パン屋に入ったときにフワッと香る、甘くて香ばしい幸せな匂い。高揚感に包まれながら、たくさんのパンを前に「どのパンにしようかな」と、トングを持つ手もカチカチと踊る。
エッセイストの藤岡みなみさんが東急線沿線のひと駅を歩き、パン屋を巡るこの企画。
1回目の舞台は自由が丘。街歩きの中で感じた出会いや、話題のパン屋「baguette rabbit」で感じたときめき、味わいをレポートしていきます。
藤岡みなみ
1988年生まれの文筆家。ラジオパーソナリティとしても10年活動するほか、ドキュメンタリー映画のプロデューサーなども務める。時間SFと縄文時代が好きで、読書や遺跡巡りって現実にある時間旅行では? と思い、2019年にタイムトラベル専門書店utoutoを開始。時間をテーマにしたイベントや書籍を制作している。著書にエッセイ集『パンダのうんこはいい匂い』、『藤岡みなみの穴場ハンターが行く! In 北海道』、『ふやすミニマリスト』などがある。学生時代パン屋さんでアルバイトをしていた。
Twitter(X):https://x.com/fujiokaminami
Instagram:https://www.instagram.com/fujiokaminami/
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私としたことが、最近散歩ができていなかった。
人生で一番大切なことは散歩なのに。
仕事が一段落したら必ず散歩に行く、それが日課だった。
ずんずん歩いて心身の風通しをよくしたい。ほんの10分でもいい。
だけどこの頃なにかと忙しく、この大事な日課を蔑ろにせざるを得ない日々が続いた。
やりたいこととやるべきことの間でがんじがらめ。
もう限界だ!思い切り散歩してやる!
そしていい感じのパン屋さんを見つけたらこころゆくまで買ってやる!!
リュックひとつで家を飛び出した。
自由が丘に来るのは久しぶり。
老舗から新進気鋭の店まで、種々のパティスリーが眼光鋭くしのぎを削っているイメージ。
ぶどう科の植物の蔦が這う塀とレンガ道を、黒いフリル日傘のマダムが歩いているイメージ。
そんな、自分には縁遠いタイプのおしゃれさを思い浮かべながら改札をくぐる。
すると存外、駅前は雑多だ。
よかった。
少しばかりごちゃついているほうが落ち着くってこともある。
小さなデパート、銀行やチェーン店、時計店にカフェがそろって、にぎやかで便利そう。
つねに背筋を伸ばして歩かなければいけない街じゃないみたい。
自由が丘を歩くと、親しみやすさと上品さが交互に顔をのぞかせる。
通りには小洒落た名前がついている。
カトレア通り・マリ・クレール通り・サンセットアレイ・ヒルサイドストリート。
すずかけ通りに、わかくさ通り。
本日私が行くのは、女神通り。
女神になったつもりでシャンと歩く……なんて、おこがましくてできない。
だって私は散歩する余裕さえなかった、がんじがらめの女。
もっと強くならなきゃ、っていつも思ってしまう。
もし自由が丘に住んでいたら
「カトレア通りのいつものカフェにしようか」とか
「メープルストリートをひやかしてくるよ」とか
「サンセット・アレイあたりで待ち合わせだね」とか
積極的に言いたい。
住んでなくても言いたい。
女神通りをまっすぐ行くと、曲がってみたい小道ばかり。
ああ、いいな。
今日は急いでないし一人きりだから、思う存分うろうろできる。
目的のない散歩ばんざい。
今日はちょっと曇っているけど、そのムードが逆に心地いい。
カメラ片手に、ぐっとくる景色を探す。
数字のためでも評価のためでもなく、ただただ好きという物差しで世界を見る。そんな時間でやわらかい心を取り戻したい。
私が好きな自由が丘は、例えばこんな自由が丘。
かわいいね。
キラキラな部分以外も好きだ、自由が丘。
女神通りをそのまままっすぐ、ずっとまっすぐ。
駅前のにぎやかさはやや落ち着き、だんだんエレガンスが増してくる。
右手に見えてきたのは、洗練された雰囲気のパン屋さん。
バゲットラビット。
行ってみよう、と思う間もなく引き込まれるように入店。
焼きたてパンのあまく香ばしい匂いを両方の鼻の穴から吸いこむ。
スゥーーー。
ほらもう、満たされた。
仕事の合間に一服しにいく人がいるけれど、私もたまに席を立ってパンの匂いを吸いに行きたい。それか猫。
目に飛び込んでくる麗しいパンの数々。
つやつや、ほかほか、ぴかぴか。
ライティングが、芸術品に対してのそれだ。
とにかく種類が豊富。
いまから私はパンの国で迷子になるのだ。
その覚悟はできている!
