第1章 第4節 第1項 新生・東京横浜電鉄から東京急行電鉄へ

1-4-1-1 目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄の対等合併

 1924(大正13)年に目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄(当時は武蔵電気鉄道)を傘下に入れて以来、両社は資本的にも人的にも一体であった。両社が経営する鉄道事業ならびに乗合自動車事業の営業範囲はほぼ同一であり、早くから資本・車両を融通し合ってきたほか、本社建屋・本社職員を共通とするなど同一会社のように手を携えてきた。このため、両社の合併は時間の問題でもあったが、しかしその時間はかなりの長さになった。
 東京横浜電鉄は長らく経営の舵取りに苦しんできたが、玉川電気鉄道の合併後は業績も好転、目黒蒲田電鉄を上回る勢いで成長を遂げた。そして1939(昭和14)年には資本金に対する利益率が並ぶなど、業績は対等と言えるようになったのを機に、両社を合併して、さらなる事業の強化、経営の合理化を図ることとなった。これはまた1938年に施行された陸上交通事業調整法の趣旨に沿うものであった。
 1939年6月に合併契約を締結。株主総会での承認を経て、鉄道大臣宛てに会社合併認可申請書を提出した。
 合併契約の大要は、①目黒蒲田電鉄を存続会社とし、資本金を4250万円増額して7250万円とすること、②1対1の対等合併とすること、③合併の認可を受けた翌月1日を合併日とすること、などであった。

表1-4-1 1939 年度上期における両社の実績
注1:『東京急行電鉄50年史』をもとに作成
注2:資料編財務諸表とは区分が異なるため合計のみ合致する

 両社の合併が無事に認可を受けたことから、1939年10月1日付で合併に至り、存続会社である目黒蒲田電鉄の臨時株主総会において、商号を東京横浜電鉄に改めることを決議、商号変更の登記を完了した。
 両社の合併は1924年以降の宿願であった。社内報『清和』1939年11月号は合併記念号として発行され、ここに五島慶太は「目蒲・東横両社の合併と回顧」と題する一文を巻頭言として寄せている。商号変更に関して、以下のくだりがある。
 「元来目蒲電鉄を東横電鉄に合併することが順当なりしも、目蒲電鉄は親会社にして東横電鉄に比して成績もよく、十数年間一割配当を継続し、東横電鉄の不況なりし頃、其の株式過半数を買収して目蒲電鉄系の資本に依りて更生せしめたるものなるを以って、儀礼として一旦東横を目蒲に合併し目蒲の名称を東横電鉄に変更するの手続きを採りたるものなり」。
 このように新生・東京横浜電鉄の誕生により、東京市から川崎市、横浜市にかけての広大な地域を事業範囲とする私鉄となり、資本金および純益金において、関東一の私鉄となった。前出の巻頭言で五島慶太は、「過去を顧みて、真に感慨無量なるものあり」と記している。

表1-4-2 東京近郊私鉄との比較(1938年ごろ)
注1:各社「営業報告書」をもとに作成
注2:目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄の合計金額

 なお新会社の取締役社長には五島慶太が、専務取締役には篠原三千郎が就任した。篠原三千郎は五島の大学時代の同期で、田園都市会社の発起人の一人、服部金太郎の娘婿という縁で同社に入社。時には親友、時には腹心の部下として、長年にわたり五島を支えてきた人物で、のちに当社社長となる。

図1-4-1 東京横浜電鉄組織図(1939年10月現在)
出典:『東京急行電鉄50年史』
表1-4-3 関連会社・関係会社一覧
注1:『東京急行電鉄50年史』をもとに作成
注2:備考の「現」「当社」は『東京急行電鉄50年史』発行時点での表記である
 
 

