第2章 第1節 第2項 新たな経営体制へ

2-1-2-1 五島慶太の復帰と五島昇の社長就任

戦後しばらく日本はGHQの占領下に置かれたが、GHQで中心的な役割を担っていた米国はソ連との対立を深めるなかで徐々に対日政策を転換させ、自由主義陣営の国として独立させる方針に転じた。1951(昭和26)年9月、日本はソ連など共産主義陣営の国家を除く48か国との間でサンフランシスコ講和条約を締結、1952年4月28日の条約発効をもって独立を果たした。

こうした背景の下で公職追放解除の判断が日本政府に委ねられ、1951年8月6日の、第二次追放解除の際に五島慶太は篠原三千郎と共に追放解除となり、同月当社に復帰した。翌1952年5月6日に開かれた第60回定時株主総会において、五島慶太が代表取締役会長に就任し、これと同時に五島昇が取締役に選任された。さらに1953年2月27日に経営陣強化のため副社長制を採用した際に五島昇は大川博と共に副社長に就任し、翌1954年5月6日の第64回定時株主総会で五島昇は当社代表取締役社長に就任した。

五島昇社長

五島昇は五島慶太の長男で、東京帝国大学経済学部を卒業したのちは東京芝浦電気(現、東芝)に入社。軍務を解かれたあと、1945年に当社に入社し、1948年の東急横浜製作所の設立と同時に、同社取締役に就任、のちに常務となっていた。

五島慶太氏復帰歓迎祝賀会(東京急行電鉄本社屋上、1951年8月)

こうして五島慶太会長と五島昇社長の体制となった当社は、戦後復興の時代から新たな成長の時代へと、大きく舵を切っていくことになる。なかでも五島慶太は、1951年8月28日に当社の本社屋上で「五島慶太氏復帰歓迎祝賀会」が行われた際、近いうちに国際社会に復帰すると見られる日本の発展の道筋、そのなかで果たすべき役割について、当社を離れていた時期に温めてきた思いのたけを披露した。その大要は、以下のようなものであった。

事業を通じて国や社会に奉仕する覚悟が必要である。ローカルな事業、鉄道事業のみに閉じこもることなく、国の産業や文化の発展に広く貢献し、さらには海外に進出していくことも考えなければならない。日々安定的な現金収入が得られる交通事業などの本業を充実させながら、その信用を基盤に、国家的な見地に立って関連事業にも積極的に乗り出していく。

それは、戦後しばらく労使交渉や支社独立問題への対応で、ともすれば内向きになっていたベクトルを再び外に向けることを意味していた。

こうした経緯のなかで田園都市事業などの不動産業を承継する東急不動産の設立(1953年12月)、旅行事業の東急観光の設立(1956年1月)、そして映画事業や製造事業への進出、観光を軸とした伊豆半島や北海道、上信越への進出、ホテル事業への進出と快進撃が始まることになる(いずれも詳細は後述)。そして、これらに先立って当社本業の充実を図るため、1953年1月に臨時建設部を設置し、戦前からの積み残し課題の克服も含めた多方面にわたる建設事業に着手することとした。その計画は以下の通りである。

  1. 渋谷地区の整備・開発……東急会館、渋谷地下街、渋谷東映の建設および第一マーケットの処理
  2. 鉄道部門の充実……高島町〜桜木町間の複線化、東横線・大井町線連絡線の建設および目黒駅の改築
  3. レクリエーション施設の建設……砧ゴルフ場、駒沢野球場の建設
  4. 地域開発……城西南新都市の建設
  5. 福利厚生施設の充実……東急病院、社員クラブ、社員総合運動場の建設

臨時建設部は2年余りの短期間の組織で、未完成の事業については、それぞれ担当部署に引き継がれた。なお上記の内「城西南新都市」はのちの多摩田園都市のことである。

2-1-2-2 鉄軌道事業の充実

歩道上に単線を設けた高島町~桜木町間複線化工事 手前は横浜市電

鉄軌道事業においては高島町〜桜木町間の複線化が長年の課題であった。この区間は、当初より複線で建設する予定であったが、用地の手当てができず1932(昭和7)年3月に単線で開業した経緯がある。以来、この区間は東横線で唯一単線のままであった。

当社は輸送力増強のため、運転本数の増加、列車編成の長大化、急行運転の再開などの施策を実施してきていたが、このわずか1.3kmの単線区間のため、急行運転を最も必要とする朝の混雑時に急行列車も菊名〜桜木町間を各駅停車にせざるを得なかった。