さて、本日カチカチさせていただくトングはこちらです(過剰なカチカチはあまりよろしくありません)。
これほど悩ましい選択もない。
だって全部食べたいのだから。
食べたいパンの中から特に食べたいパンを選ぶ、魂の決勝戦。
胃袋の声に耳をすます。
お店の奥にあるパン工房をのぞくと、せっせとパンを作る人びとの姿が見える。
ありがとうございます。
尊くて、思わず手を合わせたくなる。
赤ワイン漬けレーズンとクルミ入りのノワレザン、ハードパン好きとしては絶対食べたい。
チーズがごろっとたっぷり四種類も入っているカトル・フロマージュもはずせない。
ブリオッシュメロンパン、表面のキャラメリゼがきらめいている。こんなメロンパン初めて見た!
つやつやリッチなクロワッサンからも目が離せない。
なかでも、お店に入った瞬間に買おうと決めたのは、創業当時からの看板商品だという「ブール」。2023年に改良されてさらにもちもちになったとのこと。
お店のホームページにはこんなメッセージが。
“もっちりとした柔らかさによる驚きと感動をお楽しみいただけます”
“リニューアルした「ブール」でおいしさの”確信”と”革新”をあなたに。
バゲットラビットが贈る究極の『かくしんパン』をぜひご賞味ください”
もちもちであることに自信を持っている、『かくしんパン』……
なんてかっこいいんだ。私もそうでありたい。
もっと強くならなきゃと思っていたけど、自信を持ってもちもちでいる、という道もあるのかもしれない。
好きな言葉は「焼きたて」です。
うーん、食べたいパンが多すぎてしぼれない。
でもここは自由の街、自由が丘。
欲望を解放して自由になってみよう。
う、腕がつる……!
ほしいパンがトレーに乗り切らず、一旦レジで預かっていただくことに。
「こちらも焼きたてです」とご案内いただいた、うさぎをモチーフにした『プティラビット』も追加。焼きたての白いかわいいパン、誰が買わずにいられるだろうか。
ずっしりほかほか幸せの重みを感じながら店をあとにする。
一刻も早く、いい感じの公園を見つけてパンを食べなければならない。
なにしろ『プティラビット』は焼きたてなのだ。
ほんのり甘いパンオレ生地に、ミルクチョコレートが包まれている。
耳があって、ふわふわであったかい。それはパンというよりほぼ、いのち。
さっきまでなんとなくパン屋さんを求めて彷徨う放浪人だったが、いまは公園を目指す流浪の散歩人だ。使命感あり。
散歩のときに設定すると幸せになれるゴールといえば
川・パン屋さん・公園
である。間違いない。
もちもちな心を取り戻す行為、それが散歩。
自由が丘を歩くのがさっきより少し誇らしい。
リュックからバゲットが飛び出ているから。
そして小さな公園にたどり着いた。
はやる心。
あたたかい『プティラビット』を取り出して、ベンチに座っていただく。
もふ! お布団を食べているみたいなふかふかの安心感と、とろ〜りチョコの愛情深さにほっぺがきゅんとなる。「かわいい」とか「やさしい」という概念を食べたらきっとこんな味。愛おしさがこみあげる。自由が丘の小道で出会った白うさぎ。
勢いがつき、他のパンにも手を伸ばす。
もう焼きたてだから急がなきゃの言い訳は通用しない。通常の食いしん坊。
噛むほどにジューシーな『ノワレザン』と、メロンパンの概念を覆す食感の『ブリオッシュメロンパン』も夢中で食べる。
頭の上にペカーンと「幸福」の二文字があらわれた。太字で強調されている。
私は、これがしたかった。
こんなに自分を幸せにできるなんて、私って女神なのでは?
リュックの中には『かくしんパン』こと、焼きたてのブールも入っている。
もちもちでいこう。
私の女神は私。
そんな生まれたての確信を背負い、また歩き出した。
<取材協力>
baguette rabbit(バゲットラビット)自由が丘店
・住所:東京都目黒区自由が丘1-16-14
・TEL:03-6421-1208
・営業時間:9:00〜20:00
・定休日:なし
https://baguette-rabbit.com/
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文・写真/藤岡みなみ
編集/高山諒(ヒャクマンボルト)
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Urban Story Lab.
まちのいいところって、正面からだと見えづらかったりする。だから、ちょっとだけナナメ視点がいい。ワクワクや発見に満ちた、東急線沿線の“まちのストーリー”を紡ぎます。