
人にいろんな個性や特徴があるように、駅にも個性や特徴はあります。学生が多い駅や、親子連れが多い駅、サラリーマンが行き交う駅、大きな駅、古い駅、電車がたくさん停まる駅、静かな駅……そういった駅の個性は、街並みにも自然とあらわれるのではないでしょうか。
そして、そんな駅と駅の真ん中ぐらいには、どちらの駅でもなく、どちらの駅でもある、まるで海水と淡水が混ざり合った汽水湖のような「駅境」といえる場所が存在しているのではないか?
駅と駅のちょうど真ん中あたりはどうなっているのか、駅境を探してみたいと思います。
西村まさゆき
ライター。移動好き。境界や境目がとても気になる。地理、歴史など社会科に関連する著書が多い。著書に『日本の路線図』(三才ブックス)/『たのしい路線図』(グラフィック社)/『ふしぎな県境』(中公新書)/『ファミマ入店音の正式なタイトルは大盛況に決まりました』(笠倉出版社)/『地図でめぐる日本の県境120』(イカロス出版)
祐天寺と中目黒の駅境、実はすごいことに⋯⋯
祐天寺と中目黒。駅としては隣同士で、東横線に乗るとわずか数分で行き来できる。この二つのまちのあいだには、歴史的にも重要な境目がありました。
そんな駅境を探すため、祐天寺駅から散歩スタートです。

ところで、祐天寺と中目黒のまちの境目。地図上で見るとどんなふうになっているのでしょうか?
「祐天寺」と名の付く建物と「中目黒」と名の付く建物を、それぞれ地図上にマッピングしたものを見てみましょう。

祐天寺の赤い点は、住所では「目黒区祐天寺」と一部「目黒区五本木」の範囲内に概ね収まっています。一方、中目黒は中目黒駅周辺と目黒川の向こう。そして祐天寺の領土にちょっとだけ食い込んでいます。
祐天寺と中目黒の住所での町域に色を塗った地図がこちらです。

中目黒駅と祐天寺駅の間に、中目黒でも祐天寺でもない間の空いている場所があります。ここが気になるわけですが⋯⋯。今回はそこに向かうまえに、まず図書館に向かいたいと思います。
《今回巡った祐天寺〜中目黒の駅境調査スポット》

祐天寺と中目黒の駅境の目印、「庚申塔」を調査

やって来たのは、祐天寺駅から歩いて数分。目黒区立守屋図書館です。なぜいきなり図書館にやって来たのか!それは、これから巡る場所の資料をコピーしたかったからです。

祐天寺と中目黒の駅境を巡るにあたり、なにか目印になるものをと思い、庚申塔(こうしんとう)に関する資料をコピーしたのでした。
庚申塔とはなにか。さっそく、図書館近くの庚申塔に向かってみます。

図書館から歩いてすぐの場所にある庚申塔です。

庚申塔とは「庚申待」(こうしんまち)という信仰行事に関連して建てられたものです。
庚申待とは60日に一度の庚申の日に近所のみんなで集まり、神仏に祈りつつ会食懇談などして徹夜するというイベントです。これを「庚申信仰」と言ったりします。庚申待の風習は、もともと道教の言い伝えが元になっているとされます。人の体内には三尸(さんし)という虫が棲んでおり、60日に一度の庚申の日に寝ると、この虫が体から抜け出して宿主の悪事を閻魔大王に告げ口して寿命を縮める。だから、庚申の日には一晩中寝ずに三尸が抜け出るのを阻止する⋯⋯というわけです。
庚申塔は、沖縄を除く日本全国に分布はしていますが、地域によってその多さが異なります。筆者は鳥取県出身ですが、地元では庚申塔をあまり見かけることがありませんでした。しかし、上京するとまちのあちこちで庚申塔や庚申塚を見かけるようになりました。どうやら庚申塔は、西日本よりも関東地方の方が若干多い傾向があるようです。
実はこの庚申塔、前回めぐったセンゾク(洗足・千束)の回でもひとつ見つけています。
庚申塔があるということは、60日に一度はみんなで集まって夜通し楽しむというようなコミュニティがそこにあった。すなわち、江戸時代からの古い集落がこのあたりにはあったという証拠でもあるでしょう。
五本木の庚申塔には「青面金剛」という庚申信仰の本尊とされる神様がしっかり彫り込まれており、その下を三猿が支えているという、かなり凝った立派なものです。
祐天寺二丁目「さわら庚申」の脇道は、“江戸のまち”と郊外を分ける境目
続いて向かったのが、祐天寺二丁目交差点にある「さわら庚申」という庚申塔です。

