第2章 第3節 第1項 「城西南地区開発趣意書」の発表

2-3-1-1 田園都市事業の復活

戦中から戦後にかけて、当社の田園都市事業は極めて低調に推移していた。不動産売買の価格統制にかかわる宅地建物等価格統制令(1940<昭和15>年勅令)の影響を受けつつも土地買収や分譲は行っていたが、戦中は不動産需要そのものが低迷し、戦争末期には売れ残り地が農地に転用された。戦後はこの転用農地が買い上げ対象となったほか、「大東急の再編成」に伴って事業範囲も狭まり、1946年に鵠沼と西大崎で小規模な分譲地の販売を行ったが、はかばかしい進展はなかったのである。

1951年8月、当社に復帰した五島慶太は、復帰時のあいさつにおいて事業分野や事業地域の拡大を志向した。その内の一つが、田園都市事業の復活であった。当時の当社は交通事業に大半を依存しており、大東急時代に比べ大幅に路線を縮小していたにもかかわらず、1950年度は鉄軌道と自動車を合わせて収入の97%を占めていた。こうした現状からの脱却を図ろうとしたのである。

これについて、さらに踏み込んだ構想を述べたのは1951年度下期賞与授与式である。

田園都市業でありますが、これは田園都市株式会社から目蒲電鉄、東横電鉄というものが生まれた次第で、当社の古い暖簾であり、田園都市業が東急か、東急が田園都市業かと思われておったほど重要であったのでありますが、最近は積極的な名案なきためまったく沈滞しております。これも六ヶ月間かかって五十八万円の利益しか挙げておりません。利息を負担すればむろん赤字であります。(中略)そこで私は、この田園都市業と砂利業につきましても現在の不振を挽回して是非共昔のような姿にして頂き度いということを係の方にはお願いしておきますが、これについても社員全部が協力して昔の田園都市業、昔の砂利業をここに復元することに御協力願います。(『清和』1952年6月号)

このように五島慶太は、田園都市事業は当社の重要な事業であること、そして現在の不振を挽回して昔の田園都市事業の復元することを呼びかけたのである。

図2-3-1 城西南新都市位置図(黄緑のエリア)
注:『清和』1971年8月号をもとに作成
※この位置図は当初計画図のものであり、1961年に開発対象地域の変更を行っている。それについては第3章で後述する

折しも、東京の区部では再び人口膨張の途上にあった。戦後、東京への過度の人口集中に伴う住宅や食糧事情の悪化などに対処するため、都会地転入抑制緊急措置令が出され、東京では区部への転入が制限されていた。しかし1949年にこれが解除されると人口流入が急増し始め、東京都の人口は1945年から7年間で倍増して、1952年には684万人へと膨れ上がった。なかでも住宅不足は深刻の度を増していた。

五島慶太が田園都市事業の復活に向けた新天地として着目したのは、東横線と小田急線、国鉄の南武線と横浜線に囲まれた多摩川西南部一帯、中央部を大山街道(のちの二級国道東京沼津線、現在の国道246号の原型)が貫いていた地域である。この地域は都心から15〜35kmの近距離にありながら、交通手段はわずかに当社と横浜市営のバスが少ない本数を運行しているだけで、発展から取り残されていた。

当社では古くから宮前地区(川崎市)および中川・山内・中里・田奈・新治地区(以上、当時横浜市港北区)と呼ばれていた地区を総じて「城西南地区」と呼称した。1953年1月10日に発足した臨時建設部のなかに城西南地区開発班を設置し、そして直後の同月19日、計画地域内の土地所有者に協力を要請するため、関係者らを招いて五島慶太会長自ら開発趣旨と構想を発表した。これを記述したものが、「城西南地区開発趣意書(※)」である。

