第2章 第1節 第1項 「大東急」を解体、再編成へ

2-1-1-1 鉄軌道事業の戦後復興

1945(昭和20)年8月、日本は連合国側が提示したポツダム宣言を受諾し、長期にわたる戦争はここに終結した。これ以降1952年4月まで、連合国の占領政策を実施する機関として日本にGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)(以下、GHQ)が置かれ、軍事力の排除や民主化が進められることとなった。

東京急行電鉄(以下、当社)においては、戦争末期の空襲により本社関係の建物が焼失したほか、駅舎やバス営業所、車両、路線、各種設備などが被害を受けて半ば機能停止の状態に陥っていた。このため1945年9月に臨時戦後復興委員会を設置して、広範な分野で応急的な復旧・復興に着手するかたわら、GHQからの要請に応えて同年10月から小田原線・厚木線・東横線・湘南線の4線において進駐軍専用列車あるいは専用車両の運転を実施した。

翌1946年初めには、本業である交通事業(鉄軌道およびバス)の復興や従業員の食糧確保のための未開墾地開発に重点を置く方針が定まったが、この内交通事業の復興には、必要最低限度としても約2億円を要することが判明した。なかでも喫緊の課題となったのが鉄軌道車両の増備である。

農地転用された渋谷付近(現、セルリアンタワー付近)
出典:『東京急行電鉄50年史』

1946年12月25日に開催された下期株主総会において、社長の小林中はおおむね次のようなことを述べている。

「1944年7月段階では在籍車510両以上を有し、毎日464両程度は運転していたが、(東京大空襲を受けた直後の)1945年6月には実働車は319両にまで落ち込んでいた。比較的損傷が少ないものは随時修理して運転に使い、また戦後の応急策として運輸省(1945年5月、運輸通信省から改組)から20両の払い下げを受けて急場をしのいだものの、使用年数が長い老朽車両も多く抱えていたことから抜本的な対策が必要で、新車35両、戦災車52両の復旧などに要する資金が約8780万円と見込む。このほか、路線の増強(軌条、枕木、路面の改修など)や施設の復旧・復興に約5150万円、通信線や電路線の復興、変電所の改造に約3200万円、そしてバス事業では新車150両や老朽車の修理に必要な資金約2340万円が必要と見込んだ。」(「東急社報」第142号 1947年1月31日号の内容を要約)

鉄軌道事業の復旧・復興は1947年度から本格化していくことになるが、なかでも復興の推進役となったのが車両製造会社の設立である。

湘南線金沢八景駅の西側一帯には、海軍の航空兵器や魚雷などの製造を行う第一海軍技術廠支廠があり、戦時中には1万2000人の工員が働いていた。敷地面積132万㎡、建物面積13万㎡に及ぶ施設は戦後にGHQの管理下に置かれたが、当社はこれを車両工場に転換することを計画し、1945年10月、大蔵大臣に対して一時使用認可を申請。翌1946年に大蔵省やGHQから許可を得ることができたため、横浜製作所創立準備委員会を立ち上げ、操業に向けて諸準備に着手した。

東急横浜製作所創立当時の関係者(前列中央が五島慶太、後列中央右に五島昇)

準備委員会は同製作所の経営を、元小田急電鉄の傘下会社で、当社の傘下にあった東急興業に委託し、戦災車両の修理で一定の成果を上げたところで同社への委託を解除し、当社直営の横浜製作所としたのち、1948年8月、新会社として株式会社東急横浜製作所を設立した。同社は後述する「大東急の再編成」直後に設立されたが、京王帝都電鉄、小田急電鉄、京浜急行電鉄はもとより、国鉄からも車両修繕を引き受けて事業を軌道に乗せた。これが東急車輛製造株式会社(1953年に商号変更)の始まりである。

東急横浜製作所の設立と同時に、同社取締役に五島昇が就任し、のちに同社常務となった。五島昇は五島慶太の長男で、東京帝国大学経済学部を卒業したのちは東京芝浦電気(現、東芝)に入社。軍務を解かれたのち、1945年に当社に入社していた。