複線化が完成した桜木町駅を視察する五島慶太

高島町〜桜木町間は国鉄と国道16号に挟まれていたため、同区間の複線化のために、並走する国道歩道上に高架線を建設して1線分の用地に充てるという計画で、1948年10月、横浜市に構造物設置承認願を提出。異例の工事方法であったため容易に結論は出なかったが、ようやく1953年12月に道路占用の許可が出た。1108mの高架橋を建設し、併せて桜木町駅の改良工事を行ったほか、コンクリート枕木を採用し、民鉄では初めて300mのロングレールも採用するなど新機軸を打ち出した工事は、着工半年後の1956年9月10日に竣工した。

この複線化工事完了を受けて、当社は1956年10月1日全面的な東横線のダイヤ改正を行い、菊名~桜木町間で横浜駅のみを途中停車駅とする急行運転が終日できるようになった。急行電車の渋谷~桜木町間の所要時間は40分から37分に短縮され、その運転間隔も15分から14分に短縮、運転時間帯も拡大し輸送力増強が実現した。

1953年には目黒駅駅舎の改築も実施した。開業当時から改良は加えていたものの木造構造のままだったため、これを鉄筋コンクリート造2階建てに改築したものである。1階の半分は三菱銀行に賃貸し、2階は東横百貨店の食堂、地階は東横百貨店の売り場とした。

改築された目黒駅と東横目黒店

この他1959年度までの鉄軌道事業の変遷について概要を記しておく。

まず東横線では、架線電圧の直流600Vから1500Vへの昇圧工事を1952年10月1日に実施し、レールの重量化(重軌条化)を行ったほか、新型の軽量車両5000系を逐次増備し、1958年には国内初のセミステンレスカー5200系を導入した。急行列車は1955年時点で3両編成での運行であったが、1959年6月からは5両編成での運転を開始した。さらに、他社線との連携による夏季の海水浴客輸送も活発に行い、通勤以外の旅客誘致を図った。こうした輸送力増強を進める一方、列車運転保安度向上の対策として、1957年11月までに東横線の全車両の運転室に車内警報装置(※1)を設備した。これは1956年12月2日に東横線祐天寺1号踏切にて列車運転士の赤信号無視によって発生した列車追突事故(後述)を教訓としての施策であった。

  1. ※1.列車が停止信号に一定距離に近づくと自動で警報音が鳴る装置

目蒲線でも架線電圧の直流600Vから1500Vへの昇圧を1955年11月15日に実施すると共に、重軌条化工事を行い、所要時分や運転間隔の短縮を図った。

軽量の新性能電車 5000系
国内初のセミステンレス電車 5200系

大井町線では1957年に荏原町〜戸越公園間の約1kmにわたって、第2京浜国道との立体交差化工事を完了したほか、二子新地〜溝ノ口(現、溝の口)間の各駅ホーム延伸工事、大井町駅の改良工事を進めた。翌1958年1月15日には架線電圧の直流600Vから1500Vへの昇圧を実施、さらに重軌条化も1959年中に完了した。

池上線は、1957年8月10日に架線電圧の直流600Vから1500Vへの昇圧を実施した。

玉川線は1950年代を通じて輸送需要が鈍化していたが、1955年に新設計による連接車200形を新造するなどして、輸送力向上に努めた。

玉川線用の低床連接車200形
後方に東横百貨店と営団地下鉄銀座線の車両が見える

こうした取り組みの成果を1955年度上期と1959年度上期の比較で見ていくと、鉄道業4線においては旅客数が47%増、車両数が229両から303両へ32%増、客車走行キロは35%増となり、営業成績では収入が44%増、益金が50%増となった。また軌道業(玉川線)は旅客数が8%増、車両数は68両のままで、客車走行キロは12%増、営業成績では収入が16%増に対して益金が58%の減少であった(営業報告書より)。1959年1月29日には鉄道業の運賃改定が実施された。

2-1-2-3 [コラム]東横線祐天寺1号踏切列車衝突事故

1956(昭和31)年12月2日14時35分ごろ、東横線祐天寺1号踏切にて、踏切で立ち往生したオート三輪車に接触し停止していた田園調布発渋谷行の上り列車(3両編成)に、後続の桜木町発渋谷行の上り列車(3両編成)が追突、双方の車両は損傷、車内のフレームは曲がり、窓ガラスが割れるなどした。日曜日の午後で列車は混雑しており、追突した列車の運転士1人と乗客の合計143人が重軽傷を負った。

