1月からは電話サービスを開始。デジタル放送、インターネット接続、電話を事業の三本柱とした事業展開(通称トリプルプレイ)とした。

この間の2001年8月に、東急ケーブルテレビジョンの社名をイッツ・コミュニケーションズ株式会社(以下、イッツコム)に変更。2002年4月には、当社が手がけていたインターネット接続事業(246-net)を同社に営業譲渡した。

社名変更により、社屋のロゴマークを更新
出典:『イッツコム30年史』

このほか、コミュニティFM放送事業を展開した。当社と東急エージェンシー、イッツコムの3社が中心となって横浜コミュニティ放送株式会社を設立し、2002年10月に「FMサルース」の本放送を開始した。

「FMサルース」の放送エリアは横浜市青葉区を中心とした多摩田園都市地域で、鉄道運行情報、天気予報、青葉区区政情報といった生活利便情報や災害時には緊急情報を提供するほか、地元ボランティアなどからの地域の身近な話題や出来事を紹介するなど、地域の生活をより豊かなものにする放送内容とした。

たまプラーザ駅前の「FMサルース」サテライトスタジオ

一方、日本のCATV業界では規模のメリットによる番組調達コストの削減や業務の一元化・効率化を志向し、寡占化をめざした動きが起こっていたのもこのころである。複数のCATV局を統括して運営するもので業界ではMSO事業者と呼ばれていた。国内では、2000年にジュピターテレコム(現、以下J:COM)が、関東近郊をはじめ各地でCATV局を運営したタイタス・コミュニケーションズと経営統合し、「J:COM〇〇(※〇〇は地域名)」という名前でCATV各局を運営し始めたほか、ジャパンケーブルネット(以下、JCN)も複数のCATV局を傘下に収めた。この動きは2000年代前半に活発化、J:COMとJCNが二大巨頭となり、都市圏をエリアに持つイッツコムとTOKAIケーブルネットワーク(東海ガス系列)がそれに続く形であった。また、JCNはJDSと同業であるジャパンケーブルキャストとも連携関係にあった。

このまま二大巨頭による寡占化が進むとイッツコムやJDSはより小規模となり、当社連結としての将来の経営やメディア事業戦略を左右するため、当社も交えさまざまな検討を行った。そして3社は当社の既存事業との親和性や大規模なユーザーを抱える都市圏であることから、イッツコムが展開しているエリアと隣接したCATV局を軸にして、傘下などに向けた取り組みを始めていくこととなった(以降の動きは後述)。

図7-6-2 東急沿線でのイッツ・コミュニケーションズの展開エリア(2005年3月末)
出典:「2005年3月期 決算説明会参考資料」(2005年5月19日)

7-6-2-2 新規事業の創出をめざして

1999(平成11)年7月の組織改正で新設した事業開発室企画部(2000年7月から事業戦略推進本部事業開発室)は、将来の収益の柱となり得る新規事業の創出を担う組織である。

新規事業創出を促す仕組みとしては、1995年7月に「社内提案制度」がスタートしていた。制度を所管する事業開発委員会(事務局は経営管理室)が提案第1号として受理したのがタイムシェアリゾートの「ビッグウィーク」であった。これに続いて、簡易クリーニング事業(ワイシャツなど需要が多い品目のクリーニングを駅構内で依頼、受け取りができる)やアニバーサリービデオ事業(自分史など個人や家族などの人生にまつわるビデオ制作)、パソコンスクール事業(NECとの共同事業)が1998年までに立ち上がった。若手社員のアイデアや活力を生かした新規事業創出の機運が醸成されていった。

事業開発室はこの制度を引き継ぎ、2000年1月にはこれを発展させた「新規事業チャレンジ制度」を開始した。既存事業の発展・改造も提案として取り扱い、また収支見込みを含めた詳細な企画書がなくても優れたアイデアなら提案できるようにするなど間口を広げ、事前相談や企画書作成のアドバイスを行うサポート体制も整えたのである。さらに2001年4月に提案賞(受理された提案のすべてに図書券3000円分)、社長賞(本格事業化されたものに100万円)などを設けた表彰制度を創設し、新規事業の提案を社員から広く求めた。