城西南地区開発趣意書

その全文は『多摩田園都市 開発35年の記録』(1988年刊)に記されているが、大要は次の通りであった。

  • 東京の人口膨張が著しく数々の弊害が今後も予想される
  • 同様の問題を抱えていたロンドンやニューヨークでは郊外に第二の都市を造って模範的な田園都市を形成した
  • 東京の郊外では多摩川西南部、大山街道沿いの広大な未開発地域が第二の都市にふさわしい地域である
  • 当社として大規模な開発に取り組む考えであるから皆さんの協力を賜りたい

この発表では、開発地と都心を結ぶ交通幹線について、高速道路を筆頭に挙げ、腹案として鉄道を挙げた(詳細は後述)。これがのちの「多摩田園都市」の開発の第一歩である。

  • 五島慶太は太平洋戦争以前の1937年から1938年ごろにかけて、自身の療養も兼ねて、当時住んでいた代官山から静かな郊外への転居を考え、のちに「城西南地区開発趣意書」で開発対象とする地をたびたび訪れていた。当時の秘書によれば、このころから同地の大規模な開発について構想を温めていたとされ、これに戦後の東京の人口膨張や住宅不足、交通事業に依存した当社経営を転換する必要性などが相まって、「城西南地区開発趣意書」の発表に至った。

2-3-1-2 開発委員会方式で土地買収に着手

「城西南地区開発趣意書」において五島慶太は、対象地区「約400〜500万坪」を買収する意向を表明していた。発表後、当社の城西南地区開発班は各地区の内最も溝ノ口に近い宮前地区を訪ねて、地元開発委員会の結成を働きかけた。

当社構想に賛同する地元有力者を中心に開発委員会を組織し、開発委員会が土地所有者に土地譲渡の承諾を働きかけ、承諾面積が計画の7〜8割に達した時点で当社が土地所有者と買収単価などを決定し、段階的に買収代金を支払うという方式で進めることにしたのである。地元の開発委員会に土地買収のとりまとめ役を担ってもらうことで、早期に広大な面積を買収できる点に特徴があった。

1953(昭和28)年3月に宮前地区において「宮前開発実行委員会」が結成され、同年末までには70万3200㎡の土地売買契約を締結。当初の買収計画(宮前地区で50万坪=165万㎡買収)完遂をめざして現地に連絡事務所を開設し、連絡員を常駐させて業務の進捗を図った。

宮前開発事務所
出典:『多摩田園都市 開発35年の記録』

同地区での土地買収は順調とも思われたが、1954年5月以降は計画がたびたび滞る事態に遭遇した。一つには、戦後の農地改革により政府から払い下げられた旧軍用地の未墾地について、政府売り渡し後8年間は売買できないと定めた農地法(1952年4月制定)に抵触する土地が含まれていたからであった。当社は当局に規制緩和を要請して交渉にあたったが、とくに戦後は農地の宅地化に厳しい目が向けられた時代で、農林省は頑として譲らなかった。

この間に、当社の買収計画に端を発する地価の上昇があったほか、買収計画の遅延に伴って契約の関係で残代金の支払いができない状態も発生し、不満を抱いた土地所有者が団結して、当社本社ビル玄関前で座り込みを行う事態もあった。契約内容の見直しなどにより、ようやく解決を見たのは1958年のことであった。こうしているうちに、前述の未墾地にかかわる法定期間が経過したことなどから、宮前地区の土地買収は再び軌道に乗った。

地元地権者との話し合い

宮前地区の土地買収と並行して、荏田や田奈地区でも土地買収が進み、1958年までの6年間で合計390万㎡の土地を買収することができた。

2-3-1-3 計画の具体化示す「多摩川西南新都市計画」策定

1955(昭和30)年、当社はもう一つの難問に直面することとなった。それは、東京都が検討していた新たな都市整備の構想において、市街地の膨張を断ち切るための緑地中心の地帯(グリーンベルト)が設定されたことである。

この東京都の構想は翌1956年4月に「首都圏整備法」として立法化されるが、その特徴は、区部に限定していた従来の首都建設法(1950年施行)とは異なり、周辺地域を含めた広範な区域を対象とした点にあった。基本方針として示されたのが、首都圏を下記の3つに区分し、それに応じた各種整備を行うというものであった。

