第2章 第2節 第2項 渋谷駅周辺の立体的な開発へ

2-2-2-1 東急文化会館の建設

渋谷駅周辺は前述のように復興を遂げてきたが、依然として課題も指摘されていた。それは、銀座や新宿、池袋と比べて人々の滞留時間が非常に短く、単なる乗換駅として賑わっているにすぎないという調査結果(※)によるものであった。

渋谷の繁華街は、駅西側の道玄坂と駅東側の宮益坂の谷間周辺に限られ、しかも渋谷川と山手線で東西に分断されていたため、東西の一体感に欠けていた。当時の町並みを記録した写真も、大半は道玄坂方面にレンズが向けられたものであるのは、道玄坂方面に比べて宮益坂方面の発展が遅れていたからでもある。

当社にとって本拠地である渋谷の発展は重要なテーマであり、ここが乗り換えの通過点として利用されるだけでなく、訪れる人々がそれぞれ多様な動機で有意義な時間を過ごせるよう街づくりの一端を担うことが必要であった。その具体策として着手したのが、東急文化会館の建設と渋谷地下街の建設である。

それは、地上ビルを建設して相互に連結し、さらに地下を開発して、渋谷を立体的に開発することで発展を導こうとする試みであった。さらに東西を跨道橋で結んで回遊性を高め、谷底という地形的な不利を克服しようとする試みでもあった。こうした考え方は、当社が100周年を迎えた現在の渋谷開発にも通底している。

さて東急文化会館は、第一マーケット跡地の換地によって取得した社有地を活用して、最先端の文化を渋谷に集め、娯楽の殿堂ともいうべきシンボリックな施設とするべく計画された。当初の計画では、当時の建築基準法の制限である高さ31m以内の8階建てであったが、前述のようにプラネタリウムの開設が決定したことから急きょ設計を変更し、屋上に突き出る形でドーム部を設けたため、高さ43mのビルとなった。東急会館と同様に東京都建築審査会による審議がなされ、プラネタリウムの文化的意義が認められて許可されたものである。

館内は、プラネタリウムのほか、最新のロードショー封切作品から名作映画、ニュース映画など多彩なラインアップを上映する映画館4館、結婚式場や宴会場を擁するゴールデンホール、東京田中千代服装学園、老舗雑貨店が集まる特選街、各種飲食店が集まる食堂街、大型の美容院や理髪店などで構成された。

着工は1955(昭和30)年8月のことで、1956年11月末に竣工を迎えて、12月から営業を開始した。天文博物館五島プラネタリウム(1957年4月開館)は、地方から上京する修学旅行の行程に組み入れられるなど当初から盛況となり、またロードショー映画館の渋谷パンテオンは映画ファンから長く親しまれる映画館となった。

工事中の東急文化会館

また営団地下鉄銀座線の橋梁に沿うように、明治通りをまたぐ跨道橋(渋谷駅東口一般通路橋)を設けた。この跨道橋は、東急文化会館と東横百貨店東館を連絡する、幅員8m長さ95mの歩行者専用の通路で、東急会館と同時に建設した。山手線上部の跨線橋と共に、渋谷駅の東西を結ぶ架け橋となった。この跨道橋は、民間企業が公道上に建設する初めての施設であったため、道路法や建築基準法上における問題点も指摘されたが、結局、一般通行人に非常な利便を与えるという公共性が認められた。

なお東急文化会館は、1956年設立の株式会社東急文化会館が当社から建物全体を借り受けて運営することとなった。同社は映画館4館を直接経営し、その他の部分は、当時は東横百貨店の子会社で現在の東急ストアの起源にあたる東横興業(1956年設立、戦前に当社が設立した同名の会社とは別法人、詳細は後述)に転貸し、同社がゴールデンホールなどの経営や入居施設の管理運営を行った。

  • 元渋谷区長で戦後は都市社会学研究者として知られ、渋谷再開発促進協議会(1964年設立、渋谷再開発協会の前身)にも関与した磯村英一東京都立大学教授が、1954年9月に調査を実施した。渋谷を訪れる人々の滞留時間はわずかに5分、銀座の45分、新宿および池袋の15分に大きく水をあけられており、街中への人の流れが少ないという実態が浮き彫りとなっていた。

2-2-2-2 渋谷地下街の建設

1949(昭和24)年、GHQの方針により露店撤去令が出され、戦後特有の商業形態であったヤミ市は徐々に姿を消していった。東京都内では銀座、新宿、上野などで露天商を代替地に移転させる策が講じられたが、渋谷では周辺に適当な代替地がないため、400軒以上ともされる露天商の半分を整理できたにすぎなかった。

このため東京都建設局が、渋谷の西口側に地下街を建設して露天商をここに移転させると共に、歩行者を地下に誘導することを計画した。この地下街建設を民間に委託することとし、渋谷の露天商を束ねる団体に話を持ちかけたが、建設資金などの問題から、この団体には荷が重い話であったため当社に依頼があった。当社は都市計画にかかわる3つの条件をつけて、これを引き受けることとした。

その条件とは、①渋谷駅周辺の区画整理を完成させて地下街建設ができる環境を整えること、②地下街建設予定地の上部、東急会館の前に建っている3階建ての被災ビル(旧山一ビル)を撤去すること、③西口広場と東口広場の2か所に分かれていた都電停留場を東口に一本化すること、であった。これらの条件が整ったのは、1956年1月から翌1957年3月にかけてのことであった。

図2-2-2 渋谷地下街平面図および工事区域図
出典:『東京急行電鉄50年史』

この間、当社では臨時建設部で渋谷地下街の建設に向けた検討を進めてきたが、株式会社渋谷地下街を1953年12月に設立、同社が建設工事、管理運営を行うこととなった。前述の条件が徐々に整い始めたことから、同社は1956年9月に建設に着手、1957年11月に竣工した。

完成した地下街は総面積4450㎡で、出入り口は4か所が設けられた。露天商から移行した63店舗と、東光ストアの食品売り場が開業した。

竣工当日の渋谷地下街入口(1957年11月)

渋谷地下街の建設は、単なる露天商の整理だけでなく、区画整理事業の促進や都電停留場の再配置など、渋谷の街の利便性向上に大きく寄与することとなった。全国でも先駆的な取り組みとして、のちの横浜駅西口、東京駅八重洲口など地下商店街建設のモデルケースとなった。

東急100年史トップへ