新しい制度の下で提案されたのは、IT関連のベンチャー企業を支援・育成するインキュベーター事業。オフィスの提供、出資による資金援助、経営アドバイスを行うもので、受け皿となるインキュベーター・ビル「ビットキューブ」を渋谷区神山町に建設し、2001年2月に事業化を果たした。2002年5月には、東急線沿線での映像制作を支援する「tokyu C&C」を開始し、2003年5月から本格事業化した。ドラマやCMのロケ地として駅や鉄道車両、商業施設などを有料で提供し、沿線価値の向上にも役立てることも狙った事業であった。

「tokyu C&C」長津田検車区でのロケーション撮影
ビットキューブのオフィス内部(左)と外観(右)
出典:『清和』2001年2月号

7-6-2-3 流行発信基地「ranKing ranQueen」の開業と流通事業部の発足

2000(平成12)年4月の「東急グループ経営方針」の実行施策の一つ、成長戦略の推進に盛り込まれた「駅機能の見直し」を具現化する事業として、2001年7月、渋谷駅構内の2階コンコース(東急百貨店東横店西館2階)に「ranKing ranQueen(以下、ランキンランキン)」を開業した。

駅を「メディア」と捉え、「話題」の提供と実際の商品販売を結びつけることで「リアル」と「バーチャル」を融合させ、駅を「リアルメディア」の拠点にするという、当時としては斬新な発想で立案された。ランキング調査会社や東急エージェンシー、東急ストアなどからの情報をもとに、CDや書籍、加工食品、化粧品など、さまざまなジャンルの売れ筋上位商品の陳列、販売を主体とし、メーカーなどにプロモーションの場としてスペースの提供も行った。駅に流行発信基地の機能を持たせる、画期的な業態の誕生であった。

オープン初日から大きな話題を集めて多くのマスメディアに取り上げられ、好調な出足を見せた。その後、ランキンランキンの多店舗化を図ることとし、JR東日本との業務提携により2002年12月にJR新宿駅東口改札前に新宿店を開店したほか、テレビ局とのタイアップ、他社線主要駅や首都圏以外への出店も積極的に行った。2004年度末には常設5店舗体制になり、最盛期には福岡、札幌を含め常設12店舗、仙台や名古屋をはじめとする期間限定店舗を含めると、延べ19店舗(小型売店型を除く)の出店となった。

なお、当社は2011年5月にランキンランキン事業を東急レクリエーションへ譲渡。2013年には大阪への出店も果たした。

ランキンランキン渋谷店(2002年)

2001年7月の組織改正で発足した流通事業部は、駅機能の見直しの推進体制を強化するために新設された。前述のランキンランキンのほか、鉄道部から交通広告やテコプラザ(旅行業)、駅構内営業、ビル事業部から高架下など交通資産賃貸業、事業開発室から月刊沿線情報誌「salus」が移管された。併せて、駅売店を運営する東弘商事や外食事業も所管した。流通事業部はこれらの事業再編も含め、資産を活用した事業の活性化に取り組み、それぞれの事業の専門性を高め、収益の最大化、沿線価値の向上、グループ事業との接点拡大を担うこととなった。

新たな施策として、交通資産賃貸業において、子育て世代の利便性向上のための保育施設を誘致することに取り組み、2003年に大岡山駅近くの社有地と不動前駅ビル内に東京都認証保育所を開園させた。

7-6-2-4 外食事業の再編成

この時期の、当社の外食事業は、嶮山スポーツガーデン内のレストランや、ケンタッキーフライドチキンやドトールコーヒーなどのフランチャイジー店などであり、東急ジョイガーデンに運営委託していた。2002(平成14)年からは駅構内喫茶店「キュート」も同社に委託した。また、駅構内のレストランやそば店「そば処二葉」、鉄道部門の社員食堂(元住吉)を東弘二葉が運営していた。東弘二葉は、当社子会社東弘商事の子会社である。

東急グループの事業再編成の一環で外食事業の一本化が決定され、2003年4月、東急ジョイガーデンと東弘二葉を合併し、存続会社である東弘二葉は社名を株式会社東急グルメフロントに変更し、併せて、当社は外食事業を同社に譲渡した。

