第2章 第2節 第1項 戦前の活気取り戻す渋谷

2-2-1-1 戦後復興と第一マーケット

1945(昭和20)年5月の空襲により、渋谷の市街地は木造建築物が焼け落ちてがれきの山となり、国鉄渋谷駅のホームから道玄坂までが見渡せるほどの惨状だったと伝えられる。終戦後はハチ公前広場から道玄坂方面にかけてヤミ市と呼ばれる露店群が並び始め、物資不足や空腹を抱える人々が群れをなした。

終戦直後の渋谷駅前広場のヤミ市(後方が道玄坂と栄通り)

一方渋谷駅の東側、現在の東口バスターミナルのあたりには、約70軒のバラックが軒を並べる第一マーケットと呼ばれる商業集積地があった。この場所にはもともと渋谷国民学校(旧渋谷小学校)があったが、戦中の1943年に美竹町に移転したため、当社はその敷地の大部分と建物を東京都から譲り受け、本社事務所の分室として利用していた。1945年5月の空襲で全焼したのち、ここがハチ公前広場のようにヤミ市で占拠されるのを防ぐため、地元有力者に土地の管理を任せたところ、第一マーケットが形成されてしまったのである。当社が意図したものではなかった。

取り壊し途中の渋谷第一マーケット 左は営団地下鉄銀座線

その後、東京都の戦災復興都市計画に基づく区画整理事業で環状5号(明治通り)が拡幅されることとなり、1952年12月、当社に対して第一マーケットの立ち退きが命ぜられた。このため当社は臨時建設部内に第一マーケット処理班を設けて交渉を進めたが、占有店70店の内30店は代替地を求めて立ち退かず、当社はやむを得ず渋谷区栄通1丁目に約825㎡の土地を購入して木造の店舗を建て、1955年6月までに移転させた。

この区画整理事業により、国民学校跡地や東横百貨店所有地など合計7107㎡が道路用地となり、その換地に隣接地5095㎡が指定された。これがのちに東急文化会館の建設用地となるのである。

2-2-1-2 渋谷駅の改良工事

渋谷駅の改良工事は、戦前からの懸案事項であった。1927(昭和2)年の東横線開通時は幅員8mの島式ホーム1面2線で、玉川電気鉄道天現寺線を架道橋で渡った先の1階に出改札所を設けていた。その後、東横百貨店の建設と並行して、コンコースの拡張と出改札所の2階への移転を行い、急行列車の運転に備えて島式ホームの南側先端に幅員4mの木造降車場を増設して急場をしのいだ。

だが乗客数や列車本数の増加によって混雑時には乗降場に人があふれる状態となり、列車運行にも支障を来すようになった。そこで1941年、ホームの拡張と渋谷駅構内の線路の急曲線を緩和する改良工事に着手したが、戦局の推移に伴って運輸通信省から工事中止が勧告されたままで終戦を迎えた。

「大東急の再編成」直後、この改良工事を再開するべく工事施行認可申請を行い、1949年4月に着工した。工事の概要は、渋谷川沿いに幅員11.95mの鉄筋コンクリート造の高架ホームを新設し、従来の1面2線3乗降場を3面3線5乗降場にし、加えて荷物取扱ホームを別に設けるもので、1950年8月に第1期工事が完了。これにより列車の発着がスムーズになったため、東横線の急行運転が10年ぶりに再開された。列車の高速化に備えてレールの重軌条化や電車線電圧の昇圧を行ったのも同時期である。

第2期工事として、改札口から東横百貨店1階コンコースに通じる階段の拡幅と、帝都高速度交通営団(以下、営団地下鉄)銀座線への連絡階段の移設は1951年10月に完了した。

東横線渋谷駅ホーム(1951年)

これらの改良工事によって渋谷駅は大きく変貌を遂げ、戦後の渋谷駅復興は一段落を迎えた。1961年には列車の長大編成化などに備えた改良工事を再び行うこととなるが、2010年代に地下鉄との直通運転をめざして地下化されるまでの渋谷駅の骨格は、この時期の改良工事によって形成されたといえる。

図2-2-1 渋谷駅変遷図
注:『東急の駅今昔・昭和の面影-80余年に存在した120駅を徹底紹介』
(著者:宮田道一/出版:JTBパブリッシング)をもとに作成

2-2-1-3 渋谷区桜丘町に本社新社屋を建設

当社の本社事務所は戦中から終戦時にかけて転々とし、「大東急の再編成」直後の1948(昭和23)年8月の時点では主に東横百貨店の6階と7階を執務に使用していた。関連会社として分離した東横百貨店の発展を思えば、この2フロアを返還しなければならず、当社の業績もようやく回復の見込みが立ってきたことから、本社新社屋を建設することになった。