このほか戦後間もない時期の鉄軌道事業について補足しておくと、相模鉄道については、経営を受託した2年間は、空襲被害、終戦、戦後の混乱という慌ただしい時期に相当していたが、車両数を6倍に増備したほか、厚木線の全線電化ならびに1500Vへの昇圧、駅の新設などを進捗させた。1947年5月、契約満了で受託を終了した。

また1938年11月から東京市に運営を委託していた旧玉川電気鉄道の天現寺線・中目黒線(渋谷~天現寺橋間および渋谷橋~中目黒間)は、1948年3月、東京都(1943年7月に都制実施)に譲渡した。これは同路線が東京市電・都電として一体運営されていたことに加え、1939年6月1日に玉川線が玉電ビル2階に乗り入れを開始したことにより、同線が分断され、以降玉川線との一体的な運営の可能性がなくなっていたことによる。

この他、戦後混乱期には事故が相次いで発生している。1946年1月16日京王管理部桜上水車庫で原因不明の出火により車両5両焼失。さらに同月28日新宿管理部小田原線鶴巻駅(現、鶴巻温泉駅)構内で列車が転覆し死者30人、重軽傷者165人に達する重大事故が発生した。

また5月29日には新宿管理部経堂車庫で出火、車庫の一部と車両9両が焼失。さらに6月6日には渋谷管理部井ノ頭線吉祥寺駅で列車が脱線して駅構築物に衝突し、重軽傷者21人を出した。

この頻発する事故の根本的な調査をするため、1946年6月に事故審査委員会が設置された。桜上水、経堂車庫の出火原因については乗客のタバコの不始末との結論を出している。

2-1-1-2 バス事業の戦後復興

バス事業は、戦時中の石油統制に伴ってガソリン車から代用燃料車(木炭バスなど)への転換を図ったことや、営業路線を縮小した影響などから、鉄軌道事業以上のダメージを抱えたまま終戦を迎えた。観光バスの営業は1940(昭和15)年から停止しており、バス事業は乗合バスが残るのみであった。

太平洋戦争の開戦直前の時点で乗合バス車両は1009両を有し、この内約700両を営業運転に使用していたが、戦時中の老朽車の酷使や戦災により228両を失った。残る在籍車も資材の入手難や人手不足などから修理が追いつかず、終戦時点での出庫車両数は120両にも満たない状況であった。

表2-1-1 バス車両状況
注:「東急社報」1947年10月20日号をもとに作成
※1 東京支部は、中野、渋谷、目黒、不動前、中延、高輪、池上、国分寺、八王子の各営業所
※2 神奈川支部は、川崎、杉田、堀ノ内、衣笠、鎌倉、三崎、久里浜の各営業所

その後、乗合バス車両は修理や新車増備が進んで徐々に充実を見ていくが、肝心の燃料が不足したため、運行の支障となった。1947年初頭から燃料の確保が非常に困難となった。このため試験的に国産の電気自動車5両を購入し、混雑路線となっていた国鉄大森駅〜池上駅間で1947年9月から試用に供した。しかし当時の電気自動車は価格がガソリン車の2倍と高価なうえに、バッテリーの取り扱いに専門知識を要し、馬力が小さく長距離の運転ができないなど実用には問題が多く、2年後には廃車とした。

試験的に導入した電気バス(三菱グループ製)

バス路線の状況としては、戦時中に軍需工場などへの通勤路線が優先され、生活の足となる他の路線については並行路線の休・廃止を断行せざるを得なかった。このため、1日平均の営業稼働車両数と総走行キロは1944年上期(1943年12月~1944年5月)の351両、3万6157kmから、終戦直後の1946年上期(1945年12月~1946年5月)には144両、1万3288kmまで減少した。

バス路線は車両や燃料が十分でないなかで、沿線住民からの要望が強い路線を中心に徐々に復活させ、1947年6月1日までには合計114.9kmの路線でさらに営業を再開した。

2-1-1-3 労働組合の結成と支社制への転換

戦後日本を占領したGHQは、戦前の軍国主義を廃して日本を民主的な国家に導くべく、さまざまな改革を打ち出した。この一環で1945(昭和20)年10月、GHQは日本政府に対して「労働組合の結成奨励」「経済機構の民主化」など5項目にわたる改革を指令。これが契機となって日本で労働組合の結成ムードが一気に高まり、翌1946年6月末には組合数1万2600、組合員数368万人(厚生省労政局調べ)へと驚異的な増加を示した。