1-4-1-2 陸上交通事業調整法の施行

 1938(昭和13)年3月の国会では、短期終結の望みを失った日中戦争に対応するため、国家総動員法が可決されたことはよく知られている。この法によって、政府は戦争に必要とされる人的・物的資源の動員を、国会の承認なくして命令により実行できるようになったため、日本の軍国主義化、戦時体制移行の一つの象徴のように捉えられている。
 この国会では同時に、二つの経済に関する法律が成立した。それが交通に関する「陸上交通事業調整法」(以下、調整法)と、電気事業に関する「電力管理法」ほか3つからなる電力国家管理関連諸法(以下、国管法)である。調整法は鉄道・軌道・バス事業について事業者の乱立による資本の浪費や共倒れを、事業者の合併や事業の譲渡・委託などによって調整して「公益の増進」をめざすもので、国管法は未開発の水利権と大規模火力発電所や主要送電線を既存電気事業者から強制出資させた特殊会社・日本発送電を設立して大規模な電源開発を行い、「豊富低廉」な電力の供給をめざしたものであった。この二つの法が、日中戦争が泥沼化した時期に国家総動員法と時を同じくして成立したことだけ見ると、どちらも戦時の経済統制として行われたように思われがちであるが、これは妥当な見方とは言えない。というのも、陸上交通の調整も電力の国家管理も、日中戦争開戦以前どころか、1920年代の終わりから「産業合理化」(これは1929年成立の浜口雄幸内閣が掲げた政策である)として唱えられていたことなのである。
 京王電気軌道の経営者であり玉川電気鉄道の経営にもかかわった井上篤太郎は1936年に『交通統制概論』という本を出版しているが、そのなかで日本の交通統制政策の始まりを、1928年11月に鉄道省が逓信省から陸運に関する監督権を移管される時期に求めている。すでに述べたように1920年代後半には零細なバス事業者が乱立して電車(とりわけ玉川電気鉄道のような路面電車)に打撃を与え、それに対抗して私鉄もバスの兼業に乗り出していた。この混沌を統制するため、鉄道省が中心となって1931年に自動車交通事業法案を作成、同年3月に議会を通過して成立している。1930年からの昭和恐慌は、事業者間の破滅的な競争を統制すべきという声を高め、1932年には三土忠造鉄道大臣が京王電気軌道・京成電気軌道・王子電気軌道の合同を勧告している。この3社はみな川崎財閥の資本が入っていたので合同が容易とみられたためで、京成電気軌道の経営者であった後藤国彦はかなり前向きであったが、井上は路線のつながりがなく合同の意味が乏しいと反対して実現はしなかった。しかし交通統制を題した本を出しているように、井上も調整の必要性自体は認めていたのである。
 そのような状況において、五島慶太は自力で池上電気鉄道や玉川電気鉄道を合併に持ち込み、さらには東京高速鉄道を足がかりに京浜電気鉄道や東京地下鉄道にも手を伸ばして、交通調整を実行に移していた。すでに述べたように、これらの会社を支配下に収めるため五島は大株主を口説いて株を買い取ってきたが、その際に持ち出した論拠がこの交通調整の必要性であった。五島自身、前述のように官僚と経営者の経験からむやみな路線免許の乱発や事業者の競合をかねてから批判しており、時流と合致していたからこそこれらの企業買収も成功したのである。
 電力業界でも事情は似ており、玉川電気鉄道の電灯電力事業の項で述べたように、1920年代前半から1930年代初頭まで、有力な五大電力が需要家を奪い合う「電力戦」が展開されていた。これによって電力各社の業績は悪化し1931年には料金認可制などの監督を強化した電気事業法の改正が行われている。電気事業の統制としては、「五大電力」の大合併などさまざまな意見が出され、国営による統制も有力な一案とされていた。五大電力各社も、1930年代中盤には地域ごとの企業合併や遠隔地の事業の譲渡などをある程度進めている。
 1930年代は世界恐慌の反省から資本主義への疑念が生まれ、ファシズムが台頭するという世界的な潮流があった。日本でも自由主義的な経済政策を批判し、強力な権力による経済統制が必要なのではないかという意見が主流となっていった。そして世界情勢が次第に険悪になっていくなかで、「いつか来る総力戦」に備えた国力の強化が叫ばれていく。そのため1936年に成立した広田弘毅内閣では看板政策の一つとして電力国営を掲げたが、これは翌年の内閣崩壊で実現はしなかった。ようするに、調整法も国管法もすでに下地があり、企業側も経済統制に沿った経営行動をある程度見せていた状況下、折から起こった日中戦争に後押しされて成立したのである。
 したがって、本来は調整法も国管法も戦争のための統制ではなく、平時の経済強化政策の延長だったといえる。とりわけ調整法は、戦時の「統制」とは違うことを強調するために「調整」法という名前にしたと、当時鉄道省監督局長を務めて調整法の制定にかかわった鈴木清秀が、その著『交通調整の実際』で述べている。実際、戦時経済統制の法令は戦後廃止されているが、調整法は改正されつつ現在まで存続しているのである。
 調整法成立により交通事業調整委員会が設けられ、とくに東京市については1938年9月から議論が重ねられ、五島も臨時委員および特別委員会委員として意見を述べたが、話はなかなかまとまらなかった。市内交通の市営にこだわる東京市、国鉄の合同に難色を示す鉄道省、そして私鉄各社が対立したのである。1940年12月にまとまった調整案では、市電・国鉄・私鉄の「大合同」を理想としつつも、実現には多大な費用と時間を要することから、地域ごとの「小合同」となった。この案では東京旧市内の路面電車・バスは東京市が一元管理し、地下鉄は新たに特殊法人を設けることとした。郊外に延びる私鉄については、西南ブロック(東海道本線から中央本線南側まで)・西北ブロック(中央本線北側から東北本線まで)・東北ブロック(東北本線から常磐線まで)・東南ブロック(常磐線の南側)の4ブロックで調整することとなった。ブロックの調整は勧告や命令によらない行政指導という形をとり、事業者間での自主的な調整に委ねられた。
 これにより、前述のように1941年9月、東京高速鉄道と東京地下鉄道は帝都高速度交通営団に統合され、また1942年には山手線以東の当社系バス路線も東京市に譲渡されている。五島にしてみれば、地下鉄を失ったのは痛かったが、西南ブロック統合は五島がかねてから進めてきた経営方針が追認されたといえる。
 一方電力国家管理の方は、1939年に日本発送電が創業したものの、この年は大渇水で水力発電所の出力が低下し、戦争による軍需の増加と労働力不足によって火力発電所の石炭も足りず、豊富低廉の看板とは裏腹に電力の消費規制をせざるを得なくなってしまった。
 不評を浴びた第一次電力国家管理に対し、採られた策はさらなる統制の強化だった。1941年に第二次電力国家管理が国家総動員法に基づく命令で行われ、既存の電気事業者は発送電部門を日本発送電に、配電部門は全国を9ブロックに分けた配電会社に統合させられることになったのである。この配電統制令によって当社も、田園都市会社や玉川電気鉄道から引き継いだ電気事業を手放さざるを得なくなった。1942年4月からこれまでの電灯電力事業は関東配電に引き継がれた。これは戦前の私鉄にとって最も大きかった兼業が失われたということであり、このあとの私鉄業界の動きにも大きな影響を与えることになる。
 このように、1938年の国管法(第一次電力国家管理)は平時の経済政策の延長で、1941年の第二次国家管理が戦争のための統制であるといえる。陸上交通政策では調整法が平時の延長で、戦時統制にあたるのが1940年2月に公布された陸運統制令であろう。国家総動員法に基づく命令である陸運統制令は、戦争のために輸送力を動員し、また資材を規制するものであった。陸運統制令の直接的影響としては、ガソリンの消費規制が強化され、バスの代用燃料化が進められた。そして戦争の激化と共に陸運統制令も強化され、私鉄も国家のために直接動員されていくのである。