  1. 既成市街地(東京都を中心におおむね15kmの範囲)
  2. 近郊地帯(既成市街地の外周で、15〜25kmの範囲)
  3. 外圏の周辺地域(近郊地帯の外側で、都心から25〜70kmの範囲)

この内2がグリーンベルトと呼ばれる地帯で、宅地開発を抑制する狙いがあった。当社の開発予定地の大半がグリーンベルトの範囲に含まれていたため、当社は開発予定地が市街地開発地域または市街地許容区域として指定されない限り、開発計画を推進できない状況に追い込まれたのであった。

多摩川西南新都市計画
出典:『多摩田園都市 開発35年の記録』

当社は事態の打開のため、都市計画や道路の専門家を招聘し、その手法や都市経営に関する助言を得ながら基本構想を練り上げ、1956年7月にマスタープランとなる「多摩川西南新都市計画」を策定した。その概要は以下のようなものであった。
〈基本方針〉

  1. 城西南地区を4つのブロックに分け、収容人口最大7万人程度の新都市を4か所建設し、各新都市が相互に連続することを防ぐためそれぞれの周囲を緑地で囲う
  2. 人口密度は1平方キロメートルあたり7500人程度を標準とする
  3. 都市ブロックの選定にあたっては、鶴見川流域の優良農地を避けて、丘陵地帯に求める

〈市街化計画区域〉

計画区域の総面積は4445.7ha、内1925.3haを当社が経営する市街化区域とし、4ブロックの配置は別揭図の通りで、おのおのの行政区分は以下の通りである。
第1ブロック…川崎市
第2ブロック…横浜市港北区の元石川町、荏田町など
第3ブロック…横浜市港北区の東方町、池辺町、佐江戸町など
第4ブロック…横浜市港北区の恩田町、長津田町など

このほか、交通計画、用地種別計画などについても詳細を記した。合計4ブロックの1955年6月末現在の人口は4万3720人で、最終的には33万1000人を収容人口とした。

図2-3-2 「多摩川西南新都市計画」策定時の土地利用計画図
出典:『多摩田園都市 開発35年の記録』
注:第1~第4ブロック(Ⅰ~Ⅳ)がゾーニングされている
※この位置図は当初計画図のものであり、1961年に開発対象地域とゾーニングの変更を行っている。それについては第3章で後述する

この「多摩川西南新都市計画」は1956年8月に開催された東京都の第1回首都圏整備委員会に提出されたほか、建設省や農林省、関連自治体(神奈川県、横浜市、川崎市)への陳情にも資料として使われた。当初の反応は必ずしも芳しいものではなかったが、周辺自治体や農家からも同様にグリーンベルト設定に反対する声が出てきていることが、「多摩川西南新都市計画」を掲げる当社にとって追い風となり始めた。

それは、横浜市や川崎市などではグリーンベルトが設定されることにより、工場の新増設が阻まれるうえに、住宅用地に適した農地や山林の開発が不可能となり、独立都市としての機能がそこなわれるとの認識が生まれたからである。また農家にとっても、農地を手放さざるを得なくなった際に、正当な地価で売れなくなる懸念があった。

こうして各所からグリーンベルト除外を求める声が上がり始めたことから、1959年9月以降、首都圏整備委員会から「駅からおおむね1km以内を市街地許容区域とする」考えが示されるようになり、結果的には近郊地帯(グリーンベルト)の指定が行われないまま首都圏整備法は、やがて1965年の大改正を迎えることとなるのである。

2-3-1-4 野川第一地区での先行事例づくり

当社は開発計画を練り上げる過程において、土地買収による社有地化を前提として開発を推進するという従来の考え方を改め、1955(昭和30)年に施行された土地区画整理法を活用して、地元と共同で開発を推進していくこととした。そして1956年策定の「多摩川西南新都市計画」では、市街地建設の進め方について「土地区画整理法により行う」と明示した。

