
人にいろんな個性や特徴があるように、駅にも個性や特徴はあります。学生が多い駅や、親子連れが多い駅、サラリーマンが行き交う駅、大きな駅、古い駅、電車がたくさん停まる駅、静かな駅…そういった駅の個性は、街並みにも自然とあらわれるのではないでしょうか。
そして、そんな駅と駅の真ん中ぐらいには、どちらの駅でもなく、どちらの駅でもある、まるで海水と淡水が混ざり合った汽水湖のような「駅境」といえる場所が存在しているのではないか?
駅と駅のちょうど真ん中あたりはどうなっているのか、駅境を探してみたいと思います。
西村まさゆき
ライター。移動好き。境界や境目がとても気になる。地理、歴史など社会科に関連する著書が多い。著書に『日本の路線図』(三才ブックス)/『たのしい路線図』(グラフィック社)/『ふしぎな県境』(中公新書)/『ファミマ入店音の正式なタイトルは大盛況に決まりました』(笠倉出版社)/『地図でめぐる日本の県境120』(イカロス出版)
「センゾク」は、なかなかややこしい……
先日までNHK-BSで再放送されていた、1987年の朝の連続テレビ小説『チョッちゃん』。黒柳徹子の母親、黒柳朝がモデルのドラマですが、そのチョッちゃんが東京で住むことになる町が「センゾク」です。
今回調査するのは「センゾク」というまち。実はちょっとややこしいことになっています。
まず、東京に「センゾク」という地名が複数あります。大田区に北千束(1〜3丁目)、南千束(1〜3丁目)。そして、目黒区に洗足(1・2丁目)。そしてこの3つのセンゾクから北東に16キロメートルほど離れた台東区にも千束(1〜4丁目)が存在しています。
地名(住居表示)のセンゾクが複数、しかも一箇所は漢字が異なる状態で存在していますが、さらに名前にセンゾクを含む駅も3つあります。
まず「洗足池駅」(池上線)、そして「北千束駅」(大井町線)、さらに「洗足駅」(目黒線)です。

そして、さらにややこしいことを言うと、洗足池駅は大田区東雪谷にあり、そもそも洗足にはありません。そして、洗足池があるのは南千束であり、目黒区洗足には、洗足池は存在していません…。
いかがでしょう、この混乱ぶり。
このややこしいセンゾクのうち台東区千束は、いわゆる「吉原」といわれる場所で、現在、大河ドラマ『べらぼう』の舞台となっている地域ですが、今回は台東区のセンゾクではなく、目黒区、大田区にまたがって存在する“ややこしい”センゾクを歩き、センゾクの境目はあるのか…を探してみます。

なお、この3つの“ややこしい”センゾクを探ったところ、壮大なまち歩きとなったため、今回は前後編でお届けします。前編では、洗足池駅〜北千束駅の赤色エリアを。後編では、北千束駅〜洗足駅の青色のエリアを紹介します。
【池上線 洗足池駅】洗足池周辺にはなにがある?

まずは池上線 洗足池駅にやってきました。
洗足池駅は、1927(昭和2年)に当時の池上電気鉄道の駅として開業しています。池上電気鉄道は、現在の池上線にあたる部分を運営していた鉄道会社ですが、1934(昭和9)年に目黒蒲田電鉄に吸収合併され、さらにその後さまざまな鉄道会社と合併したり離れたりをしながら、現在の東急電鉄になっています。
この洗足池駅自体は、最初にも述べた通り大田区東雪谷に所在していますが、駅の目の前の中原街道を挟んで、向かいに洗足池があります。

ボート乗り場は、池を見渡せるテラスハウスのようになっており、野鳥などの写真が飾ってあります。

この洗足池がある地域は大田区南千束で、池の名前は洗足(池)なのに、地名は千束。ここがややこしいポイントでしょう。
池の畔にあった案内看板を読んでみます。

看板の冒頭には、洗足の地名の由来が書いてあります。曰く「洗足の名は、日蓮聖人が手足を洗ったという伝承にちなむといわれています」とあります。
洗足池から南南東に3キロメートルほど離れた場所は、日蓮が亡くなったとされる池上の地で、日蓮宗の池上本門寺があります。手足を洗ったにしては随分離れているな…という印象を受けます。
往々にして、こういった地名由来は後世の人が創作したものが関係していることが多くあります。
ここで、江戸時代に描かれた『江戸名所図会』をみてみます。