皇居前広場における食糧メーデー

戦前戦中の抑圧的な状況から解放されて民主化の波にさらされたことや、戦後の急速なインフレの進行による物価高騰、日々の食糧確保にも窮する現下の社会情勢に対する不満も手伝って、労働組合運動は一部に暴走の動きも見せるなどエスカレート。1947年にはGHQが運動の抑制に方針転換しなければならないほどであった。

東京急行電鉄においては、GHQの指令が伝わる直前の1945年9月ごろから現業従業員を中心に労働組合結成の動きが芽生えたが、活動方針などを巡って議論が紛糾し、組合結成準備委員会の発足や解散(同年11月)を経て、同年12月に東京急行従業員組合が約1万2000人の組合員で発足した。しかし賃上げ交渉の過程で一部に暴走行為があったことから翌1946年2月には二派に分裂。その後同年4月に東急労働組合として統一されるに至った。

東急労働組合の発足後、賃上げ問題で会社側と激しい応酬があったが、これ以外で最大の焦点となったのは、労働協約や経営協議会規程の締結についてであった。会社側と組合側それぞれの案は、なかなか妥協点を見いだせないまま対立を深めていき、組合側は1946年12月に24時間ストライキの決行を宣言。東京都労働委員会が調停に乗り出して事態の収拾が図られ、ようやく12月末に調停案通りの内容で労働協約および経営協議会規程が締結された。

これと並行して労使間の対立を深める一因ともなったのが、1946年の業務組織の改正であった。戦後復興を急ぐなかで繁忙となっていた現業部門を強化するため、本社配属の社員を現場に配置して現業部門ごとの管理機能を向上させ、これと同時に本社管理部門の簡素化を行うというのが趣旨であった。しかし現場への説明が不十分なまま同年5月に人事異動を発令したことから、東急労働組合は猛反発して強硬な闘争を開始した。

小林 中社長

組合側は「運行管理を断行する準備がある」と表明し、これに対して小林中社長は「定時株主総会において重役刷新を行い、民主的な重役陣とする」ことを組合側に通告して事を収めた。そして1946年6月27日に東横百貨店4階劇場で開催された定時株主総会において小林中社長を除く全役員が退陣、五島慶太も会長を退いた。これに代わり新たに部長クラスの役員が選任された。

その後、会社側と組合側、おのおの同人数により組織改正案の議論が進められた結果、地域別の支社制を採り入れた業務組織改革の枠組みについて労使間で合意を見た。その要点は、①本社を企画統制機関とし、実施面を現場機関が担当することを原則とする、②現場機関の機能を十分に発揮させるために、その自主性を認め大幅な権限を与える、というものであった。これに基づく業務組織改正は1946年8月に行われたが、とくに支社が重役の直属機関となった点が従来にはなかった大きな特色で、これがのちのち、支社単位での独立へとつながっていく。

2-1-1-4 五島慶太の公職追放と社長交代

終戦直後の混乱と組合対策の行き詰まりなどから、1948(昭和23)年ごろまでは役員の入れ替わりが激しく、当社の社長もめまぐるしく交代した。以下、社長就任の変遷と在任期間を記しておく。

  • 平山孝(1945年3月12日〜1945年8月20日)
  • 小宮次郎(1945年8月20日〜1946年3月1日)
  • 小林中(1946年3月1日〜1947年9月9日)
  • 井田正一(1947年10月16日〜1948年12月27日)
  • 鈴木幸七(1948年12月27日〜1954年5月6日)

この間にはGHQによる公職追放問題も、労使関係の悪化や経営体制の混乱に拍車をかけた。時期はやや前後するが、1946年1月、GHQは「好ましくない人物の公職よりの除去に関する覚書」を発表した。軍国主義者の公職追放と国家主義団体の解散を命じたもので、公職追放の対象者は当初1000人余りとされたが、その後の審査で対象者は20万人以上にまで膨れ上がった。こうした動きのなかで1947年8月、戦時中運輸通信大臣の立場にあった五島慶太も公職追放の指定を受けた。財界人では京阪神急行電鉄の小林一三、西武鉄道の堤康次郎、松下電器産業の松下幸之助も公職追放の指定を受けており、経済界にも大きな波紋を広げた。