表1-4-4 東京市へ自動車路線譲渡後の当社自動車営業所と路線
注:『東京急行電鉄50年史』をもとに作成
 
 

1-4-1-3 京浜電気鉄道・小田急電鉄を合併、東京急行電鉄の誕生

 1942(昭和17)年5月1日、東京横浜電鉄は京浜電気鉄道と小田急電鉄の両社を合併し、商号を東京急行電鉄と改めた。両社との合併は、前出の陸上交通事業調整法に則った判断であったが、両社への経営参画から合併に至る事情や経緯は大きく異なるので、ここにその概要を記しておく。

東横映画劇場における3社合併記念式
東京急行電鉄が設立されたころの広告1942年ごろ

まず京浜電気鉄道については、前述したように、東京高速鉄道と東京地下鉄道による「地下鉄争奪戦(地下鉄騒動)」に端を発して、東京高速鉄道が、東京地下鉄道との関係を深めつつあった京浜電気鉄道の株式を買収し、1939年4月に過半の株式を握る親会社となっていた。同月に行われた京浜電気鉄道の臨時株主総会では、東京高速鉄道から門野重九郎、脇道誉、五島慶太が取締役に選任された。
 その後、京浜電気鉄道と系列下の湘南電気鉄道は経営の一体化を進めて合併し、1941年11月、五島慶太が合併後の京浜電気鉄道の社長に就任、さらに東京横浜電鉄から篠原三千郎が取締役に就任した。湘南電気鉄道と東京横浜電鉄は、横浜都心への進出をめぐって争った歴史があったが、地下鉄問題が転じて両社の統合に至ったのであった。