最も大きな違いは、かつて渋沢栄一が発案した田園都市のように対象地域を当社がすべて買収して開発を進めるのではなく、土地所有者の所有権を有したまま、地元と当社が歩調を合わせて市街地形成を進める点にある。

これまで宮前地区を手始めに土地買収を進めて一定の成果は収めてきたものの、買収地のなかには農地法の規制により所有権移転登記ができない農地があり、また開発委員会による土地取りまとめにもかかわらず、指定区域内外に買収地が点在する結果ともなっており、一括して利用できない状態になっていたことが方針転換の動機となった。

土地の基盤整備に適用される法律には、農林省が所管する土地改良法と建設省が所管する土地区画整理法があった。当社の開発推進にあたっては両省から当該法律に基づいて実施するよう求められていたが、農耕地の整備改善を主目的とする土地改良法よりも、健全な市街地形成を主目的とする土地区画整理法に基づく事業、すなわち土地区画整理事業の方が当社の考え方と親和性が高いため、これを活用することとした。

土地区画整理事業とは、区域内の土地所有者が土地区画整理組合を組織して事業主体となり、おのおのの所有地から公平に減歩した面積分を公共用地(道路・公園など)や保留地に充当し、保留地の売却により事業資金を生み出して開発を進める手法である。事業資金を融資で調達して区画整理を行い、完成後に保留地を売却して借入金の返済に充てるのが一般的であった。

当社が計画する城西南地区の開発においては、当社が保留地を一括取得することを条件に事業資金を提供し、組合業務のすべてを代行する、いわゆる「業務一括代行方式」で進めることにした。

この方式は、たとえ当社が法律上の事業主体になり得ないにしても、多摩川西南新都市の発案者ないしは提案者である当社が開発を主導する立場を保持し、新都市の整備に向けて責任ある立場にあることを明らかにすると共に、組合の実務的な負担を軽減することとした。国内における区画整理事業では先駆的なスキームであり、のちに「東急方式」とも呼ばれた。

さて当社では最初の「城西南地区開発趣意書」発表から4年近くが経過するなか、さらに土地所有者の協力を得るためには、実際に土地区画整理事業を実施して、その成果を知ってもらうことが必要だと考えるに至った。

そこで、第1ブロックのなかから野川第一地区(川崎市)をモデル地区に選び、地区内の土地所有者に働きかけて、1957年4月、野川第一土地区画整理組合設立発起人会が発足した。

野川第一地区を選んだのは、起伏の少ない畑地であり、地区面積22万1067㎡の内約6割にあたる約14万㎡を当社社有地が占めていたため、土地権利者は多いものの、他地区に比べて事業の推進が容易と考えられたからである。

図2-3-3 多摩田園都市における野川第一地区(第1ブロック)の位置関係
注:『多摩田園都市 開発35年の記録』をもとに作成
※この位置図は当初計画図のものであり、1961年に開発対象地域の変更を行っている。それについては第3章で後述する
区画整理が終わった野川第一地区

発起人会が発足したものの、一部の地元地権者が組合設立に不同意を訴えたほか、前述のグリーンベルト問題が解決していない段階での川崎市や神奈川県側の逡巡などもあって、組合設立に至るか否か先の見えない時期があった。しかし最終的には地元の強い要望が後ろ盾となって、1959年5月、野川第一土地区画整理組合の設立が認可された。

同年6月に野川第一土地区画整理組合と当社の間で事業代行契約を締結。組合と当社の共催で起工式が行われ、2年後の完成をめざすこととなった。

なおこれと並行して第3ブロックの恩田第一地区(現、横浜市青葉区)でも土地区画整理組合の発足を働きかけた。同地区も当社社有地の割合が高く、面積が比較的小さい地区であった。こうして着手しやすい地区から事業を進め、成功事例を先行的に示したことが、のちのちの各地区の開発推進の後押しとなった。

野川第一地区で説明を受ける地元の方々
出典:『多摩田園都市 開発35年の記録』

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