事故の原因は、後続の列車が学芸大学駅発車後の赤信号を無視し、徐行せずに進入したためで、列車の運転士とオート三輪車の運転手は逮捕された。大東急時代を除き、当社最大の負傷者を発生させた事故となった。

2-1-2-4 自動車事業の拡充

自動車事業の中心となる乗合バス(路線バス)は、戦災やその後の燃料不足の影響で赤字状態が続いていたが、営業路線の拡充、車両の増備などにより業績は向上し、1949(昭和24)年に利益計上を果たした。以降さらに事業拡大していく。郊外間の路線としては、当社の寄付工事により拡幅した多摩川左岸沿いの道路を通り、多摩川園と二子玉川園の両遊園地を結ぶ路線、綱島〜新羽町間などを新設。都心と郊外を結ぶ路線としては、新宿発着路線、東京駅発着路線、京浜急行電鉄との相互乗り入れによる田園調布〜羽田空港間、日本橋白木屋への利便を図る新路線などの営業を開始した。こうした路線網の拡張により、路線営業キロは1955年上期の312.4kmから、1959年上期の423.2kmへと増加した。

車両については、1955年下期に全車両をディーゼルエンジン車両に転換、老朽車両を新型の大型車に更新するなどして、1959年には車両数541両となり、4年間で実に62%増となった。併せて1956年に瀬田営業所、1959年には弦巻営業所を新設したほか、神奈川県下では運賃改定を行った。この結果、1955年度上期と1959年度上期の比較で見ると、乗車人員が72%増、走行キロが79%増、運賃収入では74%増となった。

これに加えて、当社では観光バス(貸切バス)の営業を1953年7月22日に再開した。

観光バス事業は1940年に鉄道省通達により営業を停止していたが、戦後はGHQ関係、外国人観光客や学術研究団体などに対象を限定して運行が認められるようになった。1950年に限定が解除されると、民鉄各社やバス会社が次々と観光バス事業を再開した。しかし当社は1948年に営業権をいったん手放した関係から免許取得が遅れ、ようやく1953年5月4日に取得することができたのである。

免許取得時、営業認可された車両はわずか3両であったが、その後の追加認可により、1954年度下期に合計25両になった。さらに、従来の定員40人から定員55人の大型車両への切り替えを行った。この間には豪華客船「カロニア号」で来日した英国の観光旅団の東京遊覧を引き受けたほか、会員制の観光バス旅行を販売するなど新機軸を打ち出した。

英国観光旅団の東京遊覧を引き受けに集結する当社観光バス

1954年には、石油販売事業に進出した。当社は戦中、戦後の石油統制のなかで、燃料確保に多大な苦労を経験したことから、1952年の全石油製品の統制廃止を契機に、ガソリンスタンドの経営に着手した。ガソリンの需要者であると共に、新たに供給者の立場に立つことで、自動車交通の円滑化に寄与すると共に、増収策の一環とすることを目的とした。民鉄の兼業としては当社が初めてであった。

四谷東急サービス・ステーション(ガソリンスタンド)
当社のガソリンスタンド第一号店

第1号は1954年9月に開設した四谷東急サービス・ステーションで、これをモデルケースとして1957年度までに合計8店を展開。当初は自動車部資材課が業務を担当していたが、これを専門に手がける部署としてサービス課を設けた。

1956年以降は簡易給油所とドライバーが休息し食事もできる施設として、海水浴客でにぎわう江の島にレストハウスを開設したほか、ガソリンスタンドに併設した長距離ドライバーや観光団体旅客向けのドライブインを、第1号の箱根湯本に続き、戸塚、沼津、高崎に開業した。

東急江の島レストハウスと当社バス

自動車事業がこうして事業領域を拡大した要因として、一つには、1955年4月に五島慶太会長が鉄軌道・自動車部門に対して、1957年度上期までにおのおの日収1000万円を実現するよう指示した点が挙げられる。直前の1954年下期時点の日収は鉄軌道事業が841万円で、これに対して自動車事業は、開始間もない観光バス事業11万円、石油販売業22万円を加えてもわずか361万円であった。このため事業領域拡大を急ぐと共に新規路線の開業に努め、1957年度上期、日収997万円まで積み上げることに成功した。なお鉄軌道事業は1956年1月、早々に日収1000万円を達成した。

日収1000万円を指示したのは、当社の各事業を充実させて経営を盤石にし、多彩な分野への進出を可能にしようとする狙いがあったとされる。そして自動車事業の一つとして始まった観光バスが起点となって観光関連事業が拡大し、後述するように首都圏以外への地域拡大にもつながっていくのである。