五島慶太は会長辞任に続いて公職追放の憂き目にも遭ったわけだが、のちに公職追放が解除されるまでの間も意気軒昂に振る舞い、非常勤ながら複数会社の役員に就任していた。表面的には当社との縁が一時的に絶ち切られた格好ではあったが、幹部はことあるごとに五島慶太の自宅に出向いて相談を持ちかけ指示を仰いでいたとされる。

2-1-1-5 支社制が内包していた独立機運と「大東急」の再編成

1946(昭和21)年8月の業務組織改正で、地域別の支社制が取り入れられた。本社以外の現場機能を担う組織として、下記のように各路線を管掌する7支社と自動車部、百貨店が設けられた。

  • 京王支社=京王線
  • 新宿支社=小田急線
  • 渋谷支社=東横線、井ノ頭線、玉川線、天現寺線※1、中目黒線※1
  • 品川支社=京浜線、穴守線、大師線(延長線を含む)
  • 横浜支社=湘南線、久里浜線、衣笠線(未完成)
  • 相模支社※2=厚木線※2
  • 目黒支社=目蒲線、池上線、大井町線
  1. ※1.1948年3月まで
  2. ※2.1947年5月まで

一部を除いて、各支社は戦前の被合併会社ごとの路線を管掌する格好となっていた。そして現場に権限を委譲して支社ごとの独立性を高めるという業務組織改正の趣旨は、被合併会社ごとの独立機運を高める土壌となるには十分であったといえる。

「大東急」以前の体制に戻そうとする動きは、すでに終戦直後から一部で芽生えていた。第1章でも記したように、そもそも「大東急」は陸上交通事業調整法の趣旨に則って大同団結に至った経緯がある。この法律は公共的使命を担うべき陸上交通事業者の乱立を是正するための議論がなされた末に生まれた法律であって、戦争に対処するための法律とは文脈が異なっていた。だが一方では挙国一致ムードのなかで大同団結せねばならない、という空気があったのも確かである。「連合国に勝利するために集結したのであって、戦争が終わったのだから元の状態に戻るべき」という考え方が生まれてきたのであった。

この独立機運をさらに後押ししたのが、1946年ごろから経済民主化の一環で議論が始まっていた独占禁止法に関する議論や、財閥解体論である。これらは1947年に法案化されることとなるが、こうした時勢のなかで「大東急」も解体を命令されるのではないかと噂され、社員の間には動揺が広がっていた。

支社ごとの独立に動き始めたのは新宿、品川、横浜、京王の4支社であった。当時の社内組織の一つであった経済再建委員会の資料によると、「1947年1月末、各支社幹部を以って組織されていた労資研究会で、関西民鉄業務視察に品川支社庶務課長、相模支社庶務課長、本社審議室員の3人を派遣した。この時、近畿日本鉄道に於いて南海鉄道の分離計画のあることを知る。」とあり、関西急行鉄道と南海鉄道が合併して誕生していた近畿日本鉄道において旧南海鉄道の事業を分離する計画を進めていることを知り、支社幹部らは独立の意図を明確に抱くに至った。

4支社が中心となって支社独立の声が急速に高まるなか、小林中社長は1947年4月、社内報『清和』号外にて「議会で成立した独占禁止法で鉄道事業は適用を除外されることになった。各支社を分割するような考えはない」と通達したが、これに4支社が反発。運輸大臣やGHQ関係当局への陳情、主要新聞社への働きかけを行ったうえ、東急解体期成同盟を結成して一般大衆にも訴え出た。それは、本社や渋谷支社、目黒支社が唱える分離不要論を圧倒する勢いであった。

社内の対立抗争がますます激化するなか、1947年8月、安藤楢六専務をはじめ役員3人が事態の沈静化に向けて4支社長や労働組合の各支部長と協議を行い、東急解体問題は重役に一任することで落着。東急解体期成同盟は活動を休止して、社内は平静を取り戻した。1947年9月、この状況を受けて小林中社長が辞任を申し出て、井田正一が新社長に就任。同年12月の定時株主総会で議案「会社再編成計画に伴う事業譲渡について」が特別決議された。