『江戸名所図会』は江戸時代後期に描かれたものですが、そこには「千束池」とあり、洗足とはなっていません。『江戸名所図会』の千束池(せんぞくのいけ)の解説によると、
「本門寺の西一里餘(約4キロメートル弱)をへだててあり。(中略)土人云う、往古(そのかみ)此池(このいけ)に毒蛇住めり。後七面に祭るといふ。又池の側(かたわら)に日蓮上人の腰を懸けた給いしと称する古松一株あり」
と、日蓮上人が腰を掛けた松の切り株の話はあるものの、手足を洗ったという話は出てきません。この一件をもって「洗足」の地名は江戸時代には使われてなかった…とはいい切れませんが、センゾクの漢字表記は少なくとも「千束」の方が本来だったのではないか?といえるのではないでしょうか。
【池上線 洗足池駅】昔の洗足池を偲ぶ
池の周りを散策してみましょう。

住宅街の中にあるからかもしれませんが、とても静かで実に風光明媚という感じでしょうか。『江戸名所図会』に描かれた風景をしのばせる景色です。
池の周りはいろいろとあるのですが、目についたのは巨大な馬の銅像です。

名馬、池月之像とあります。

唐突な馬の登場に思わず怯んでしまいます。なぜ、馬。銅像にはこの「名馬池月」についてのエピソードが書いてありました、それによると…。
1180(治承4)年、源頼朝が石橋山の合戦で敗れて再起し、鎌倉へ向かう途中、当時「大池」と呼ばれていた洗足池の近くに宿営すると、どこからともなく立派な駿馬が現れ、これを捕えた家来はこの馬を頼朝に献上した。この馬は馬体たくましく、青毛はさながら、池に映る名月の輝くように美しく、これを「池月」と命名し頼朝の乗馬とした。
と、あります。

平安時代の最末期ころは、この洗足池あたりは野良の馬(だったのかはわかりませんが)が、そのへんをふらふら徘徊していても不思議ではないほど、手つかずの山野が広がる場所だったのかな…ということは推察できそうです。
【池上線 洗足池駅】勝海舟の別荘があった
池の周りをぐるりと廻ると、池の東側の住宅地に突然、レトロモダンな建物が出現します。

この建物は、大田区立勝海舟記念館、旧清明文庫といわれる建物です。

この建物は、かつては幼稚園として使われていたものですが、その後大田区が取得し、勝海舟記念館として整備したものです。なぜ、勝海舟なのか。
それは、この建物のすぐ近くにある大森第六中学校の敷地に、かつて「洗足軒」と呼ばれた勝海舟の別荘があったためです。
勝海舟といえば、幕末に大活躍した偉人です。別荘とはいえ、さぞ立派な建物があったのでは? と思いつつ、洗足軒の再現ジオラマを見てみますと…。

農家の一軒家といった風情の茅葺きの建物が敷地内にぽつんとあるだけです。
実は、洗足軒については残っている資料が大変少なく、建物の写真に関してはその可能性があるものを含めても、わずか数点しか確認されていません。

このジオラマは、わずかに残っている資料や写真を元に、記念館が監修し再現したものです。
洗足軒は、戊辰戦争のおり洗足池畔を訪れた勝海舟がこの地を気に入り、明治時代になってから土地を買って別荘をこしらえたものです。洗足池ほとりの高台となっている場所の土地を買った海舟が、建物の他に楓や紅葉を植え、1892(明治25)年に別荘は完成します。
海舟がこの別荘に客を招いたり、洗足池のほとりを散策するなどしたことが伝わっています。
1899(明治32)年に勝海舟が死去すると、海舟は洗足池のほとりに葬られます。