なお、当社は1956年以来、東銀座に面積約3000㎡の築地東急有料駐車場を開設し、自動車部が所管していたが、この敷地に銀座東急ホテルを建設することが決定したため、1959年1月に廃止している。

2-1-2-5 [コラム]旭海運

旭海運は1946(昭和21)年8月24日に五島慶太の発意により設立した海運会社である。五島は戦時中、内閣顧問・行政監察使に続き、運輸通信大臣として内航海運向けの木造船の増産に携わった経験から、戦後日本の復興には海運が必要であると信じ、当時日本最大の木造船造船会社であった旭造船の用船部門を独立させる形で旭海運を創設した。

同社は進駐軍関係や戦災復興用の北海道材輸送、さらにはタンカーによるガソリン輸送など業容を拡大した。その後は石炭、鉄鉱石、石油類などの資源輸送を中心に発展、1987年に神戸製鋼、日本郵船両社に当社の保有する全株式を譲渡するまで、東急グループ唯一の海運会社であった。

旭海運「播磨丸」11万トン(1970年竣工)

2-1-2-6 福利厚生制度や施設の拡充

積極的な事業の拡張のなかで、福利厚生施設の充実も図られた。その一つが東急病院の建設である。

当社は1940年代に、社員の健康保持のため、計6か所の診療所を設け、このころから総合病院の設立を構想していた。しかし、「大東急の再編成」に伴って、駒沢と自由ヶ丘の両診療所のみが当社の所管となり、病院設立は頓挫していた。

その後、創立30周年事業として、社員および家族に理想的な医療を低廉に提供することを目的として懸案の病院建設を決定、大岡山駅の近くを適地に選んで、1953(昭和28)年7月1日に東急病院を開業し、2か所の診療所は同日に廃止となった。その後診療科の増設に加えて3次におよぶ増築を行い、1965年4月には総合病院の名称使用の承認を得て地域住民にも開かれた病院となった。

開業時の東急病院

1953年6月には、後述する当社新社屋に隣接して、主に文化部の活動拠点として清和会館を設けた。社員用のクラブハウスとして戦前に設置した旧清和会館は空襲により焼失しており、再建することとなったものである。建物は、土地分譲用として買収していた加藤高明元首相の邸宅を移築することとした。加藤高明は自身が英国大使として赴任するにあたり、東京帝国大学で学ぶ五島に留守宅となる自宅に住まわせ、加藤の子弟の面倒を見る代わりにその学費を手当したことから育ての親ともいえる存在であった。加藤邸が純日本風の堅牢な家屋であったことから、これを移築して使用した。

同じく1953年には、戦前に砂利採取場だった新丸子の社有地10万㎡の内4万㎡を利用して総合運動場を整備し、同年12月に竣工、新丸子東急グラウンドと命名された。1周300mの陸上用トラック、軟式野球場2面、テニスコート3面と木造平屋建てのクラブハウス1棟を有する運動場で、翌1954年3月にグラウンド開きを兼ねて社員家族運動会を開催した。

新丸子東急グラウンド

2-1-2-7 [コラム]財団法人東急弘潤会

1948(昭和23)年9月1日、財団法人東急弘潤会が事業を開始した。お手本となった鉄道弘済会は、1932年に鉄道省によって設立され、当時危険が大きかった鉄道業務に従事して事故に遭い、不幸にも殉職した職員の遺族や、身体に障害を負って退職を余儀なくされた職員などを救済・援護することを目的として設立されていた。

当社でも定年退職者、公傷などによる退職者、社員家族、一般生活困窮者を救済するために、同財団を発足させ、棒炭工場や中目黒授産場、反町編物補導所などが「一般生活困窮者への授産」施設として設けられていた。

一方、財団に認められていた収益事業は、当初は駅構内売店6か所、玉川線乗車券代売所2か所、生命・火災保険代理店業などであり、従業員33人でのスタートであった。

その後駅構内の広告業、食堂(喫茶店)の運営、公衆電話の設置などの新規事業に加え、個人経営の駅構内売店の買収を進め、結果1959年時点では56店舗を数えるまでに成長していた。ちなみに当時の駅売店での売上は、「1位タバコ、2位雑誌、3位菓子類の順であった」と言う。

駅売店のほかに社員が給与天引きで購入できる家庭用品販売所も9か所にあり、社員への福利厚生の意味合いも強かった。1959年の従業員316人の内、定年退職者76人、中途退職者10人、公傷死者の家族8人であり、社員の退社後の生活まで当社が目配りをしていたことがうかがわれる。