この結果、東京急行電鉄は4鉄軌道会社(東京急行電鉄、京王帝都電鉄、小田急電鉄、京浜急行電鉄)と1百貨店(東横百貨店)に再編成されることとなり、バス事業、付帯事業や資産も分離することとなった。定時株主総会で「再編成」と表現したのは、合併前の姿のままに戻すのではなく、各社が独立採算で経営を維持できるよう、調整を図ったからであった。

その最たる例が、旧小田急電鉄の所属であった井ノ頭線(現、井の頭線)を京王帝都電鉄の所属としたことである。京王帝都電鉄はかつて業績も安定していたが、1938年以降東京市内のバス路線や配電事業を失っており、合併前の姿のままでは経営の維持が困難と思われた。井ノ頭線を失う小田急電鉄には痛手となるため、新宿支社は大衆運動を起こして反対をし、一方の京王支社もこれを獲得しようと運動を展開するなど事態は混迷した。このため当社は、当社の子会社であった箱根登山鉄道と神奈川中央乗合自動車を小田急電鉄に譲渡することで最終決着を見た。また京浜急行電鉄には、関係の深い京急百貨店とジャパン・モーターを譲渡した。3社の再発足(設立)は1948年6月1日のことであった。なお東横百貨店はこれに先立つ1948年5月1日に分離をしているが、これについては後述する。

また当社は以下の会社の持株をそれぞれの役職員に譲渡し、各社は当社の傘下を離れることになる(カッコ内は譲渡日)。

  • 江ノ島電気鉄道(1947年3月15日)
  • 静岡鉄道、神奈川都市交通、横須賀運送(1947年3月25日)
  • 王子運送(1947年5月)
  • 厚木通運(1947年5月22日)
  • 東横実業、関東特殊繊維(1947年5月30日)
  • 小田原運送(1947年6月30日)
  • 横須賀自動車工業(1947年6月30日)
  • 相模鉄道(1947年8月)
  • 城北運送(1947年10月)
  • 神中自動車工業(1948年2月)

なおこの内横須賀運送は、1944年6月三浦半島一円の運送会社を統合して設立した当社傘下の貨物運送会社で1952年に横須賀自動車工業を合併していたが、1956年に再び当社の傘下となり、1959年4月に横浜西部運送(1953年9月に傘下入り)を合併し商号を日本貨物急送にした。また厚木通運は、当社が1940年に神中鉄道沿線の貨物運送会社として設立した神中運送が始まりであり、のちにすでに傘下であった周辺の藤沢運輸、厚木共進運送自動車、秦野合同トラックおよび相陽運輸を合併した。そのあと相模通運が1943年10月に神中運送を合併し、さらに1944年3月に厚木通運に商号変更したものである。このあと、1953年に当社が株式を買い戻して再び傘下入りし、1954年に横浜通運(1952年に傘下入りした神糧運輸を商号変更)を合併、さらに1963年に東京通運(1950年1月設立)に合併されることになる。

また、東横実業はこの時期傘下を離れたものの、衣料品需要の高まりを受け、1948年に東横百貨店が全株を取得して商号を東横縫製に改めて再び傘下入りし、1957年には東横物産と再度商号を改めている。

旧京浜電気鉄道と小田急電鉄の合併から6年、旧京王電気軌道を合併してから4年と「大東急」時代は短い期間であった。この間、全線の車両、レール、まくら木などの資材を、支社を越えて互いに融通することで、厳しい戦時輸送を完遂しようと努力し続けた。戦時体制のもと、組織統制のシンボルでもあった五島慶太の不在、そして空襲、終戦後の混乱と続き、結果的には一体的な成長を共有する間もなく「大東急」は終焉を迎えることとなった。

図2-1-1 当社再編経過図
出典: 『東京急行電鉄50年史』

2-1-1-6 東京急行電鉄の再出発

「大東急の再編成」においては、各社の再発足(設立)にあたって商号をどうするかが検討されたが、当社は従来通り「東京急行電鉄」の商号を継承することとし、次のような事業範囲での再出発となった。

鉄軌道事業は、東横線、目蒲線、大井町線、池上線、玉川線の5路線(鉄道4路線、軌道〈玉川線〉1路線)となり、営業キロ数79.1km、車両数196両となった。天現寺線や中目黒線は、1948(昭和23)年3月に、東京都に譲渡していたことから、東京横浜電鉄時代末期よりも営業規模は縮小した。

