第1章の概要(サマリー)

 二つの世界大戦に挟まれた時期、すなわち大正後半から昭和初期にあたる時期は、わが国は相次ぐ経済恐慌を経験し関東大震災にも見舞われ、物価や人件費の高騰も重なる慢性不況、さらに「昭和恐慌」へ続いていく時代であった。一方この時期は都市化と工業化が進むと共に、新しい産業が著しく発展した、転換期でもあった。都市近郊の開発業や電鉄業は、新しい産業の代表格であり、現在の東急グループの源流にあたる田園都市株式会社(以下、田園都市会社)と、同社の鉄道部門として分離独立した目黒蒲田電鉄は、こうしたなかで誕生して目覚ましい成長を遂げた、いわば時代の申し子でもあった。

 財界の雄・渋沢栄一が海外の新しいまちづくりを範とする田園都市構想を温め、これを実現すべく1918(大正7)年9月に田園都市会社を創立、現在の洗足・大岡山・田園調布などを事業地と定めて土地の買収を進めた。当時、東京市周辺の荏原・豊多摩・北豊島などの各郡では人口が急激に増加しており、住宅整備が急務であった。こうしたなか、渋沢の構想は住宅地の開発にとどまることなく、文化的な郊外生活のため、交通機関・電気・ガス・上下水道などインフラ整備全般を見渡すものであった。目玉の一つが郊外住宅地から東京市部へ連絡する鉄道の整備である。専用の軌道敷を持って複数車両を連結して走る電気鉄道は当時「高速鉄道」と呼ばれ、拡大する都市の通勤通学輸送を担うことが期待された。田園都市会社では荏原電気鉄道の名で敷設免許を得て、高速鉄道建設に名乗りを上げ、交通の便を確保することを約束しながら郊外居住を宣伝する文句として「田園都市」の語を用いて需要を喚起、中産階級の支持を得て事業機会を獲得したところに特徴があった。分譲地の仕入については、当初は買収方式が中心であったが、開発の有望性が人々に知られると地価が高騰したため、土地所有者たちと開発利益を分け合う手段として、耕地整理あるいは土地区画整理の方式が採用された。1921年設立の田園都市耕地整理組合では、田園都市会社自ら組合に参加し、開発に必要な費用や技術の提供を通じて地元の信頼を得ながら、地域に深く入り込む形で開発を進めた。こうして誕生した分譲地は、目黒線(のちの目蒲線)の建設が始まったことから人気を呼び、割賦払いの制度を設けたことも好評を得た。
 田園都市会社と同じく東京西南部を中心に鉄道敷設免許を有する会社に、武蔵電気鉄道があった。同社は1908(明治41)年以降、数多くの路線で免許を得ながら資金不足などから一路線の建設も前へ進めることができず、経営者もたびたび変わっていた。そこで鉄道経営に適した人材が求められ、白羽の矢が立てられたのが鉄道院の官職にあった五島慶太である。かねてから民間事業に関心を寄せていた五島慶太は、これを機に退官して1920年に同社の常務に就任、鉄道経営の実権を握った。
 このころわが国は第一次世界大戦に伴う大戦景気の反動を受け、1920年代を通じて慢性的な不況を経験する最中にあった。膨大な建設費を要する鉄道経営に投資する資本家は少なく、五島慶太が経営参画した武蔵電気鉄道も、事実上は開店休業同然の状態にあった。一方の田園都市会社は分譲地の販売が好調であったが、鉄道経営に精通した人材を欠いていた。そこで渋沢栄一は阪神急行電鉄の小林一三に協力を仰ぎ、小林一三は多忙な自身の代わりに鉄道経営の実務を担うべき人材として五島慶太を推挙した。田園都市会社は鉄道部門として1922年9月に目黒蒲田電鉄を創立するが、五島慶太はこの目黒蒲田電鉄の専務も兼務することとなり、小林一三の助言を得て両社を一体的な観点から盛業に導くべく策を巡らせていく。
 目黒蒲田電鉄は1923年3月に目黒〜丸子間を、続いて同年11月に丸子〜蒲田間を開業して、田園都市事業地を経由する目蒲線が全通に至るが、この間の同年9月には関東大震災が発生、市内は壊滅的な被害を受けて市郊外への人口流動が加速し、田園都市の分譲地は平穏の地として好まれた。
