
東急線沿線の駅にまつわる人やお店、エピソードを、ゆかりのある方々にエッセイ形式で執筆いただく本企画「あの駅で降りたら」。
今回は、ライター・編集者の鷲尾諒太郎さんが、松陰神社前駅をテーマに綴ります。わずか1.4kmの距離で変わる「いつもの味」。かつて松陰神社通り商店街にあった一軒のおでん種屋「おがわ屋」と、たった一度だけ共有した冬の記憶。生活圏のほんの些細な違いが、その人の「おいしい」をかたちづくっていく。
今はもう味わえないおでん種とともに、松陰神社前で過ごした日々を振り返ります。
鷲尾諒太郎(わしおりょうたろう)
ライター・編集者。1990年、富山県生まれ。早稲田大学文化構想学部を卒業後、大手企業、スタートアップを経て、ライター・編集者として独立。現在は、ビジネス領域、人文・社会科学領域を中心に活動中。サッカー観戦とバスケとコーヒーが好きで、立ち飲み屋とスナックと与太話とクダを巻く人に目がない。
食だけがフラットにならない理由は、松陰神社前駅にも

編集者の若林恵さんが、自著『さよなら、未来』の中でこんなことを書いていた。いわく、「食はフラットにならない」。少しだけ引用しよう。
“ぼくらの食生活はグローバル規模で生産されたなにかを猛然と食い散らかすかたちで成り立っているわけだけれども、その一方で、ごくごく近場で獲れた野菜や魚などを日本人なら日本人特有のやり方で食べたりもしているわけで、なるほどグローバル化によるフラット化が100%完遂することがおそらく起こり得ないだろうという意味において、「食」はたしかに面白い視座を与えてくれる。”(『さようなら、未来』240頁)
経済のグローバル化が進み、さまざまなドメインで事業を展開する各国の大資本が国境を越えてビジネスを展開するようになった結果、あらゆるものが「フラット」になった。
アメリカ人も日本人もスペイン人もブラジル人もエジプト人も、ZARAの服を身にまとって
iPhoneを片手に街を闊歩し、ちょっと休憩をするときにはスターバックスコーヒーに入るだろう。もちろん「すべてが」というわけではないが、ぼくが生まれた約30年前と比べても、世界はさまざまな面においてずいぶんとフラットになった。

しかし若林さんいわく、どこまでいってもフラットになりきらないものがある。それが「食」であり、「おいしい」なのだ。
そして、この食の「デコボコさ」は、わざわざ国をまたがずとも発見することができる。県境を越えれば、見たこともない料理があるのは言うまでもなく、もっと短い距離の間にもその「デコボコさ」は存在する。たとえば、世田谷線の三軒茶屋駅と、その3駅先、距離にして1.4kmしか離れていない松陰神社前駅の間にも。
一人暮らしと鍋と、三軒茶屋での日々

2009年に上京したぼくは、1年ほど西東京市で暮らした後、三軒茶屋駅周辺に住まいを移した。ずぼらな大学生の一人暮らし。食事のほとんどがラーメンか牛丼、あるいはコンビニ弁当だった。とはいえ、たまには自炊らしきことをすることがあり、その際の食卓にはなんとなく季節が反映されていた。夏はそうめんばかりを食べていたし、冬には鍋を酷使した。
一人暮らしを経験したことがある人は、とくに鍋物の素晴らしさが骨身に染みているだろう。具材を切り、市販の鍋つゆにぶち込んでしまえばおいしく、そして栄養価が高い料理が出来あがる。それに、レパートリーも豊富だ。キムチ鍋、豆乳鍋、鶏白湯鍋、豚しゃぶ、ポトフ……「鍋物」というカテゴリーの料理だけで、一冬を越すことも可能である。
そんなレパートリーのひとつに「おでん」があった。「出汁をひく」なんて、めんどくさいからしたことがない。出汁に使うのは、市販のおでんの素。具材はだいこん、たまご、こんにゃく、厚揚げくらいだったと思う。何の変哲もないおでんだ。それが、ぼくにとっての「三軒茶屋のおでん」だった。
たまたま選んだ街が、居場所になるまで