2-1-2-8 育英・文化事業の発展(学校法人五島育英会・亜細亜学園、財団法人天文博物館五島プラネタリウム・大東急記念文庫・五島美術館など)

五島慶太は官職に就く以前に、中学校の代用教員や商業学校の英語教師として教鞭をとった時期があり、社会人としてのスタートは教師であった。こうした経歴もあって実業界に転身したあとも教育に対する情熱を持ち続け、第1章でも記したように東横商業女学校の設立を手始めに教育事業に注力、戦後当社に復帰したあとは「残りの人生は教育に重点を置く」とまで語っていた。

また戦後の荒廃から立ち直ろうとしていた日本に精神的な豊かさをもたらすべく、文化事業にも目を向けた。今に受け継がれる育英・文化事業の数々は、こうして1950年代末期にかけて産み落とされるのである。

〈教育事業〉

戦後、五島慶太の教育事業に対する情熱は学校法人の設立へと結びついていく。その契機となったのは、学校法人武蔵工業学園(1953年に学校法人武蔵工業大学に改名)の西村有作理事長から同法人の理事長就任を要請されたのが始まりである。

武蔵工業大学

同法人は1929(昭和4)年の武蔵高等工科学校開校をはじめとし、1949年開校の武蔵工業大学、1951年開校の武蔵工業学園高等学校(1953年に武蔵工業大学付属高等学校に改名)を経営していた。しかし、西村理事長自身の健康上の理由から法人経営の継承者を求めており、友人から推薦された五島慶太と面談のうえで適任者と確信。1954年11月、学校法人武蔵工業大学の理事長に五島慶太が就任したのであった。

このあと当社は、幼稚園から大学に至るまでの一貫教育を実施する総合学園の発足を企画し、学校法人武蔵工業大学を母体に、戦前に創立した学校法人東横学園(1951年に財団法人から学校法人に改組)を統合して、1955年6月に学校法人五島育英会を設立、五島慶太が理事長に就任した。そして当社線沿線で幼稚園や学校を経営していた学校法人2法人を引き受け、1956年9月までに、東横学園は幼稚園から短期大学まで、武蔵工業大学は中学から大学まで、それぞれ一貫教育体制を整えるに至った。

図2-1-3 学校法人五島育英会組織図(1970年ごろ)
注:社内資料をもとに作成

さらに元文部大臣の太田耕造が理事長を務めていた学校法人亜細亜学園から経営支援が求められ、1956年7月に五島育英会との提携が決定した。そして同年8月、理事長に五島慶太が就任して経営面を引き受け太田耕造は同法人が設置していた亜細亜大学および日本経済短期大学の学長に専念することとなった。これにより亜細亜学園は五島育英会の支援を受けながら学校運営を進めることとなった。

亜細亜大学正門

また自動車交通の発展に呼応して、運転技術や整備技術の向上を図るため、1955年2月に学校法人東急自動車学校を設立した。校舎は多摩川園の隣接地に、運転実習用のコースは多摩川対岸の河川敷内「多摩川スピードウェイ」の跡地に設け、同年4月開校した。1957年3月には、東京都陸運局長から旅客自動車運送事業用運転者の教習所に指定を受けて、バス・タクシー運転手の養成を開始した。当該地での営業は1968年まで続き、その後二子玉川へ移転、2000年代の同地での再開発により現在は唐木田(東京都多摩市)に再移転することとなる。

図2-1-4 東急自動車学校位置図
出典:「東急グラフ19号」1957年1月
開校時の東急自動車学校

〈文化事業〉

東急文化会館(後述)最上階の天文博物館五島プラネタリウムは、東京プラネタリウム設立促進懇話会からの要請に応えて建設した施設である。

日本では1937年から1938年にかけて大阪と東京にプラネタリウムが開設されたが、東京の施設は戦災で焼失してしまった。そこで茅誠司(日本学術会議会長)、萩原雄祐(東京天文台長)、岡田要(上野科学博物館長)らが中心となって東京プラネタリウム設立促進懇話会が結成され、青少年の科学教育の普及のため、プラネタリウムの復活を各方面に働きかけていた。同懇話会から当社に協力を求める書簡が送られてきたのは、1955年9月6日のことであった。

