
東急線沿線の駅にまつわる人やお店、エピソードを、東急線沿線にゆかりのある方々にエッセイ形式で執筆いただく本企画「あの駅で降りたら」。
第2回はデザイナー・アーティストの猿田妃奈子さんが、駒沢大学駅をテーマにエッセイを執筆。
駒沢大学を舞台に、友人との触れ合いから生まれた些細ながら大切な「変化」についての物語をぜひお楽しみください。
猿田妃奈子(さるたひなこ)
デザイナー・アーティスト。1992年東京都出身。多摩美術大学を卒業後、デザイナーとして働きながら、日常のスイーツをモチーフにした作品を制作。好きなメニューはショートケーキとカフェラテ。
X:https://x.com/idol_fantasy
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どうやらわたしは、わからないことをそのままにしてしまう側の人間らしい。
そう気付いたのは、20歳も後半になった頃だった。優秀なひとは、わからないことはすぐに調べるらしい。メモとかもたくさんするらしい。かっこいい。
一方わたしは、郵便の送り方がわからない。いまいる場所の東西南北がわからない。正直PDFが何なのか最初からずっとわかっていない。白味噌と赤味噌の使い分けなんかも、かなり雰囲気でやっている。
あらゆるよくわからないことを、大小バリエーション問わず、なんとなく保留したまま生きてきた。たくさんのことがわからない。けれど、だから不便だとか生きにくいというわけでもなく、わたしはそのままで充分快適だった。

そんなわたしが、保留してきたたくさんのわからないことと向き合うことになったのは、駒沢大学駅での一人暮らしをはじめたとき。
元々、駒沢大学を引っ越しの場所の候補にはしていなかった。
真夜中に立ち寄れるカフェやバーが近所にあってほしい。ということがなによりの条件だったので、三軒茶屋などを候補にして内見を重ねていたときに、その物件に出会った。
近くには大きな公園があり、眩しいほどに日当たりが良く、三軒茶屋と比べると家賃も少しだけ安かった。各駅停車しか停まらない駅は不便かなと思ったものの、周辺のマップを見てみると、自転車を飛ばせば松陰神社前や学芸大学にもすぐに行けることがわかり、どちらにも仲の良い友人が住んでいたことが最後の決め手となってすぐに申し込んだ。ついでに嬉々として自転車も新調した。そういうときの行動は早い。

後日、無事に引っ越すことができたわたしは、早速買ったばかりの自転車で友人に会いにあちこちへ行って、みるみるうちにタイヤはぺしゃんこになった。
そのとき、自転車の空気入れを所有したことがないことを思い出して、「一人暮らしってこういう些細なことも全部自分で解決していかなきゃいけないのか!」と気付いた。
自転車の空気を入れたことがないわけではない。むしろわたしは自転車が必須のような、東京の下町で育った。
下町と呼ばれるイメージとは裏腹に、実家の目の前には大きなショッピングモールがあって、そこには街の自転車をすべて収容できそうなほどに巨大な駐輪場がある。そしてそのたくさんの自転車のために、いつでも誰でも使える自動の空気入れがあった。
だから、自転車の空気というものは、買い物のついでにショッピングモールで入れるものだと、なんとなくずっと信じていた。
家庭用の空気入れがあることは知っている。でも、年に数回しか使わない割に大きい。絶対に邪魔に思う日がくる。それは嫌。
このちいさな嫌な気持ちをどう解決しようか、萎んだタイヤを見ながら、自転車の膨らみと家の収納スペースを天秤にかけた結果、自転車はしばらくぺしゃんこでいい。と思うことにして、わからないままでいいやの箱にそっと閉まった。
ついでに、歩くのが好きだからいざとなったら歩けばいいや。の言い訳も付け足した。こうしてポジティブな気持ちでどんどんわからないことを保留していく。

それから数週間後、いよいよタイヤが本当にぺしゃんこになってしまう頃、近所に住む友人に会いに行っていたわたしは「もうここには来れないかも……」と冗談で、でも半ば本気で、友人に嘆いた。
「買いなよ。」というのはごもっとも、正しい意見だと思う。けれど、わからないままで生きる達人であるわたしは、妙に大胆な決断をするときがある。
さようなら近所の友人。いつか自転車のタイヤがまた膨らむその日まで……。
しばしの別れを告げかけたところで、友人は「うちに空気入れあるからいれてあげるよ」と言って手のひらサイズの空気入れを持って現れた。そしてあっという間にタイヤをパンパンに膨らませてくれた。本当に一瞬の出来事だった。
そして数か月ぶりに浮くように軽い自転車に乗りながら、わたしがいかにあらゆることを解決せずにそのままにしてきたか思い至った。

ちょっぴり反省しながら、街をくるくるとまわって、ワインバーを横目に、「つぎはここで飲むために歩いても来てみよう。」と前向きな徒歩の決意をして、コーヒーを買って公園で飲んだ。
さっきまで、「もう来れないかも……」なんて言っていたのに、タイヤとともに心まですっかりふかふかになったわたしは、花屋にも立ち寄って、「またすぐに来るね!」と言いながら、カラフルな花束をぶら下げながら自転車を走らせた。
景色がゆっくりと変わって、駒沢大学に戻ってくると、学生たちのはじけるような笑い声が聞こえてくる。心がさらにふかふかになったところで、夕日に照らされてきらきらひかる自宅が見えた。
この日から、生活をより一層生活が快適にするべく、わかりたいことは解決してみることにした。

書き連ねるのは恥ずかしいほど細々したことばかりだけど、まあこれも「わからなくてもいいか……」とわたしが諦めそうになってるときは、近所に住む友人たちが笑ったり励ましたりしながら、側で見守ってくれた。PDFと味噌についてはいまだにわかっていない。東西南北はちょっとだけわかるようになった。でも郵便はかなり自信を持って送れるようになった。
そうして駒沢大学には4年ほど住んだ。
たくさんの変化があったと言いたいところだけれど、正直に言うと、わたしはいまでも「わからないことがたくさんあるままでいいや。」と思っていて、まあまあのことをそのままにしてしまう。
でも、いまでも、街から街へ自転車を漕いでいるとき、空気入れを片手に現れた友人のことを思い出してうれしくなる。もし誰かの自転車のタイヤがぺしゃんこになっていたら、今度はわたしが入れてあげる。
そう思う気持ちは、あの街がくれた。
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文・写真/猿田妃奈子
編集/高山諒(ヒャクマンボルト)
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Urban Story Lab.
まちのいいところって、正面からだと見えづらかったりする。だから、ちょっとだけナナメ視点がいい。ワクワクや発見に満ちた、東急線沿線の“まちのストーリー”を紡ぎます。