一方、小田急電鉄についてはむしろ同社からの要請による経営統合であった。同社を設立した利光鶴松は多摩地方で自由民権運動の壮士として活躍したのち実業界入りした人物で、東京市電の前身の一つである東京市街鉄道にかかわっていた。利光は1910(明治43)年に鬼怒川水力電気を創立して社長となり、東京市電との縁を生かして東京市電にまとまった電力の卸売を行った。しかしこの有利な契約も1920年代に入り終了することとなり、ライバルの卸売電力が登場して鬼怒川水力電気の地位を脅かしつつあった。そこで利光は東京市街鉄道以来関心を持っていた東京市内の交通に地下鉄で参入し、電気の売り先ともする計画を立てたが、これは東京市の方針によって阻まれた。利光は方針転換して民権運動で縁のあった多摩地方への鉄道計画を図り、1927年に小田原急行鉄道を開業させたのである。1933年には傍系の帝都電鉄(現、京王電鉄井の頭線)も開業させ、渋谷へ乗り入れている。
 この利光の事業経営に影を差したのが、前述の電力国家管理であった。1939年の第一次電力国家管理によって鬼怒川水力電気の発展の道は閉ざされ、1940年から具体化し始める第二次国家管理によって同社は中核事業を日本発送電に強制的に出資させられることとなった。そこで1940年に小田原急行鉄道が帝都電鉄を合併、さらに1941年3月には鬼怒川水力電気が小田原急行鉄道を合併して商号を小田急電鉄に改めるという事業の再編を図ったが、同社は沿線が未発達で経営状況はあまりよくなく、また利光が中国大陸の山東半島で手がけていた金鉱開発事業の失敗もあって、これらの打開策が必要となった。
 そこで声をかけられたのが五島であった。利光は五島による東京高速設立を支援し、また五島による京浜電気鉄道株式買収でも大株主の説得をするなど、かねてからの関係があり、1939年には五島は小田原急行鉄道の取締役に就任していた。利光はその五島に同社の社長就任を要請、五島は小林一三や篠原三千郎とも相談のうえで承諾し、1941年9月の取締役会で社長に就任したのであった。
 こうして東京横浜電鉄、京浜電気鉄道、小田急電鉄(小田原急行鉄道)の3社社長を兼務することとなった五島慶太は、これを機会に陸上交通事業調整法に則って3社を合併することを決断し、各社の取締役会や臨時株主総会での承認、関係機関の認可も得て、1942年5月1日に合併を果たした。3社のなかでは小田急電鉄の株式配当率や株価が低かったが、万難を排して1対1の対等合併とした。
 この3社合併を期して、東京横浜電鉄は商号を東京急行電鉄と改めた。東京急行電鉄の資本金は2億480万円となり、鉄軌道の営業キロ数は270km、乗合自動車の営業キロ数は1490km、従業員数の合計は1万500人の大所帯となった。

1-4-1-4 京王電気軌道を合併、「大東急」へ

 陸上交通事業調整法の趣旨に則り、中央本線以南の西南ブロックにおいて当社は大きな営業エリアを有する会社となったが、さらに1944(昭和19)年5月、京王電気軌道(以下、京王)を合併した。
 京王は1913(大正2)年に甲州街道沿いの笹塚~調布間を開業し、子会社の玉南電気鉄道を設立して八王子まで路線を伸ばした。電車開業の前から多摩地域で電灯電力事業も開始しており、この兼業は1930年代には電車をしのぐ収入を上げるまでになったほか、バス事業や遊覧施設の京王閣なども営業している。資本的には富士瓦斯紡績との関係があり、同じく富士瓦斯紡績の出資を受けた玉川電気鉄道とは地理的のみならず経営的にも関係が深かった。前出の井上篤太郎は玉電の経営をしてから京王に入り、事業の拡大を成し遂げている。
 五島が京王の買収を考えた直接のきっかけは、バス事業で京王系の東都乗合と東横系の中仙道乗合が各所で競争していたことにあったという。五島はここでも陸上交通事業調整法の論理を利用して、京王の大株主で社長でもあった穴水熊雄の持つ株式の買収を図った。穴水はすでに東京地下鉄道の株を五島に譲渡していたが、今回も五島に株式を譲り、当社は1944年5月31日に京王を合併した。
 京王合併にも、電力国家管理が影響している。京王は1930年代中盤以降、沿線での電灯電力事業が本業の電車を上回る収入を上げていたが、これは1941年の配電統制令施行で1942年に関東配電に強制出資させられ、事業基盤が大きくそこなわれた。また穴水の主な事業は北海道・東北地方の有力な電力会社であった大日本電力の経営であったが、これも国家管理によって穴水の手から失われていたのである。穴水は京王の社長を退いてから、当社の取締役に就いてもらう五島の要請を断り、事業から引退している。