乗合バス事業は、7営業所、20路線で営業キロ数80.37km、車両数188両となった。また付帯事業には田園都市事業、砂利事業、遊園事業(旅客誘致事業)、広告事業があったが、これらは当社線沿線を中心に展開し、関係会社(傘下会社)数は1948年12月時点で確認できるものだけでも24社を数えた(財団法人・学校法人については後述)。

表2-1-2 1948年末における関係会社一覧表
注:『東京急行電鉄50年史』をもとに作成
※玉川電気鉄道の子会社であり、目黒蒲田電鉄と(旧)東京横浜電鉄の合併により傘下入り
現在もグループにある会社は現社名を記載。2000年代以降の譲渡会社は後述
図2-1-2 新発足時の業務組織(1948年6月1日時点)
出典:『東京急行電鉄50年史』
井田正一社長

再編成直後の時点で、当社役員は井田正一社長、安藤楢六専務ほか取締役6人、監査役1人の陣容で、従業員数は約4800人となった。業務組織は従来の支社制を廃して10部からなる部門別組織編成とし、運輸部に路線別の運輸事務所を設置した。このあとの1948年12月、新社長に鈴木幸七が就任し、井田正一と安藤楢六は役員を退任した。これは井田正一前社長が京浜急行電鉄社長に、安藤楢六前専務(退任時副社長)が小田急電鉄社長に就任するという再編成時の内定に沿ったものであった。鈴木幸七新社長は、五島慶太のあとを追って鉄道省から武蔵電気鉄道に入社し、これまで鉄軌道の工務部門にて目黒駅の改築(1936年2月竣工)をはじめとした工事を担当すると共に、五島慶太の命を受けて国の審議会や海外視察に参加するなど技術畑出身の人物で、1941年12月に取締役、1946年3月に専務に就任していた。

鈴木幸七社長

詳細は後述するが、1950年10月には待望の本社新社屋を竣工させた。また当社の事業年度は従来、上期を前年12月〜5月、下期を6月〜11月としてきたが、わが国の会計年度に適応させるとの運輸省方針に基づき1950年度から、上期を4月〜9月、下期を10月〜翌年3月とする現在の事業年度に改めた。調整のため、1950年度は上期を2回に分け、1949年12月~1950年5月(第56期)を上期の(1)、同年6月~9月(第57期)を上期(2)とした。

東京急行電鉄本社全景(1950年)

2-1-1-7 輸送力の向上を図る

鉄軌道・乗合バス事業は徐々に復旧していたが、鉄軌道の車両数は終戦時とほぼ変わらない状況であるなど道半ばであったため、輸送力は戦後の沿線人口急増に対応できていなかった。従って、再編成後の当社の優先すべき課題は、この輸送力の増強であった。

そこで1948(昭和23)年10月の新株発行などにより、再編成時の資本金2億2415万円から1952年2月の9億円まで段階的に増資。さらに信用度の回復を背景に相次いで社債を発行し、資金力を向上させた。

これによって鉄軌道では再編成時から5年弱で、戦後初の新型車10両を含め合計65両を増備。車両数の充実により、輸送力を表す「1日平均の客車走行キロ」は鉄道4線で1948年上期(5月期)の3万1612kmから、2年後には4万5961kmにまで向上、戦前の最高水準に肩を並べた。また軌道線(玉川線)でも1948年上期の6359kmから、約3年後には9677kmとなった。

第一期改良工事が終了し3面3線のホームが完成した渋谷駅(1950年8月)
改良後の渋谷駅と停車中の田園調布行き電車(1951年)

駅の新設・改良工事も進めた。渋谷駅の改良、旗ノ台駅(現、旗の台駅)の新設(東洗足駅と旗ヶ岡駅の廃止)、前述した武蔵小杉駅と工業都市駅の統合(武蔵小杉駅の移設と線路のかさ上げ工事、工業都市駅の廃止)などである。これらは戦前からの懸案事項とされながら工事中断、着手見送りとなっていたもので、ようやくの竣工であった。