立派なお堂の中に庚申塔が3基祀ってあります。

真ん中と左の塔は青面金剛で、右はよくわかりませんが帝釈天のようです。青面金剛の下には三猿が彫り込まれています。青面金剛は道教の神様ですが、その起源は実はインドの神「マハーカーラ」とされています。中国で道教や民間信仰と結びつき、庚申信仰の守護神として今のこの形になっているそう。この信仰には、道教だけでなく仏教や神道、呪術的なものまで様々な教えが複雑に絡み合って成り立っているのです。
ところでこの庚申塔。駒沢通りに面しているのですが、お堂の脇を通って枝分かれするような道があります。

この道路ですが、実はたいへん重要な「境界」でもあります。ここは江戸のまちと、その郊外を分ける境界があった道なのです。
江戸時代の行政は、江戸城を中心に「武家地」「町人地」「寺社地」とエリアが分かれており、武家地は大目付や目付が、町人地は町奉行が、寺社地は寺社奉行が管理する複雑さを持っていました。今で言うと、駅前の商店街は経産省、住宅地は国交省、農地は農水省がそれぞれ支配する、という感じでしょうか。つまり、都や区といった「自治体」がまちをまとめて管理するといった考え方が無かったわけです。
江戸のまちは、家康が入府してからどんどん拡大していき、延享年間(1744〜1748年)頃には、いわゆる「八百八町(はっぴゃくやちょう)」の倍以上、1,678町あったといわれます。拡大し続ける「江戸のまちがどこまでなのか」については、町奉行や寺社奉行など、その場所を支配する主体によって解釈がいろいろあり、さらに複雑でした。
しかし、それでは不便であったため、江戸の範囲(御府内)をここまでとするお触れが1818年に出されました。それが、「朱引」(しゅびき)と「墨引」(すみびき)です。

このときに引かれた境界線、朱引は基本的に様々な場合の「江戸のまちの範囲」を勘案した境界線で、墨引は町奉行が支配する地域を定めたものとされます。
ここで注目してほしいのが、図の右下あたり。一部、下目黒村と中目黒村だけが、朱引=江戸のまちの範囲外であるものの、墨引=町奉行が支配する範囲であるとされています。

この中目黒と下目黒だけが御府内となっている理由。目黒区郷土資料室の武田さんに伺ったところ、中目黒村と下目黒村には瀧泉寺(目黒不動)の門前町があり、ここが町奉行の支配地であったからではないか、とのことでした。
と、解説が長くなってしまいましたが⋯⋯。さわら庚申の横の道ですが、こここそがその墨引の引かれた古い道だったのです。

「祐天寺」は中目黒五丁目にあり
このかつての墨引の道を辿ってしばらく進むと、祐天寺に突き当たります。

「祐天寺」の駅名や町名のもととなったお寺です。

緑の多い落ち着いた境内を進むと立派な本堂があるのですが、よく見ると火消し関連の装飾が目立ちます。

一説によると、祐天寺の開山である祐天上人が芝の増上寺にいた頃、寺の学僧をいろは47文字でそれぞれの組にわけて消火自衛組織を作り、その制度を奉行の大岡忠相が参考にして町火消の制度を作ったといわれています。そのため祐天寺は今でも消防イベントが行われるなど、消防との関わりが深い寺となっています。
町火消のシステムのルーツとなったとも言われる人を開山と仰ぐ寺が、朱引の外で墨引の内側=かろうじて町奉行支配下の範囲内にあるというのもなんだか因縁めいておもしろい話です。
ちなみに、祐天寺の住所は「中目黒五丁目」であり、祐天寺ではありません。「祐天寺は祐天寺にない」ということになりますが、実は祐天寺一丁目、祐天寺二丁目が住所としてできたのは1968(昭和43)年からで、比較的新しい町名です。
それまで祐天寺一、二丁目は「上目黒四丁目、五丁目」と「中目黒三丁目」でした。なお、祐天寺駅ができたのは1927(昭和2)年なので、祐天寺という名称を使い始めたのは住所よりも鉄道駅の方が先と言えます。
さて、前編では祐天寺駅から庚申塔を目印に江戸の御府内の境目、墨引沿いを歩いてみました。後編ではいよいよ中目黒駅との駅境を特定します。
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文/西村まさゆき
写真//Ban Yutaka
編集/菱山恵巳子
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Urban Story Lab.
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