第1章 第4節 第2項 戦時下の事業運営と諸施策

1-4-2-1 中国、台湾、東南アジア方面での事業展開

 日中戦争の勃発以降、わが国は中国大陸方面に戦線を拡大して統治地域を広げ、東南アジア諸国にも進出したが、こうしたなかで目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄も、統治下にあった地域での事業展開を進めた。

武漢交通

(1)武漢交通と上海乳業
 1938(昭和13)年10月、武漢地域を占領した日本陸軍は「武漢三鎮地区(武昌・漢口・漢陽、現武漢市)の交通網は一体化すべし」として五島慶太にその推進役を要請し、1939年11月、漢口市との合弁により武漢交通が設立された。同社は陸上交通事業としてバス路線を拡大すると共に、長江周辺の渡船業・航路業を展開した。

図1-4-3 武漢交通の乗合自動車路線と航路
出典:『東京急行電鉄50年史』

この武漢進出に派生して上海に誕生したのが、現地での牧場設立計画に呼応して東横興業が出資し、1939年12月に設立した大中農牧場である。その後、大東亜省の要請により、大中農牧場と上海明治産業の折半出資で1942年8月に上海乳業が設立された。英国人やフランス人から接収した牧場も含めて総面積17万610㎡に及ぶ規模で、上海での乳製品生産の8割を占めたと伝えられる。これらの会社は終戦に伴って、現地政府等に接収された。

(2)山東金鉱開発組合
山東金鉱開発組合は、小田急電鉄傍系の鬼怒川興業と三菱鉱業の共同出資で設立された、中国山東省招遠県の金鉱開発会社であった。当社と小田急電鉄の合併により鬼怒川興業は東急興業と商号を変更し、当社の関連会社となった。1942年8月には金41kg、銀80kg、銅20tを産出したが、その後終戦となり、現地政府に接収された。

(3)東横産業
 台湾では、1940年6月に東横産業を設立し、紅茶の製造販売を行った。もともとは東横百貨店の商品政策の一環として、紅茶生産が盛んな台湾に着目したのが始まりである。台湾には小規模な茶葉生産者が多く、台湾総督府は茶葉生産の企業化で内外の需要拡大に応えると共に品質向上を図りたいとの意向を持っていた。そこで総督府からの要請を受けて台湾への進出を図ることとなったものである。当時の日本企業は本土に本社を置いたまま台湾に支店だけを設ける例が多かったが、五島慶太は「台湾で事業を行うのだから、台湾の発展のためにも現地に税金を支払うべき」として東横産業の本社を台湾の台北市京町に置き、現地側の資本も若干入れた。
 
 東横産業は現地の粗製茶工場を買収するなどして、工場付近の農場で生産される原茶から紅茶をはじめ包種茶、花茶、ウーロン茶などを生産。さらにインド紅茶の代表的な品種であるアッサム茶の生産を行うべく、台湾総督府から、インド・アッサム州と気候が似た台湾中央部の土地297万㎡の払い下げを受けて魚池農場とし、原茶生産から販売までの一貫体制を整えた。この会社も終戦に伴って現地政府等に接収された。

図1-4-4 東横産業事業所位置図
出典:『東京急行電鉄50年史』

(4)マライ運輸部
 1942年5月に、日本軍はマレー半島およびビルマ(現ミャンマー)を占領した。これに伴って陸軍は、同地域の陸上交通事業の経営を鉄道省、日本通運と当社に依頼し、当社はマレー地域の乗合自動車業および貨物自動車業を経営することとなった。1942年7月に当社は本社直属のマライ運輸部を設立し、シンガポールにてまずは50台のタクシーの営業を開始し、その後順次マレー地区の乗合自動車業、トラック業にも進出した。同年末にはジョホール、マラッカ、イボーなど7か所の出張所を擁するまでになった。