そうこうしながら大学を卒業したぼくは三軒茶屋を出て、いくつかの街に住んだ後、2018年に三軒茶屋周辺に帰ってくることになる。ただし、住まいの最寄り駅は三軒茶屋駅から少し離れた、松陰神社前駅だった。大学時代から居つき、すっかり馴染みの店と人がたくさんできてしまった三軒茶屋エリアから徒歩圏内であり、三軒茶屋に比べれば少しは家賃が抑えられることが理由だった。
そういった意味では、積極的にその街を選んだわけではないけれど、住んでみると松陰神社前は実に住み心地のよい街だった。さまざまな理由はあるけれど、その心地よさは商店街の存在による部分が大きいだろう。松陰神社通り商店街は、吉田松陰を祀る松陰神社から世田谷通りにかけて南北に伸びる、500mにも満たない商店街だ。松陰神社前駅は、そのおおよそ中間地点に位置している。

八百屋、パン屋、精肉店、洋食店にカフェにバー、あるいは小さな書店……周辺に住む人々が生活をするために足を運ぶその商店街は、いつもささやかな賑わいを見せ、そこにいるだけでぼんやりとした安心感を覚えた。
そんな商店街に支えられる生活を半年ほど送ったころ、彼女ができた。地元が松陰神社前、というわけではないけれど、その周辺で生まれ育ったその人は当時も実家で暮らしていたが、家が近かったこともあって、次第にぼくの家で共に過ごす時間が増え、いつの間にか同棲が始まっていた。
おでんの中に、まだ知らなかった日常があった

そんな状態で迎える初めての冬。ある日、家で食事をとることにしたぼくたちは、「冬の自炊といえば、鍋」という短絡的なぼくの思考と提案に、彼女が「じゃあ、おでんで」と乗っかるかたちで、即座に献立を決定した。そうして彼女は「それなら、おがわ屋に行かなきゃね」とコートを羽織った。
「おがわ屋」とは、松陰神社通り商店街の中ほどに位置する「おでん種」を取り扱うお店だ。松陰神社前で暮らすようになってすぐにその存在を認知したものの、店名に「手作りおでん種」を冠していることから、冬になるまでそこで買い物をしたことはなかった。
おがわ屋に向かう道中、松陰神社前にほど近い彼女の実家では、季節を問わずおでんが食卓にあがり、そのおでんには必ずおがわ屋で買い求めたおでん種が入っていたことを聞いた。ぼくの中で「冬」と「鍋」が分かちがたく結びついているように、彼女にとって「おでん」と「おがわ屋」は、切っても切り離せない存在なのだ。

おがわ屋には、ちくわや牛すじ、こんにゃく、はんぺんといった定番はもちろんのこと、そこには見たことも聞いたこともない練り物の数々が並んでいた。オリジナルの練り物が、おがわ屋の主力商品なのだ。それらのほとんどを忘れてしまったが、1つだけ忘れられないおでん種がある。「松陰ジンジャー」だ。
たくさんの商品が並べられたガラスケースの中、「松陰ジンジャー」はその一際愛くるしいビジュアルで、ぼくの目を引いた。ぼくは物珍しそうな顔で松陰ジンジャーを見つめていたのだろう。彼女が「これは紅ショウガ、ニンジン、モヤシとかが入っている練り物で、この店の名物なの」と説明をしてくれた。価格は1つ50円だったか、60円だったか。
ぼくはさまざまなおでん種に目移りし、どれを買うべきか迷ってしまったため、決定をおがわ屋玄人である彼女に委ねた。「任せろ」と言ったかどうかは覚えていないが、店員さんに向き直った彼女は、一瞬にしてあれやこれやと注文を済ませた。ほどなくして店員さんから手渡された紙袋の中には、その日までぼくが存在を知らなかったいくつかの練り物と、4つの松陰ジンジャーが入っていた。

