
東急線沿線の駅にまつわる人やお店、エピソードを、東急線沿線にゆかりのある方々にエッセイ形式で執筆いただく本企画「あの駅で降りたら」。
第3回はフリー素材モデルとして活躍する大川竜弥さんが登場。
横浜出身の筆者が語る東京への憧れ、代官山のおしゃれなお店で初めてファッションアイテムを購入する緊張感、そして大人になってから振り返る代官山のこと。兄や母との思い出を軸に展開される、代官山についての物語をぜひお楽しみください。
大川竜弥
自称「日本一、インターネットで顔写真が使われているフリー素材モデル」。神奈川県横浜市出身。ショップの店員や、Web制作会社でのディレクションとライティング、ライブハウスの店長、ザ・グレート・サスケさんのマネージャーなどの経験を経て、2012年からフリー素材モデルとして活動。日清・カップヌードルの広告モデルをはじめとして、テレビCM、Web広告等で活躍している。
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1990年代中盤、横浜市で中学生として過ごしていた僕にとって、東京といえば「渋谷」だった。
その憧れの背景には、90年代のアメカジファッションブームが大きく影響している。5歳上の兄が愛読していた雑誌『Boon』を通じてファッションに目覚めたのだ。『Boon』のページをめくるたびに、ChampionのカレッジスウェットやLevi’sのジーンズ、NIKEのスニーカーを身にまとったおしゃれな人々のストリートスナップが目に飛び込んできた。
当時、インターネットはまだ普及しておらず、横浜と渋谷の物理的な距離以上に、情報の伝わる速度には明らかなラグがあった。渋谷で生まれたファッションの流行が、数か月から1年遅れて横浜に届く感覚だ。
だからこそ、地元では見かけない最先端を行くおしゃれな人たちたちは、輝いて見えた。
「渋谷のセンター街に行けば、こんな人たちが歩いているのか……!」
横浜駅と渋谷駅を結ぶ東急東横線は、僕にとって「地元」と「憧れの街」をつなぐ、特別な存在だった。
東横線デビューは渋谷ではなく、代官山

横浜駅から渋谷駅までは東急東横線で約30分。中学生でも行こうと思えば行ける距離だが、当時の僕には、とてつもなく遠い場所に思えた。
3歳のとき、両親が青果店を開業。定休日は水曜のみで、土日も仕事があり、家族で出かける機会はほとんどなかったからだ。学校行事や部活動以外で電車に乗ることもなく、そんな僕にとって、ひとりで電車に乗り渋谷へ行くことは、あまりにも高いハードルだった。
さらに、当時はNIKEの人気スニーカー「エアマックス95」を履いていると奪われる「エアマックス狩り」が社会問題となっており、渋谷という街には中学生が近寄りがたい独特の雰囲気が漂っていた。
結果として、僕の東急東横線デビューは渋谷駅ではなく、代官山駅になった。
ハリウッドランチマーケットが一張羅の中学生

代官山を知ったきっかけは、兄が愛用していた「ハリウッドランチマーケット」だ。
ハリウッドランチマーケットは、1972年に千駄ヶ谷で誕生したアパレルショップ。古着のデニムウエスタンシャツやシャンブレーシャツ、ネルシャツなど、カジュアルスタイルを基盤に展開し、1979年に代官山へ移転。現在もオリジナルブランドを中心に、アメカジだけでなく世界中から厳選したアイテムを取り扱っている。
ファッションに興味を持ち始めたものの、お小遣い制度がなかった我が家では、『Boon』で紹介されている洋服を買うことは夢のまた夢。平日は中学校の制服で過ごし、たまの土日に友達と出かける際も、着ていく洋服がなくて困ることが多かった。そんな僕を気の毒に思ったのか、兄は「タンスに入っている洋服は好きに着ていいよ」と、やさしく声をかけてくれた。
兄のタンスには、当時流行していたアメカジファッションのアイテムがずらりと並んでいた。なかでも特にお気に入りだったのは、ハリウッドランチマーケットのネルシャツとジーンズ。それに、兄がプレゼントしてくれたNIKEのスニーカー「エアフォース1」を合わせると、テンションがぐっと上がった。
「ハリウッドランチマーケットってどんなお店?」
何度もしつこく聞いたのだろう。ついに兄が「そんなに気になるなら、一緒に行こうか」と言い、中学3年の僕を代官山へ連れて行ってくれることになった。
自分の「好き」を追求する大人たちがいる街

東急東横線デビューの日のコーディネートは、お気に入りのハリウッドランチマーケットのネルシャツにジーンズ。そして、大好きな映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の主人公、マイケル・J・フォックス演じるマーティ・マクフライを意識した真っ赤なダウンベスト。今振り返っても、ませた中学生だったと自分でも思う。
横浜駅から、シルバーのボディにダウンベストと同じ赤いラインが入った車両に乗り、代官山駅へ向かう。自由が丘駅の手前あたりから、空気が変わり、一気に東京らしい色合いを帯びてきた。
当時の代官山は現在とは異なり、「代官山 T-SITE」や「フォレストゲート代官山」といった商業施設はなく、住宅地のなかにアパレルショップやレストランが点在する街だった。渋谷のような雑多な雰囲気はなく、自分の「好き」を追求する大人たちが、ゆったりと自分の時間を楽しむ街。
まっすぐハリウッドランチマーケットがある旧山手通りへ向かう兄とは対照的に、落ち着かない僕。徒歩約5分ほどの距離だが、首を左右に振りながら何度もキョロキョロと周囲を見渡し、初めて訪れる代官山の景色を目に焼き付けた。
記憶に残る、いつも以上に頼りがいのある兄の横顔