図1-4-5 マライ運輸部事業所配置図
出典:『東京急行電鉄50年史』
マライ運輸部 東急タクシーの看板が見える

 その後マライ運輸部の本部をクアラルンプールに移したが、1944年になると戦況は刻々と悪化し、燃料やタイヤの不足に苦しむことになる。またマライ運輸部の派遣員は第1陣から第8陣まで119名であったが、1944年8月に派遣された第8陣の33人については、輸送船が途中で潜水艦の攻撃で撃沈され、生存者はわずか5名となる悲劇に見舞われた。
 終戦により現地の施設、車両などは連合軍に接収され、当社の派遣員も収容所で捕虜生活を送ったが、1946年4月までに全員が帰国した。

(5)バリ島事業部
 1942年6月に海軍よりジャワ、バリ島の陸上交通事業(自動車業)と、ホテルの経営の要請があった。当社は1943年3月にバリ島事業部を設置し、バリ島のデンパサールに本部を置いて6月より営業を開始した。ホテルはデンパッサルのバリホテルとキンタマニーの阿厳山荘の二つで、いずれも海軍が接収したものを引き継いだ。自動車業の営業所は、デンパサールとシンガラジャに開設し、バリ島の主要交通網の整備を図った。
 戦局の悪化の影響を受け、特にタイヤ不足が著しく、稼働できない車両が多くなった。タイヤ、部品、燃料の確保のための手段として、終戦直前にジャワのスラバヤに出張所を置いた。
 終戦と共に、自動車業はインドネシア共和国に、ホテル業は連合軍に接収され、当社の派遣員は1946年4月までに全員引き揚げを完了した。

図1-4-6 バリ島事業部のホテル所在地
出典:『東京急行電鉄50年史』

1-4-2-2 戦時下の重点的な旅客輸送と新駅開設

 日中戦争から太平洋戦争へと戦争が拡大するなか、とくに鉄道については軍需工場で働く工員や軍施設関連の通勤輸送、軍事物資の輸送など戦時下特有の輸送に重点が置かれ始めた。東京横浜電鉄(東京急行電鉄)の主な取り組みは、以下のようなものであった。

(1)久里浜線の建設
 1930(昭和5)年の時点で京浜電気鉄道傘下の湘南電気鉄道は三浦半島の浦賀まで開業し、1933年には京浜電気鉄道の品川と浦賀間で直通運転が始まったが、景勝地の久里浜までは乗合自動車に頼るしか方法はなかった。しかし日中戦争以降、久里浜周辺に軍の施設が次々と建設されたことから鉄道路線の建設が当局から要請され、1939年に五島慶太が京浜電気鉄道の経営に参画したのを契機に、久里浜線(横須賀堀ノ内〜久里浜間)の建設に着手。東横百貨店の拡張を目的とする玉電ビルの建設が4階建てで留め置かれたため、これに使う予定であった鋼材を転用するなどして久里浜線の建設を進め、1942年12月に久里浜仮駅までの開業を果たした。

(2)相模鉄道への支援
 1942年ごろ相模原地域では陸軍士官学校や海軍関連施設が建設され、東京横浜電鉄の傘下にあった神中鉄道の路線(厚木〜横浜間)には軍需物資の輸送強化が要請された。このため一部区間を手始めに電化工事や複線化工事に着手、電化工事はおおむね順調に推移したものの、神中鉄道を合併した相模鉄道による複線化工事は資材不足のため滞った。東京横浜電鉄は「不要不急路線の単線化」が要請されるなかで、旧京浜電気鉄道の逗子線や旧小田急電鉄の江ノ島線の一部区間を単線化し、軌条や枕木を神中鉄道線に転用して工事を進めたが、終戦までに間に合わせることはできなかった。
 なお相模鉄道は、本線に相当する茅ケ崎〜橋本間と支線が1944年6月に国有化され国鉄相模線となり、神中線(旧神中鉄道の路線)が残るのみとなって経営に窮したため、1945年5月、東京急行電鉄に鉄道事業の経営を委託することを決定。これは戦後の1947年5月まで続いた。

(3)無軌条電車・新線建設計画
 前述のように久里浜線の開業は見たものの輸送力になお不足していたため、当社は横須賀〜小田和間などに無軌条電車(トロリーバス)を建設することとし、1942年12月、神奈川県知事に工事認可申請を提出、無軌条建設課を設けて具体的な検討を進めた。しかし国鉄横須賀線の横須賀〜久里浜間が1944年4月に開業したことで情勢が変わり、計画の見直しが迫られた。
 そこで当社は1944年5月、横須賀市林〜衣笠間の地方鉄道敷設免許を申請し、同年12月に免許を得て、翌1945年8月には「12月15日までに竣工させるべし」の条件付きで工事施行認可が下りた。しかしながら資材や労力の不足から工事が遅延したまま終戦を迎え、無軌条電車と共に幻の計画となった。