おでん種で満たされた紙袋を携えて帰宅したのち、2人でおでんをつくり始めた。といっても、具材はほとんど出来上がっている。やることといえば、大根などを下茹でするくらいだ。そうして出来上がったおでんは、見た目からしてぼくが知っているおでんとは大きく異なっていた。
どうしたって全体が茶色になりがちなおでんだが、松陰ジンジャー(厳密に言えば、その中の紅ショウガ)の赤色がアクセントになり、よりほっこりとした食べ物になったように感じた。味は「おいしかった」としか言いようがない。というより、詳しい味なんて覚えちゃいない。覚えているのは、その日の些細な会話と、おがわ屋の光景、あとは「おいしかった」という感想だけだ。
食卓にのぼるのは、その人の暮らしそのもの

入っている具材が異なるのだから当然ではあるが、その日のおでんは実家で家族と食べたものとも、三軒茶屋で一人で食べたものとも違う料理のように思えた。しかし、実家の近隣におがわ屋がある場所で生まれ育った彼女にとっては「いつもの味」だっただろう。
そしておそらく、松陰神社前周辺で生まれ育った多くの人にとっても、その日ぼくが食べたおでんは「いつもの味」だったのではないか。憶測を重ねることになるが、1.4km先ではそれを「いつもの味」として認識する人はそう多くないだろう。三軒茶屋に数年住んでいたぼくが、松陰神社前に引っ越すまでおがわ屋の存在を知らなかったように、人の「生活圏」は思ったよりも狭い。
三軒茶屋駅の徒歩圏内で生まれ育った人の中にも、おがわ屋の存在を知っている人はそれなりにいるだろうが、「いつもの味」になるほどに、おでんをつくるたびにおがわ屋に足を運んだ人も、そのような人がいる家庭で育った人もそこまで多くないのではないか。

食卓にのぼるのは、その人の、あるいはその家庭の生活圏そのものだ。こと都市部で暮らす多くの人にとって、それは気軽に徒歩で行こうと思える範囲のことを指す。言い換えれば、徒歩で行ける範囲の中にどのようなお店があるかによって、その人の食卓は、「いつもの味」は変化する。
食はフラットにならない――ほんの1.4kmしか離れていない三軒茶屋と松陰神社前、それぞれの場所で食べたおでんは、世界にはフラットになりきらない領域があるということと、その起伏をなす「暮らし」という営みのいとおしさを教えてくれた気がした。
味は消えても、暮らしの風景は続いていく

おがわ屋がおでん種屋さんとして営業を始めたのは、1975年のことだったそうだ。そして、2019年4月、おがわ屋は惜しまれながらその歴史に幕を下ろす。おがわ屋のおでん種と共に冬を越したのは、一度きりになってしまった。
その何ヶ月かのち、初めて松陰神社前でおでんを食べたその日から、幾度となく食卓を囲んだ彼女は自らの夢を叶えるため遠くの街へと引っ越し、いつの間にか始まった同棲生活は終わりを告げた。その後、ぼくも松陰神社前から居を移し、やがて彼女ともお別れをすることになる。
いまも、おでんを食べるときは否応なく松陰ジンジャーのことを思い出すし、そのイメージは松陰神社前でおがわ屋のおでんをつつきながら過ごした、一度きりの冬の記憶を連れてくる。

これから先、松陰ジンジャーを口にすることはきっとないのだろう。ぼくに限らず、すべての人が。だけど、いまも松陰神社前には松陰神社前にしかない食卓が、「おいしい」があるはずだ。もちろん、いまぼくが住んでいるこの街にも、彼女が暮らすあの街にも。それらはやがて、誰かの「いつもの味」になる。
引っ越してからというもの、松陰神社前にはほとんど行っていないが、近いうちにちょっと足を伸ばしてみようと思う。そこにはもうおがわ屋も松陰ジンジャーもないけれど、新しい何かが世界のフラット化に抗うように、デコなりボコなりをつくっているはずだ。
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文 /鷲尾諒太郎
写真/Ban Yutaka
編集/高山諒(ヒャクマンボルト)
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