 こうして東京急行電鉄は西南ブロックの主要な私鉄を統合した。これがいわゆる「大東急」の誕生であった。
 このほかにも、1938年から1943年にかけて数々の私鉄会社を傘下に収めたので、以下、当時の社名等を列挙しておく。

(1)江ノ島電気鉄道(現、江ノ島電鉄)
 当社における鉄軌道業での最初の買収は1938年10月の江ノ島電気鉄道であった。同社は1900年11月25日に設立された会社であった。
 同社は1902年9月に藤沢~片瀬(現、江ノ島)間を手始めに開業し、1910年10月に藤沢~鎌倉間を全通させた。東京電灯に合併されたのち、江ノ島電気鉄道(新)に買収された。1931年に江ノ島鎌倉自動車商会より乗合自動車業を買収したのを手始めに、1934年以降、茅ケ崎、平塚、藤沢付近の乗合自動車業を買収した。

(2)神中鉄道(現、相模鉄道)
 1939年9月24日に当社は神中鉄道を買収した。同社は1917年に設立され、当初は神中軌道の社名であったが、1919年に神中鉄道に改称した。1926年5月、二俣川~厚木間を単線で開業、その後部分開業を繰り返し1933年12月に厚木~横浜間が全通した。車両はガソリン・ディーゼル車と蒸気機関車を併用したが、営業成績は振るわなかった。

(3)相模鉄道(のちの国鉄相模線)
 1941年に当社は相模鉄道を買収した。同社は1917年12月に設立され、1921年9月28日に単線で茅ケ崎から寒川間を開通させた。1926年7月には厚木まで延長し、神中鉄道を連絡した。1927年4月には小田原急行鉄道が開通して利用客が急増し、兼業の砂利業もあり業績は好調であった。1931年には厚木~橋本間が開業し全通したが、その後の不況の影響もあり業績が低下した。神中鉄道と厚木で連絡していたことから1941年に当社は同社を傘下に収めた。

(4)静岡電気鉄道(現、静岡鉄道)
 1941年3月10日に当社は静岡電気鉄道を傘下に収めた。同社は1919年5月に駿遠電気鉄道として静岡市に誕生し、大日本軌道静岡支社の経営していた静岡~清水間の既設鉄道を譲受して同年6月から静岡線として経営を開始した。1920年8月には鉄道を電化した。社名を静岡電気鉄道と改称し、路線を順次延長すると共に、乗合自動車業にも進出していった。
 経済界の不況もあり、静岡電気鉄道と関係の深かった四日市銀行が金融パニックで破産したため、当初同社は大阪電気軌道(現、近畿日本鉄道)に譲渡されることになっていた。しかし地理的に離れている大阪電気軌道は静岡電気鉄道の経営に関心がなく、五島慶太に株式の引き受けを依頼し、当社が同社株を譲り受けることとなった。
 五島慶太は当時、大阪電気軌道の監査役であり、同じく近畿日本鉄道の前身の一つである参宮急行電鉄の取締役でもあった。当時五島慶太が小田原を起点として静岡を通り名古屋までに及ぶ一大長距離私鉄を計画していたからであったと言われている。

(5)箱根登山鉄道
 1942年5月17日に当社は箱根登山鉄道を傘下に収めた。同社は1888年2月に創設された国府津~湯本(現、箱根湯本付近)間の小田原馬車鉄道を起源とし(のちに小田原電気鉄道と改称)、1919年6月には湯本~強羅まで登山電車を走らせ、さらに1921年には強羅~早雲山間に鋼索鉄道を開設するなど、早くから箱根での観光事業を行った。1928年8月に箱根登山鉄道となり、その後自動車業などにも進出するが、株主であった日本電力の要請を受けて当社が経営を引き継いだ。同時に同社の子会社の富士箱根自動車、足柄自動車も当社の傘下に入った。

(6)大山鋼索鉄道
 大山鋼索鉄道は1928年9月に大山山頂の阿夫利神社への参拝客輸送のために設立された。当社は1943年4月に同社を買収して経営にあたったが、1944年に入って鉄鋼資材不足の折に不要不急路線と指定されたためレールが撤去され、同年2月に解散した。現在の大山鋼索線は戦後改めて設立された大山観光(現、大山観光電鉄)が建設したものである。

 これらを含め、京王電気軌道を合併した1944年には、東京急行電鉄および関連会社による鉄軌道路線の営業キロ数は合計320.4kmとなった。

図1-4-2 当社線、関連会社線(1945年)(関東エリア)
注:『東京急行電鉄50年史』をもとに作成

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