(4)大師線の延長
 軍需工場が多数集まる川崎市の海岸工業地帯への工員輸送を強化するため、京浜電気鉄道大師線(川崎〜川崎大師間)の軌道延長が計画され、当社は1942年5月に敷設特許を申請した。これと前後して川崎市も一部重複するルートを申請したことから運輸通信省(1943年11月に鉄道省から改組)に裁定が委ねられ、1944年3月、両者で区間を分けて建設することが決まった。具体的には、当社は川崎大師から小野新田、塩浜を経て桜本に至る区間を、川崎市は桜本〜東渡田~川崎間を担当して環状の路線として完成させるというものであった。工事施行認可申請は1944年5月末まで、竣工期限は9月末までという短工期であったが、当社側は翌1945年1月に竣工、川崎市側も同年4月の竣工となった。

(5)大井町線の溝ノ口への延伸
 旧玉川電気鉄道の溝ノ口線にあった高津駅、溝ノ口駅周辺の神奈川県橘樹郡高津町は、1937年の川崎市編入を契機に工業都市化の波が訪れ、近隣に軍の施設も立地した。工場従業員の数だけでも1940年から1942年にかけて2万人の増員が見込まれ、工員の通勤の足確保が急務となってきた。大井町線を利用して二子玉川*駅へ、ここで玉川線に乗り換えて高津や溝ノ口へ向かう通勤客が多かったが、溝ノ口行きの軌道電車は単車(1両電車)のためラッシュ時には大混雑で乗り切れない乗客も多く、沿線の各工場から連名で、大井町線の溝ノ口乗り入れが請願されていた。
 このため当社は1940年、大井町線と玉川線の接続駅となっている二子玉川駅の改修、多摩川に架かる二子橋の補強工事などについて申請したが、工事用資材の調達が容易ではないとしてなかなか認可が下りず、ようやく1943年4月、二子玉川〜溝ノ口間の工事方法変更その他、乗り入れ運転実施に関する諸認可を得た。直ちに工事に着手し、同年7月に大井町線車両(軌道線車両より大型の単車もしくは2両連結)での溝ノ口乗り入れを実現した。これと併せて同区間各駅の改良を進めたが、資材不足から仮駅乗降場とするなど、間に合わせの設備とせざるを得なかった。多摩川にかかる二子橋は改軌のみで従来通り運行する予定であったが、東京市および鉄道省から一部強度不足を指摘されたため、補強方法を変更したうえで玉電ビル建設用資材の一部を手当てし、工事を実施した。

本文中では便宜的に「二子玉川」駅に統一したが、正確には大井町線および玉川線それぞれに駅名の変遷がある。まず大井町線は1940年12月二子玉川を二子読売園に、1944年10月に再び二子玉川に戻した。玉川線は1939年3月玉川をよみうり遊園に、1940年大井町線と名称を揃えて二子読売園に、その後戦争激化により遊園地が休止となると再び二子玉川に改称した。戦後は再び二子読売園に、そして現在の二子玉川へと改名を繰り返した。

東横線 仮設備で設置された武蔵小杉駅

(6)工業都市駅・武蔵小杉駅の新設
 1945年6月、沿線工場従業員の利便に供するため、南武線との共同使用駅として武蔵小杉駅の営業を開始した。ここに至るまでには、東横線の工業都市駅、国有化前の南武鉄道グラウンド前駅などの前歴があるので、概要を記しておく。

