第1章 第3節 第3項 社内環境の整備

1-3-3-1 社員教育施設と慎独寮の設置

 『東京横浜電鉄沿革史』(1943年刊)および『東京急行電鉄50年史』(1973年刊)において、目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄の社員教育に資する施策として最初に登場するのが、1937(昭和12)年に開校した東横青年学校および東横家政女学校である。これらは時局の要請に応えて設けた社会教育施設であった。
 このころわが国では、戦時体制を強めるなかで文部省と陸軍省が連携し、職能実務教育と軍事教練の役割を持つ青年学校の制度が設けられた。当時の義務教育は尋常小学校まで(12歳まで)で、これを卒業すると中等教育学校に進まず勤労に就く青少年も少なくなかった。そこで学校教育とは別立てで社会教育の充実がめざされ、1935年に勤労青少年を対象とする青年学校の制度が発足した。1939年には青年学校が義務化となった。
 目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄の社員(14歳〜20歳)を対象とする私立青年学校として開校したのが東横青年学校(本科4年制)および東横家政女学校(本科2年制)である。開校当時は両社の本社跡地である上大崎(目黒)に本校を、東横百貨店内に分校を設置、のちに沿線住民を対象とした高等女学校である東横女子商業学校に同居した。校長には五島慶太が就任し、任命された社員が講師を務めた。また他道府県から入社した青少年社員を2年間入所させるための青年寮も、1940年に等々力に設けた。
 一方、中堅幹部を養成する施設としては、1940年に大岡山駅前に東横教習所を設置し、東横青年学校の卒業生の多くがここで教育を受けた。さらに翌1941年には世田谷区玉川瀬田町に慎独寮を設けた。この慎独寮は五島慶太が私財を投入して設けたもので、孔子の教えを説いた『中庸』から名づけた。慎独寮に対する五島慶太の思い入れは強く、開寮式において五島慶太は次のように述べている。

私は今回、前途有為の青年諸君のために新たな寮を設けるに際して、あえて「慎独」の名を付したのは、この二字が修養道徳の根本であるという私の平素の考えによるもので、諸君も私の意のあるところを汲んで、ここを修練の道場とし、将来有為の人物として大成されんことを期していただきたい。

 また著書『事業をいかす人』では、人材育成の重要性を以下のように説いている。

昭和十六年からは独身のこういう新入社員を慎独寮という寮に住まわせ、春は花見、夏は海水浴、秋は観楓会といった具合に引き連れ、あるいはハイキング、山登りに同行して、教育した。文化会館常務の山本忍などはこの第一期生だ。この連中がだんだん成長して、重要な事業の部課長となって、事業のカナメにいるようになってきたので、近頃は非常に仕事がしやすくなってきている。

 この慎独寮が現在の上野毛慎独寮の起源で、1963年から現在に至るまで当社総合職社員の入社時全寮制教育の場となっている。
 このような社員教育制度や、このあと述べるような社内融和・福利厚生の施策は、大きくは1920年代に活発化した労働運動に対応して、目蒲・東横に限らず多くの企業で取り組まれていたことである。目蒲・東横もその流れに棹差していたといえる。

1-3-3-2 社内交流の取り組み

 1926(大正15)年9月、目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄の両社員の親睦を図るため清和倶楽部が設けられ、活動に必要な施設は会社で無料貸与、経費は会費と会社の補助金で賄うこととした。1936(昭和11)年時点で剣道部、柔道部、庭球部、蹴球部、弓術部など合計14部があり、その発展と共に、専用の施設が必要となってきたため、1928年には社員倶楽部(渋谷区大和田町63 現在の『渋谷マークシティの』南側付近)を設置、1931年には倶楽部数が合計16部となった。

図 1 創刊当時の社内報『清和』

 また社内での情報共有化を図るための媒体として、従来はタブロイド判の『目蒲東横タイムス』を、さらに辞令などの通達事項などをあまねく知らせるため毎月3回『社報』を発行してきたが、これらをまとめて1934年7月に月刊の社内報『清和』を創刊し、『社報』も同時期にこれに抱き合わせで発行することとした。『清和』の発行は、前述の清和倶楽部の1つである文芸部の活性化を期したものでもあった。当時は池上電気鉄道を傘下に収めて合併する直前にあたり、組織拡大の途上にあった時期でもあった。

 『清和』創刊号において五島慶太は、発行の趣旨として次のような一文を寄せている。

近来、社員の数も非常に増加して、一同に集めて語り合ふ機会をとらえることができなくなった。以前は、踏切番から信号手の諸君に至るまで、大概その姓名と顔とを知っていたのであるが、最近に至っては、本社に居る社員の顔すら覚えていることが出来ないようになってしまった。斯様な有様では、会社の幹部の意のある所を会社全体の隅々まで伝達することなどは、到底、尋常一様の方法では不可能である。
 抑々会社経営の要諦は、会社幹部の目的とする所を全社員に漏れなく徹底せしめ、これを実行に移すことにある。この目的の為には、本誌の如きパンフレットを毎月一回発行し、社員全部に興味を以って読んで貰うのが最上の方法であると思ふ。又、この『清和』を媒介にして社員の専門的研究事項を紹介したり、また、各自の創作した漢詩、和歌、俳句その他の軟文学等も大いに歓迎して掲載したいと思ふ。次に沿線の風光の紹介、遊園地便り等も成るべく豊富に掲載して現在の『目蒲東横タイムス』の身代わりにさせ度いと思っている。