主を失った洗足軒には、海舟の墓守をしていた人が住み込んでいたものの、その人が退去すると建物は荒廃し、清明文庫を設立する際に、設立者である財団法人清明会に勝伯爵家から寄贈されました。戦後間も無く火災で焼失したのではないかといわれています。しかし、どうやって建物が無くなったのか、はっきりしたことはよくわかっていません。
洗足軒は、写真などを見たところ、周りの建物と比べてもそんなに差のない普通の建物だったのではないでしょうか。「別荘だから」といっても、派手だったり、豪奢だったりしたものを作らなかったところが、江戸っ子だった海舟らしさのような気もします。
【池上線 洗足池駅〜大井町線 北千束駅へ】北千束駅周辺の高級住宅街
さて、駅境を探すべく洗足池から北千束駅の方に向かって歩きます。池のほとりからは、そこそこの坂道を登ります。

実は、洗足池には流れ込む川はありません。洗足池の水のほとんどは湧水だといわれています。
地形図を見てみましょう。

台地に降って地面に染み込んだ水は、その崖からしみ出ます。そのため、三方を崖に囲まれた洗足池は、まさに湧水が溜まりやすい場所でした。
さらに地図をよく見ると、洗足池駅あたりが少し高くなっています。これは、天然なのか、人工的なのかはわかりませんが一種のダムのようなものでしょう。つまり、洗足池はダム湖と言ってもいいかもしれません。
そして、湧水がこれだけ溜まれば、その水で稲作をしたくなるというのが、日本人というもの。
千束という地名の由来は諸説ありますが、この池の湧水を利用して低地に作った千の稲の束(たば)を税として納めたか、逆に免除されたかのどちらかが由来ではないかと考えられています。
【池上線 洗足池駅〜大井町線北千束駅へ】高級住宅街が続く大田区南千束エリア
洗足池から北に向かって坂道を登りきると、大きな庭のあるお屋敷が並ぶ一角に出ます。

大きなお屋敷を眺めつつ歩くと、道端に祠(ほこら)がありました。庚申供養塔(こうしんくようとう)とあります。かつての庚申待(こうしんまち)の風習を今につたえるものです。

庚申待とは、庚申の日(だいたい2ヶ月に1回)に徹夜で神仏に祈る行事のことです。祈るといっても、近所の人たちと集まって祈るだけでなく、食事を共にしたり、夜通しで談笑するという、おたのしみ会のような親睦会だったようです。
東京には庚申塚が各地に残っており、豊島区には庚申塚という路面電車の停留所もあります。古くからの集落によくあるものなので、このあたりは少なくとも江戸時代にはそれなりの集落があったことを物語るものでしょう。
それにしても立派な庚申供養塔です。
さらに歩くと、赤松小学校と北千束駅が見えてきました。

ちなみに駅前の赤松小学校は、黒柳徹子が通って1年生で放校された小学校です。この後、トモエ学園に入学して、これが『窓際のトットちゃん』の話につながるわけですが、閑話休題。

学校横の坂を下ると、すぐに北千束駅となります。

大井町線の北千束は、台地の上にある駅ですが、西側にある谷に向かって土地が落ち込んでいるので、線路が高架となっています。が、そんなに高い台地ではないので、ガードの高さが少し低くなっていて、注意書きがたくさんあります。

さて、前編では池上線洗足池駅から大井町線北千束駅まで歩いてみました。勝海舟が愛した風光明媚な洗足池から高級住宅街が広がる2つの駅境。後編ではさらに「センゾク」3駅の境を探るべく、目黒線洗足駅(目黒区洗足)を目指し、歩きます。
参考資料
『池上町史』池上町史編纂会1932年
『江戸名所図会』斎藤月岑ほか(有朋堂書店版)1927年
『荏原名勝附地図』黒田壽太郎編1924年
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文/西村まさゆき
写真//Ban Yutaka
編集/菱山恵巳子
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