川崎市の工業地域が南武鉄道沿線にも広がり始めたのは1935年ごろからで、1940年ごろまでには南武鉄道向河原駅から東横線にかけて大手企業の軍需工場が数多く進出した。このため東京横浜電鉄は新丸子駅と元住吉駅の間に新駅を設けることを計画、1939年12月、府中街道と交わる地点に工業都市駅を設けた。大量の資材や費用を要さずに利便性をまず優先したため、仮設的な構造の駅であった。
 一方南武鉄道は、すでに1927年、現在の武蔵小杉駅付近にグラウンド前駅を設け、さらに西側の府中街道との交点に武蔵小杉駅を設けていた。東横線と南武鉄道グラウンド前駅の連絡については、新丸子駅の南側への移設も含め種々の構想があったものの、関係機関との調整や資材不足などの問題から難航した。その後、1944年4月の南武鉄道国有化に伴って、南武線のグラウンド前駅と武蔵小杉駅が併合されて現在地に武蔵小杉駅が誕生し、東横線もこれと連絡して暫定的に乗降できる武蔵小杉駅を直上に設置、朝夕ラッシュ時の定期旅客に限って営業開始したものである。
 なお戦後の1953年に東横線武蔵小杉駅は南武線を挟んだ南側の現在地に移設し、工業都市駅は廃止となった。

図1-4-7 武蔵小杉駅の変遷図
国土地理院標準地図をもとに作成

1-4-2-3 戦時体制による国家管理の強化

 1942(昭和17)年11月からの戦時陸運非常体制の実施に伴い、旅客輸送を抑制する施策がとられ、さらに1944年3月に政府は決戦非常措置要綱を決定して抑制の度合いを強めた。
 その手法としては、①遊休施設の転用(利用の少ない支線の廃止など)②休暇制度の変更(日曜日・休日制の廃止、夏季・冬季休暇の調整など)③通勤・通学時間の調整(時差通勤・通学の実施など)があり、当社でも時差通勤の強化、労務徴用の合理化、2km以内の定期乗車券の発売停止と駅の整理統合、通勤時間の普通乗車券の発売制限などの施策を実施した。

(1)駅の整理統合と運行休止
 駅間が700m程度までの駅の統合や、閑散駅のラッシュアワー時の列車通過、急行列車停車駅の見直しなどの計画に基づき、1943年3月以降以下の営業休廃止を実施した。
営業廃止駅
 1943年3月31日
   小田原線=海老名国分
 1944年11月10日
   品川線=北馬場、浜川、鈴ヶ森、大森八幡、総持寺
   湘南線=平沼
   玉川線=宮ノ坂
   砧線=中耕地、大蔵

営業休止駅(空襲で被災したことにもよる)
 1945年6月1日
   東横線=並木橋、新太田町
   目蒲線=道塚  ほか8駅
 1945年7月1日
   小田原線=山谷
   京王線=新町、天神橋、西参道、京王新宿  ほか18駅

(2)乗合自動車路線の休廃止
 1941年8月の米国による対日石油輸出禁止措置に伴い、政府はガソリンの配給を停止、全自動車代替燃料による運行とする方針を打ち出した。さらに1944年4月には決戦非常措置要綱に基づき、乗合自動車路線の一部休止措置が講じられた。
 このような状況下、当社ではガソリンに代わる代用燃料の使用を積極的に進めたが、燃料の消費規制を受け、休止路線は増加の一途をたどった。

(3)労務の制限
 1941年12月に労務調整令が公布され、これにより重要な事業所では従業員をみだりに解雇したり、逆に従業員がみだりに退職したりすることは制限された。当社も1944年7月より全従業がこの解雇・退職制限の対象となった。

戦時中の女性車掌(1944年ごろ)

(4)女子挺身隊
 戦争の激化によって多くの人員が兵力や軍需生産の増強に投入されたため、女性と少年労働の就業時間制限の撤廃や新たな女性労働者の投入などの労働力補充政策がとられた。しかし労働力の不足は深刻になる一方であった。1944年以降、修学中の11歳以上の学生生徒300万人が動員されるに至り、未婚の女性(22~39歳)も1943年5月より女子勤労報国隊員として動員され、さらに1944年3月からは女子挺身勤労令により女子挺身隊となり、1945年3月にはその数は45万人以上にも達した。
 運輸業では1943年以降、鉄道では出札、改札、車掌、運転士に、自動車でも車掌や運転士に女性が登場するに至った。当社にも1944年5月から女子挺身隊員が続々と配属された。