東急文化会館の工事はすでに同年8月22日に着手していたが、文化会館の名にふさわしい施設であるとして要請を受け入れ、急きょ設計変更を行った。屋上ドーム内側のスクリーンに天空の星空を映写する投影機は西ドイツのカール・ツァイス社製で、1957年4月から一般公開を開始。天文学に関心を抱く青少年や研究者たちに長く親しまれる施設となった。なお、1956年11月からは財団法人天文博物館五島プラネタリウムを設立、運営することとした。

五島プラネタリウムの初投影を観る関係者

1949年4月には、1948年の「大東急の再編成」を記念する事業として、当社のほか小田急電鉄、京浜急行電鉄、京王帝都電鉄、東横百貨店の出捐をもって、財団法人大東急再編成記念図書館を設立した。1948年の当時五島慶太が、久原文庫の古典籍を一括購入するところであったことから、これを所蔵管理し公開する大東急再編成記念図書館の創設を提案。さらに追加で購入した井上通泰文庫も加蔵して発足した。

当社が同図書館の運営を担ったが、設立後の数年間は戦後の輸送力復興に尽力したため、人員や資金を割く余裕がなかった。しかし、所定の復興を果たしたのち、1954年5月に財団法人大東急記念図書館、同年8月には財団法人大東急記念文庫と名を改めて、所蔵品の点検整理や分類目録作成などの活動を開始。上目黒の東急不動産所有地を譲り受け、書庫、閲覧室、事務所を設け、1955年3月から一般公開した。

目黒区上目黒(大橋)に設けられた大東急記念文庫

また、五島美術館(世田谷区上野毛)は、五島慶太が蒐集(しゅうしゅう)したコレクションをもとに生まれた美術館である。

五島慶太は戦前、参宮急行電鉄(現、近畿日本鉄道)の取締役、大阪電気軌道(現、近畿日本鉄道)の監査役など関西圏の鉄道経営に参画していたことから、会議出席の際などに京都や奈良などに点在する古寺や名刹に足を運び、古写経などへの造詣を深めていった。そして自身が喜寿を迎える記念に、蒐集した日本や東洋の古美術を中心とする貴重な美術品を永久に保存し、一般の鑑賞用に提供することを当社に申し出た。

これを受けて当社は1958年3月に美術館設立準備委員会を設置、開館に向けてさらなる収蔵品の充実を図るため、国宝「源氏物語絵巻」など髙梨仁三郎のコレクション、守屋孝蔵の古鏡コレクションも購入した。

1959年3月、五島慶太邸の庭園の一部の寄贈を受けて建設に着手、11月には財団法人五島美術館が設立され五島昇が初代理事長に就任、翌1960年4月に開館した。後述するように五島慶太は1959年8月14日に死去し、その完成を見ることはなかった。その後、新たな美術品の寄贈や取得等があり、現在の収蔵品数は国宝5件、重要文化財50件を含む約5000件にのぼっている。

五島美術館の竣工式(1960年4月18日)

なお、同美術館の開館に併せて、大東急記念文庫をここに移設した。大東急記念文庫の収蔵品数は国宝3件、重要文化財33件を含む約2万5000冊である。同文庫が収蔵する古典籍は学術研究者を対象として閲覧に供されている。

2011(平成23)年には、財団法人五島美術館と財団法人大東急記念文庫が合併、2012年からは公益財団法人五島美術館として、五島美術館の展示事業、調査・研究・保存事業、普及事業、大東急記念文庫の閲覧事業、調査・研究・保存事業を柱とする公益目的事業を推進し、文化・芸術の発信を通した社会貢献活動を継続している。

2-1-2-9[コラム] 多摩川スピードウェイ

前章で触れたように、東京横浜電鉄は輸送需要開拓を目的に多くの施設を設けたが、その一つに「多摩川スピードウェイ」がある。多摩川スピードウェイは1936(昭和11)年10月、東横線多摩川橋梁の川崎側上流の河川敷に設置された自動車・オートバイ・自転車の競走場である。1周1200mのコースは当時「東洋一」とも称された長さで、3万人の収容が可能なスタンドも併設された。この場所では多くのレースが開催されたほか、1951年には多摩川園と多摩川スピードウェイを会場に国内外の航空会社・メーカーやGHQも協力した航空科学フェアを開催した。しかしほどなくしてその役割を終え、東急自動車学校の練習場という別の形で、モータリゼーションの発展に貢献していくこととなった。

多摩川スピードウェイで開催されたバイクレース
航空科学フェア入口ゲート
多摩川スピードウェイはオリンピアスピードウェイとも呼ばれた。奥の橋梁が東横線多摩川橋梁

東急100年史トップへ