図7-6-3 外食事業の沿革
注:『東急弘潤会50年史』、『とうきゅう』2003年2月号をもとに作成

7-6-2-5 東急ファシリティサービスの発足と東急セキュリティの設立

「東急グループ経営方針」の「顧客基盤強化戦略による沿線活性化」を進めるにあたり、沿線地域社会の「安全・安心」を守ることが沿線価値向上の大きな要素であるとの認識から、2003(平成15)年12月のコーポレート会議で、今後ますますニーズが高まると見込まれた沿線エリアでのホームセキュリティを軸としたセキュリティ事業の強化を進めることを決定した。

東急グループの警備事業には、二つの系譜があった。一つは、1961(昭和36)年にタクシー事業を営む会社として設立した城南交通を発端とする。同社は事業多角化を模索するなかで、1964年に渋谷サービス、さらに1967年に東急サービスへ商号を変更した。この間に、NHK放送センターの渋谷移転に伴い、同センターの食堂運営を請け負ったことを機に、東急線沿線を中心としたグループ内外のビルや公共施設などの食堂運営を始めた。清掃、設備管理、警備、受付業務などへと業容を拡大し、東急線主要駅での清掃も請け負っていた(タクシー事業は1974年に撤退)。 

もう一つは、1956年に当社傘下となった東急管財に始まるもの。同社は東急文化会館や当社本社をはじめとした東急グループのビルや百貨店(白木屋、東横百貨店)、東光ストアの清掃からスタートし、グループ外からの受注も進め、当社のホテル事業の拡大と共に事業エリアを全国に広げた。業務内容もホテルやビルなどの清掃、設備管理、警備のほか、空港での日本エアシステムの地上サービスなども担うに至った。

このように同じ業容を2社が行っていたことから、「選択と集中」によって、ビル管理事業(設備管理、警備、清掃)の強化を図るため、2002年7月に両社を合併し、当社完全子会社の東急ファシリティサービスとした。

なお、グループのビル管理事業では、1970年4月に東急不動産が東急コミュニティーを設立。同社は大手の一角として全国展開する成長を遂げ、1999年12月に東証第二部に上場し、2000年3月に第一部に指定替えした。

発足した東急ファシリティサービスは警備事業を行っていたが、ホームセキュリティは、前身の東急サービスが独自のシステムで小規模に展開していた程度であったため、沿線地域では警備会社大手2社(セコム、綜合警備保障)の独壇場といえる状況であった。

このため、イッツ・コミュニケーションズの情報インフラの活用、沿線地域の東急グループ各社の施設・建物を活用した警備員待機所の設置による機動性の確保、高度な人的サービスなど、東急グループの経営資源を投入して競争力のあるセキュリティ事業を確立することを計画。さらに、東急ファシリティサービスを会社分割してセキュリティ事業専門会社を設立することを決定した。

2004年10月に東急セキュリティを設立、同年12月から本格的に事業を開始した。

機械警備員と警備車両

当初の同社の事業領域は、機械警備業を柱に、巡回警備業、警備業務に付随する物販・サービス業の三つとした。機械警備は、ホームセキュリティをはじめ、マンションセキュリティ、事業所・店舗セキュリティ、駅セキュリティなどである。巡回警備はオプション契約で、年間契約による定期巡回と、一定期間契約による臨時巡回をメニューとして揃えた。

特徴的なことは、営業エリアを東急線沿線の17市区に限定し、一般加入回線などのほか、イッツ・コミュニケーションズのCATV網を利用していることである。これは、異常発生信号の管制センターへの通信速度が高速化できたほか、WEBカメラを設置すれば自宅の様子が確認できるなど、強みになった。

営業活動にあたっては、防犯設備士の資格(警察庁所管の公益法人である社団法人日本防犯設備協会が認定する資格)を持つ営業スタッフが、地域の犯罪件数、周辺環境、家の構造、家族構成などをもとに、防犯にかかわる診断を行い、適切なプランを提案。契約後も定期的な点検・訪問を行うこととした。沿線では最大手のセコムが8割程度のシェアを握っていたが、東急グループならではの地域密着の事業展開により、新たな顧客を獲得することをめざした。

東急セキュリティの業務風景(2006年)

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