 『清和』の発刊は、市長選挙を巡る贈賄疑惑で収監されていた五島慶太が、釈放されてまず命じたことであったという。この経緯については、『清和』1937年4月号に当時の庶務課長が以下の文章を寄稿している。

昭和九年四月十八日、社長が半年の幽囚より漸く御帰邸された日、心身共に御疲労の御様子であった上、訪問者で混雑している折柄であったが、私を呼んで社員の品性陶冶と情操教育に資すべき機関誌の発行を命ぜられたのである。私は此時、社長が斯の如く、何時如何なるところに在ても社員の為に御心を煩はさるることを拝して、感涙に咽んだのである。(中略)爾来、社長は文字通り寸暇もないご多忙の御身であるに拘らず、毎月巻頭に自ら執筆せられ、未だ一月も欠かされたことなく、今や四年の長きに及ぶに至ったのである。(中略)発行部数は最初1500部であったのが、現在では5000部の多きに達している。

 『清和』はほぼ毎月発行を継続し、当社創立100周年である2022(令和4)年度には通算第1000号を迎えることになる。経営者と従業員をつなぎ、会社経営の方針をあまねく伝播する機能は今日もなんら変わるところはない。

1-3-3-3 福利厚生の充実

 社業の発展と共に、健康保険組合や共済組合を設立して社員の福利厚生の充実に努め、また戦時体制の強化に対処した各種施策を講じていった。
 わが国において初めて健康保険法が制定されたのは1922(大正11)年のことで、当初は工場法と鉱業法の適用を受ける事業に限られ、被保険者も本人のみが対象であった。目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄の両社において、車両工場・電気関係の現業従業員はこの対象となったものの、電車の乗務員や駅務員などは対象外であった。
 その後、法改正により適用事業の範囲が広がり、交通運輸事業も全面的に強制適用(事務所は除く)となったことから、1935(昭和10)年4月に東横目蒲電鉄健康保険組合が設立された。
 一方、両社社員の相互共済と福利を目的として1926年12月1日、目黒蒲田東京横浜電鉄共済組合規則が制定され、共済組合が設立された。給付は公傷給付、疾病給付、退職給付、特定給付、遺族給付、災厄給付の6種であった。1928年からは食品や日用雑貨などを廉売する購買部を設置。同年には貸付部も設置して、不慮の災害により困窮した組合員に対して掛金総額を年利6%で貸し付けることとした(この金利は当時の一流会社の社債並みで、庶民には低金利であった)。
 このほかでは、一定要件を満たした組合員が沿線に住宅新築する際の費用を貸し付ける社員住宅資金制度、五島慶太から職員教育保健基金として寄付された5万円を基金とする奨学資金貸与制度を設けるなど、社員の福利厚生に資する制度を着々と整えていった。
 また時局に応じた施策としては、1937年の日中戦争勃発以降、両社ならびに関連会社の応召社員の家族と常に連絡を保ち、励ますため、家族慰問部が設置された。同部では出征社員への餞別金の贈呈、慰問袋の発送や家族への慰問金・見舞金・香典の贈呈、さらには戦傷病者の見舞いを行ったほか、家族の慰安会や戦没社員の慰霊祭を挙行するなど公私にわたって万全を期した。

1-3-3-4 東横神社の造営

東横神社

 五島慶太は、社業の発展に貢献した功労者に対しては、役員であれ一般社員であれ、また社外協力者であれ、なんらかの方法で感謝の意を表し、その霊を慰めることが必要であるとして、東横線沿線の大倉山の一角に東横神社を造営した。伊勢神宮からの本体遷座式(東横神社御鎮座祭)は東京横浜電鉄の創立記念日にあたる1939(昭和14)年6月22日に行われると共に、翌23日には御鎮座奉祝祭ならびに物故殉職社員慰霊祭が行われ、合計44柱が合祀された。
 当日のあいさつのなかで、五島慶太は造営の趣旨を以下のように述べている。

会社自体は、内容・外観ともに本邦一になりましたが、社員諸君におかれても、その見識において人格においてナンバーワンたる矜持をもって身を処していただきたいと存じます。それには、どうしてもそのより処がなくてはなりません。その点を深く考慮いたしまして、本邦一の電鉄会社“東横スピリット”の祭祀所として東横神社を造営いたし、併せて創業以来の功労者、物故重役、殉職社員ならびに永年勤続の物故社員を合祀することにいたしたのであります。

 現在は毎年の例大祭にあわせて合祀慰霊祭を執り行っており、1959年10月19日からは五島慶太もこの地で合祀されている。

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