1951年5月に竣工した旗ノ台駅(現、旗の台駅。1951年)
武蔵小杉駅付近の線路のかさ上げ(高上)工事(1952年)
駅移設後完成した武蔵小杉駅ホーム(1953年4月)

乗合バスでは、都心と郊外を結ぶ、都営バスと民営バスの相互乗り入れが1947年6月から実施されて、東京地区でのバス事業復興の契機となった。当社もいち早く3系統の営業を開始し、ようやく業績好転の糸口を見出した。

表2-1-3 当社バス 都心乗り入れ路線(1947年6月現在)
出典:『東京急行電鉄50年史』

この相互乗り入れ策はGHQからの要望もあって実施されたことから、営業開始にあたってはGHQから軍用トラック(GMC)45両の払い下げと、これに必要なガソリンおよびタイヤの配給が行われた。当社では上記の軍用トラックを含めて60両の払い下げを受け、大型バス(定員55人〜77人)に改造して運転した。

進駐軍車両GMCの改造バス(1950年8月)

さらに1947年にはディーゼルエンジンの国産バスが開発され、当社は1948年11月、都心乗り入れ用に大型トレーラー・バス(定員97人)を5両購入した。ディーゼル車は燃料が軽油のため燃料費を抑えることができる利点があることから、徐々に車両をディーゼル車に切り替えることとし、代用燃料車は1950年9月末までに全廃とした。これに伴い、代用燃料生産を主として設立や傘下に置いた日東林業(1946年設立)を譲渡、東急燃料生産(1942年傘下入り)は解散した。

都心乗り入れ線に使用されたトレーラー・バス

車両数は終戦時に113両、再編成時に176両であったが、1952年度下期には253両(内ディーゼル車が180両)まで増強することができた。

乗合バス路線については、道路事情が悪いために再開困難として整理した路線を除き、1953年10月までにすべての営業休止路線を再開した。

さらに1951年5月以降、東京〜横浜間や渋谷〜江ノ島間の長距離路線を開設したほか、1953年7月から観光バスの営業を再開するなど、バス事業は伸張を見せた。

2-1-1-8 東横百貨店の分離独立

東横百貨店は、1945(昭和20)年5月の東京大空襲によって地階を除く全館を焼失し、百貨店としての機能はまったく失われてしまった。戦後は焼けた東横百貨店の建物(のちの東館)を応急修理して、わずかな部分で営業を再開した。1946年1月には3、4階を劇場に改装して映画や演劇の公演を開始したが、5階から7階までは当社本社事務所に使われていたため、本格的な営業再開とはほど遠い状況であった。

当社が本社を置いていたころの東横百貨店

前述の通り、「大東急の再編成」の一環で、百貨店事業を分離独立させることについては、当社の子会社であった東横興業に百貨店事業を譲渡する形で、これを実施することとした。

1948年2月に開催された東横興業の臨時株主総会での決議を受けて、当社は同年5月に東横百貨店(百貨店事業)を同社に譲渡し、同社は6月に資本金を2500万円に増資すると共に商号を東横百貨店(株式会社東横百貨店)と改めた。これと同時に当社は間借りしていた5階を同社に返還、そして当社本社の落成に伴って1950年10月に6階と7階も返還し、東横百貨店渋谷本店はようやく開業時点の全容を取り戻した。

東横興業は前述の通り当社直営の飲食店や売店を経営するために1937年に設立された会社で、東横百貨店の小規模版ともいえる店舗を蒲田、平塚、熱海に展開していたほか、当社から食品工場を譲受して経営するなど、百貨店との縁が深い会社であった。のちにスーパーマーケットとして本格展開することになるが、これについては第3章以降で詳述する。

1951年10月には食品関係の老舗が集まる日本初の名店街「東横のれん街」を1階に設置して大きな反響を呼び、のちのちまで渋谷本店の看板となった。

この間の1949年5月には東横百貨店として東京証券取引所に上場を果たし、翌1950年12月には池袋西口に池袋店(池袋東横百貨店)を開店した。

なお「大東急の再編成」にあたっては鉄道3社よりも百貨店事業の分離が一足早くなったが、これは鉄道事業の分割交渉などが速やかには進まなかったため、再編成の先例を示す意味合いもあった。

1953年初頭の渋谷駅周辺
出典:『清和』1953年3月

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