第2章の概要(サマリー)

 1945(昭和20)年8月、第二次世界大戦が終戦を迎え、日本はGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)(以下、GHQ)および米国軍の占領下に置かれた。東京をはじめ主要都市は戦争末期の空襲により焦土と化し、復旧・復興の道のりは容易に見通せなかった。
 東京急行電鉄においては、公共交通事業を担う事業者として、物資難、人材難が続くなか、荒廃した鉄軌道と乗合バスの復旧を急がねばならなかった。このため臨時戦後復興委員会を設置して、広範な分野で応急的な対策に着手した。特に被災した車両、戦中に酷使を重ねて老朽化した車両が多いことから車両の修繕・増備が喫緊の課題となり、湘南線金沢八景駅西側一帯にあった第一海軍技術廠支廠跡地を活用して戦災車両修繕などを行う東急横浜製作所(のちの東急車輛製造)を設立。同社では国鉄車両修理も請け負い、さらにバス車体の製造も担った。乗合バスは、燃料不足が復旧の足を引っ張ったが、GHQから車両の払い下げと燃料の配給を受けるなどして急場をしのいだ。
 鉄軌道および乗合バスの復旧を進めていくなか、GHQの民主化政策を背景とした労働組合運動が高まり、1946年ごろには「大東急」の解体論が強まった。これを収拾するにはもはやグループ再編に舵を切るほかはなく、1948年6月、東京急行電鉄(以下、当社)を4社(東京急行電鉄、京王帝都電鉄、小田急電鉄、京浜急行電鉄)1百貨店(東横百貨店)に再編成することで決着した。再編としたのは、各社が経営を維持できるよう、旧小田急電鉄の所属であった井ノ頭線(現、井の頭線)を京王帝都電鉄の所属とするなど一部資産の組み替えや調整を行ったからであった。
 この間、1946年6月27日には五島慶太会長は退任し、さらに東條内閣で運輸通信大臣を務めたことから翌1947年8月には公職追放の処分を受けた。また組合対策などから社長を含む役員は目まぐるしく交代した。
 「大東急の再編成」後、引き続き「東京急行電鉄」の社名を継承した当社は、事業地域も事業領域も大幅に縮小しての再出発となった。
 鉄軌道事業は1948年ごろに輸送力を回復させ、戦前からの持ち越し課題となっていた渋谷駅の改良を再開したほか、大井町線と池上線の交差部に旗ノ台駅を新設。東横線では懸案となっていた高島町〜桜木町間の複線化を行い、電車電圧の昇圧や軌条重量の変更などでスピード向上を図った。
 戦後しばらく赤字が続いてきたバス事業は1949年に黒字に転換したのち、本格的な飛躍期を迎えた。国産ディーゼル車の登場と石油製品販売の解禁によって乗合バスの営業が復活してきたことに加え、都心と郊外を結ぶ複数の新路線が開業、さらに戦前から営業中止となっていた観光バスが1953年に再開された。バス事業を主とする自動車部門では増収対策としてガソリンスタンドやドライブインの経営に着手し、観光バス再開も含めて観光事業へ進出する布石となった。
 また当社が拠点とする渋谷では、本社新社屋を建設して戦中戦後に分散していた本社事務所を集約したのをはじめ、戦前に建設が中断していた玉電ビルを増築して11階建ての東急会館として竣工。さらに渋谷駅東側には五島プラネタリウムや映画館などを擁する東急文化会館を完成させ、渋谷地下街の建設も含め駅周辺の立体的な開発を進めた。
 公職追放の解除に伴い、当社に復帰した五島慶太は1952年5月に会長に就任、長男の五島昇が1954年5月に社長に就任した。公職追放中に当社の将来について構想を温めていた五島慶太は、鉄軌道およびバス事業で手堅く売上を確保しつつも、これに安住することなく、国家的見地から幅広く事業を展開することが今後の生きる道であることを唱えた。
 その一つが、創立以来の主要事業でありながら戦前から停滞していた田園都市事業の復活である。都市部の人口膨張で住宅不足が深刻化していた折、溝ノ口以西の広大な未開発地域に着目した五島慶太は、ここに新たな田園都市を建設するべく、1953年に「城西南地区開発趣意書」を発表。川崎市の宮前地区を手始めに土地買収を開始すると共に、地域の交通の便として有料自動車専用道路(ターンパイク)の建設計画を打ち出した。城西南都市の開発計画はやがて「多摩川西南新都市計画」となり、交通の便は道路から鉄道へと変わって、のちの多摩田園都市開発へとつながっていく。
 こうした新たな沿線形成と併せて、沿線外にも不動産事業を展開していくため当社全額出資により東急不動産を設立。同社は大船や座間などで新たな地域開発に着手すると共に、賃貸アパート経営や分譲マンション販売にも事業の裾野を広げて、不動産企業としての骨格を着々と整えていった。
 同じく子会社として国内旅行の斡旋を主とする東急観光を設立し、沿線外では観光開発を軸にした地域開発にも次々と乗り出した。伊豆半島では下田まで通じる地元宿願の鉄道建設を開発の突破口としたほか、北海道では地元民鉄やバス事業者の買収、上信越では地元バス事業者の買収やスキー場建設などを行った。観光事業の柱ともなるホテル事業では、世界最大のホテルチェーンであるヒルトンホテルズ社との提携で都内有数の国際観光ホテル建設を企て、これと並行して、当社独自に銀座東急ホテルを建設してチェーン展開の第一歩とした。
 「大東急の再編成」により分離した百貨店事業は、東急会館の完成により東横百貨店渋谷本店として規模を拡大したあと、池袋に出店、さらには日本橋の老舗百貨店である白木屋を買収して傘下に収めるなど拡大路線を鮮明にした。
 戦後間もなく設立した東急車輛製造は、国内初のセミステンレスカーを製造するなど大手車両メーカーに成長。またクルマ社会の進展を見通した製造業各社に経営参加したほか、映画製作の分野に進出して東映の経営を再建、プロ野球球団の経営も手がけた。
 「大東急の再編成」直後とは打って変わって、事業分野や事業地域を急速に拡大させる当社および傘下企業による企業集団は、やがてマスメディアからは東急コンツェルンと呼ばれるようになり、怒濤の進撃とも形容されるようになっていく。
 そして1959年8月、創立以来長らく当社経営を率いてきた五島慶太が死去し、当社は大きな時代の転換点を迎えることとなった。

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