 五島慶太は田園都市事業の盛業を後ろ盾に武蔵電気鉄道の敷設計画を前進させるべく、1924年に武蔵電気鉄道の株式を買収したうえで同社を目黒蒲田電鉄の傘下に置き、社名を東京横浜電鉄に変更、同社が免許を得ていた渋谷と横浜を結ぶ路線の建設に着手した。目蒲線との競合が懸念されたため横浜側(丸子多摩川〜神奈川間)の建設を先行、同区間が1926年に、続けて渋谷側(渋谷〜丸子多摩川間)も1927(昭和2)年に開業し、渋谷〜神奈川間が東横線として全通を迎えた。同社は引き続き神奈川から桜木町までの延伸を企てるが、省線(1920年に鉄道院から鉄道省に改組、以下国鉄)横浜駅の移転問題も絡んで建設費用が膨らんだ影響などから、東京横浜電鉄の経営は赤字続きであった。
 この間、目黒蒲田電鉄は分譲地販売で一定の役割を果たし終えた田園都市会社を吸収合併して田園都市事業を引き継ぎ、また当初から計画していた大井町〜大岡山間を1927年に開通させた。同社ではさらに1929年に大井町〜二子玉川間を全通させ、この区間を大井町線と呼称した。
 1930年代に入ると、五島慶太は目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄の一体的な発展の道筋を描くなかで、かねてからの持論であった経済合理性に基づく並行路線の合同整理の考えの下、近隣路線を持つ私鉄他社の買収に乗り出していく。まず1934年に、五反田〜蒲田間を開通させていた池上電気鉄道を目黒蒲田電鉄が買収して池上線とし、次に1936年に、渋谷〜玉川(二子玉川)間などの軌道路線を持つ老舗の玉川電気鉄道を東京横浜電鉄が買収して傘下に収めた(1938年に同社を吸収合併)。
 池上電気鉄道は、目黒蒲田電鉄とほぼ同時期に路線を伸ばしてきた電鉄会社であり、1920年代半ば以降は東京川崎財閥(川崎財閥)の支援を背景に、付帯事業でも積極経営を行っていた。なかでも同社のバス事業は目黒蒲田電鉄や東京横浜電鉄の各駅にも乗り入れて業績好調で、2社にとっては事業地域が重複する競合的存在であった。
 また、玉川電気鉄道は、同社の旅客輸送開始から間もなく電気供給業を開始し、1910年代半ばには旅客収入を上回るほどの主力事業に成長した。関東大震災を契機とする郊外移住や復興需要も同社の電気供給業や貨物輸送業に追い風となり、1920年代半ばに同社は好業績のピークを迎えた。1930年代に入り玉川電気鉄道は渋谷で玉電ビルの建設を企画するなどの動きを見せていたが、これは東京横浜電鉄の百貨店業の拡大政策や渋谷を起点とする地下鉄構想と真っ向から対立することとなった。
 東京横浜電鉄では1934年に東横線の起点となる渋谷駅に、阪急百貨店のノウハウを継承したターミナル百貨店の東横百貨店を開業。東京高速鉄道による渋谷〜新橋間の地下鉄建設、渋谷駅の総合駅化(ターミナル化)も含め、渋谷を本拠とする楔を次々と打っていった。やがて同社の経営は軌道に乗り始め、目黒蒲田電鉄と同等規模に成長したことから両社は1939年に対等合併し、存続会社の目黒蒲田電鉄の商号を東京横浜電鉄に改めた。
 このころわが国では、陸上交通事業(鉄軌道およびバス)を担う事業者の乱立が課題視され、地域別の事業統合を促すべく1938年に陸上交通事業調整法が施行された。これにより東京周辺では、東京市内を走るバスは市営に、地下鉄は特殊法人の帝都高速度交通営団に一本化され、郊外を走る私鉄については地域別の統合が志向された。
 こうした時勢を捉えた五島慶太は、すでに地下鉄を巡る経営権の争奪に伴って傘下に収めていた京浜電気鉄道、そして経営参画を求められた小田急電鉄の両社を1942年に合併して東京急行電鉄に社名を改め、さらに京王電気軌道を1944年に合併。各社の鉄軌道やバス事業を統合して、いわゆる「大東急」の誕生となった。
 この間、わが国は1937年の日中戦争を皮切りに戦時体制を強め、1941年には太平洋戦争の開戦へと突き進み、東京急行電鉄には軍需工場で働く工員の輸送確保など戦時下特有の運営が求められた。やがて本土に爆撃機が飛来し、東京をはじめ京浜地区は多大な空襲被害を受けて終戦を迎えることとなる。

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