 この女子挺身隊員は出征者・入営者の業務を引き継いでいったが、戦後男性従業員が復員するにつれて徐々に男性と変わり、1947年2月までに現業員の男性への交代が完了した。

1-4-2-4 五島慶太の運輸通信大臣就任

五島慶太運輸通信大臣当時 軍需工場を視察(左端の人物)

戦時下の動きのなかで触れておくべき話題の一つに、五島慶太の運輸通信大臣就任がある。

東京横浜電鉄が西南ブロックの私鉄統合へ突き進み始めたころから、五島慶太の経営者としての手腕は衆目の一致するところで、財界活動も盛んとなった。時の政府からも一目置かれるようになり、1943(昭和18)年11月に東條内閣顧問および行政査察使に任命、そして1944年2月19日、東條英機総理から直々に運輸通信大臣就任が要請され、その日のうちに皇居での親任式となった。運輸通信省は海陸の輸送力強化や通信能力の増強を一体的に進めるべく、鉄道省と逓信省の統合により誕生した省であった。大臣就任に伴って五島慶太は、東京急行電鉄社長をはじめ各社の要職を辞した。
 1944年7月18日に東條内閣が総辞職となったため、五島慶太の大臣任期は5か月余りの短期間ではあったが、戦局が悪化するなかで、①国鉄名古屋駅を中心とする交通機関の整備、②船員の待遇改善、③木造船の造船による内地沿岸輸送の強化、などで実績を残した。
 五島慶太は大臣を辞して間もなく、1944年12月に東京急行電鉄の取締役に復帰、会長に就任した。五島慶太不在の5か月余りは、前年に副社長に就任していた篠原三千郎が社長として経営を預かったが、篠原社長は後述の鶴見市場駅構内における電車追突事故の責任をとって、1945年3月に辞任。副社長であった平山孝が社長に就任して、終戦を迎えることとなった。

1-4-2-5鶴見市場事故と空襲による被害

米軍の空襲を受けて燃えさかる東横百貨店

1941(昭和16)年12月に開戦した太平洋戦争は、南東方面の要衝となっていた島々を1944年に失って以降、わが国の劣勢がいよいよ鮮明となり、頻繁に本土が空襲の的となった。とくに同年11月から波状的に行われた東京大空襲は都市部に壊滅的な被害をもたらし、軍需工場などが集まる神奈川県下もたびたび来襲を受けた。
 本土への空襲が次第に深刻となり始めた1944年12月26日20時20分ごろ、京浜線鶴見市場駅構内において、列車の衝突事故が発生し、死者53人を出す当社最大の事故となった。1944年12月28日「朝日新聞』東京版が伝えた事故の概要は以下の通りである。
 京浜線鶴見市場駅に停車中の上り電車(3両編成)の後方から、後続の上り回送電車が追突し、停車電車の3両目は右側に転覆大破し死傷者多数を出した。追突した電車は故障のため車庫への回送中であり、先頭車の運転台が故障のため、先頭車に車掌を乗車させて2両目の運転台で運転していたため、前方の見通しがきかずこの事故となった。

戦災車両(永福町車庫)

さらに当社関連では、1945年5月24日から25日にかけてのいわゆる「山の手空襲」により本社、東横百貨店、駅29か所、変電所3か所、各線の通信設備、自動車営業所5か所、永福町資材倉庫および車庫、車両51両、乗合自動車45両などを焼失。さらに同月29日には京浜地区も爆撃に遭い横浜市内の大半が壊滅、市内にあった駅・停留場15か所、車両14両、その他の施設を焼失した。川崎市でも工業地帯を中心に大空襲を受け、東横線は不通となった。
 公共交通の担い手として一刻も早い復旧が必要であったが、連日の猛爆に加えて資材や人材の不足などにより各路線の復旧は進まず、半ば機能停止の状態で1945年8月の終戦を迎えた。

 この間の1944年2月には渋谷駅周辺の建物が強制疎開の対象となったため、本社機能は各所に移転・分散することとなった。1945年6月からは被災した東横百貨店の内部を整理して3階から5階までを本社事務所に使用、終戦後はしばらく5階から7階までを本社事務所とした。

東急100年史トップへ