ハリウッドランチマーケットの店内には、所狭しとアメカジファッションのアイテムが並んでいた。兄のタンスを数倍に膨らませたような圧倒的な空間に足を踏み入れると、洋服の森に迷い込んだ感覚を味わった。
店員に声をかけることもなく、次々と商品を手に取り、棚に戻していく兄。その横で、僕は緊張のあまり何もできず、ただ兄の後ろについて歩くだけだった。気づけば、兄は会計を終え、僕たちは再び旧山手通りを歩いていた。
結局、その日兄が何を買ったのかは覚えていない。ただ、いつも以上に頼りがいのある兄の横顔と、店内に漂う独特の甘い香りだけは、今でも鮮明に記憶に残っている。
自分でハリウッドランチマーケットのアイテムを買うようになったのは、それから約10年後のこと。社会人になり、少し金銭的な余裕ができた20代中盤、ひとりで東急東横線に乗って代官山へ向かい、袖に「H」と刺繍されたTシャツを手に入れた。
「やっとハリウッドランチマーケットで買い物をしたんだ!」
兄にメールで報告すると、「へぇ、よかったね」とあっさりとした返事が返ってきた。
僕が東急東横線デビューをしたあの日、兄にとっては弟と出かけたなんてことのない一日だったかもしれない。でも、僕にとっては、大好きな兄と憧れのハリウッドランチマーケットに足を運んだ、忘れられない一日になっている。
40代になった今でも、ハリウッドランチマーケットは憧れのお店で、気に入ったアイテムがあれば購入している。あの日の兄のように、堂々と商品を手に取る自分が、少しだけ誇らしい。
背伸びを教えてくれた母と、背伸びをしていた母

代官山には、もうひとつ家族との思い出深いお店がある。ハリウッドランチマーケットと同じく、旧山手通り沿いに位置するイタリア料理店「リストランテASO」だ。高校の卒業祝いに母が連れて行ってくれた。
ASOは1997年創業。当時はオープンしてまだ数年だった。横浜でほぼ休みなく働いていた母が、どこでASOのことを知ったのか、今でも不思議に思う。昭和初期に建てられた洋館を改装した店内は華やかで、中央の庭には色とりどりの草花が咲いていた。その光景に、行ったこともないのに「イタリアみたいだな」と感じたのを覚えている。
特に印象に残っているメニューはポルチーニ茸のスープだ。当時、ポルチーニ茸という食材の名前すら聞いたことがなかった。それだけではなく、フレンチプレスと呼ばれるコーヒー抽出器具に、乾燥させて刻んだポルチーニ茸とお湯を入れた状態でテーブルに運ばれてきた。
「砂時計の砂がすべて下に落ちたらお飲みください」
そうウェイターが説明してテーブルを離れたあと、「なんだこれは?」と母と顔を見合わせた。そして、スープを口にした瞬間、「世の中にこんなおいしいものがあるのか!」と興奮した。いまだに、あの驚きと感動を超える食事には出会えていない。
帰りの横浜駅へと走る東急東横線の車内で、母は「東京にはこういうお店もあるんだよ。背伸びしていろいろ経験しないとね」と言った。その言葉に耳を傾けながら、高校生の僕は、たとえお祝いでも我が家には贅沢を許せるような金銭的余裕がないことに気づいていた。背伸びをしていたのは、僕ではなく、母のほうだったのだろう。
かつては遠い存在だった東横線が、日常の一部に

高校卒業後、都内の専門学校に進学した僕は、地元と憧れの街をつなぐ特別な存在だった東急東横線を、通学の足として利用するように。かつては遠い存在だった東横線が、次第に日常の一部となっていった。中学生のころは近寄りがたかった渋谷も、放課後には目的もなくぶらぶら歩く馴染みの場所になっていた。
今も代官山駅を降りるたびに、あの日の兄と母の姿が浮かんでくる。
時が経つにつれ、思い出の場所がなくなってしまうこともある。一方で、変わり続ける代官山のなかで、ハリウッドランチマーケットもASOも変わらず存在し続けてくれているのは、本当に嬉しい。
ここまで振り返ってみて、兄と母と3人でASOに行ったことがないことに気づいた。ありがたいことに、兄と母の応援のおかげで、僕はフリー素材モデルという自分の好きな仕事を追求する大人に成長することができた。今度は僕が、2人にゆったりと食事を楽しむ時間をプレゼントしよう。
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文/大川竜弥
写真/Ban Yutaka
編集/高山諒(ヒャクマンボルト)
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Urban Story Lab.
まちのいいところって、正面からだと見えづらかったりする。だから、ちょっとだけナナメ視点がいい。ワクワクや発見に満ちた、東急線沿線の“まちのストーリー”を紡ぎます。