本社新築の場所と定めたのは現在のセルリアンタワー付近で、当時の住所表示は大和田町98番地(1970年の住所表示変更で桜丘町26-20)である。同地は、戦前に社員用クラブハウスの清和会館を建て、周辺隣接地も買い増しして合計で約7600㎡の社有地を有していた。東京都の戦災復興都市計画による区画整理事業で社有地の減歩を余儀なくされ4340㎡が残されたが、代わりに幅員50mの放射22号道路(国道246号)に面することとなった。そこで今後の発展を期して、ここに本社を建設することを決定したのである。

なお予定地には第一マーケット跡地も候補に上がっていたが、前述の通り立ち退き問題が膠着していたことに加え、区画整理後に更地として換地される時期もまったく見通しが立たなかったため、この代案は採用されなかった。

新社屋の概要は地上3階・地下一部1階の鉄筋コンクリート造で建坪1165坪。工事施工は清水建設が担当し1950年6月に着工、同年10月には早くも竣工を迎え、工期はわずか3か月半であった。3階建て(1957年に4階建てに増築)ではあったが、高台に建つ白亜のビルとあって、7階建ての東横百貨店に次いで、渋谷駅界隈では目立つ建物であった。

完成直後の当社本社(裏手より望む)

2-2-1-4 東急会館の竣工で東横百貨店渋谷本店へ

渋谷にかかわる戦前戦中からの持ち越し課題の内、最後に着手したのが東急会館(のちの東急百貨店東横店西館)の建設である。

前身の玉電ビルは、地上7階・地下2階の計画で建設に着手したものの、戦中に資材の統制を受けて地上部は4階建てに据え置かれていた。東横百貨店(東館)などと共に戦災に遭って、しばらくは焼け跡となっていたが、東横百貨店を分離した1948(昭和23)年には玉電ビル1階と地下1階に売場を設けていた。

なお、東横百貨店と玉電ビルの間を子ども向けのロープウェイ「ひばり号」が架設運転されたのもこの時期であるが、詳細は史料が散逸しておりわかっていない。運転期間は玉電ビルの改築までの2年ほどだったようである。

当社は1951年にビルの名称を玉電ビルから東急会館と改めて計画を具体化し、前述の東急病院設置と同じく創立30周年記念事業と位置づけ、1953年に発足した臨時建設部により建設を進めることとした。同ビルは可燃部が燃えたとはいえ構造はおおむね堅牢であったことから、既存建物に増築して地下2階地上11階、軒高は43mとし、既設の東横百貨店(東館)と5〜7階部分を連絡する跨線廊を山手線頭上に構築する計画をまとめた。

当時の建築基準法で建築物の高さは31mに制限されていたため、当社の計画は東京都の建築審査会で審議されたが、最終的には、渋谷駅周辺の区画整理事業が完成したあとは、東急会館の周囲に相当の広場ができること、建物が公共的施設であることが認められて許可された。

跨線廊については、国鉄線の上部に百貨店などの商業施設が建設された前例がなかったが、山手線の上部にあたる3階にはすでに営団地下鉄銀座線渋谷駅があるため、銀座線渋谷駅の上に跨線廊を建設するというという解釈で国鉄の承認が得られた。同時に国鉄との協議により、3階部分には各線ターミナルに連絡する旅客跨線橋を架設することとなった。

異例ずくめの建設工事は、1953年10月に着工となった。とくに山手線をまたぐ部分の工事については、深夜に2回、合計1時間半弱しか作業できないという厳しい条件であったが、跨線廊がまず1954年10月に完成し、続いて東急会館が同年11月に完成。同月に東横百貨店西館に営業を開始した(のちに既設の東館と合わせて渋谷本店と呼称)。

建設中の東急会館(のちの東急百貨店東横店西館)

東急会館のフロア構成は1階が総合駅出入口、2階に国鉄山手線、玉川線、京王帝都井の頭線のコンコース、3階は地下鉄銀座線のコンコースとして各線の連絡を図り、地下1階と、1階、3階、4階の各一部、5階〜7階に東横百貨店の売場、8階に食堂、そして9階~11階に東横ホール(座席数1002)を設けた。ホール内に鉄道の騒音や振動が伝わらないようさまざまな工夫を凝らしたのも特徴である。

東急会館の完成により東横百貨店渋谷本店の売場面積は、従来の2万5637㎡から3万9870㎡となり、戦前に玉川電気鉄道を買収する際に五島慶太が構想した「1万坪規模」が実現した。売場面積の拡大が功を奏して、わずか1か月ではあったが、1955年8月の単月売上高で三越本店を初めて上回った。

2-2-1-5[コラム]東横のれん街

東横のれん街は、日本で初めての名店街として1951(昭和26)年10月27日、東横百貨店1階に誕生した。開業時は15店舗で、銀座などに所在する老舗や人気の店を一堂に集め、都心に出かけなくても渋谷に行けばたちどころに銘品銘菓が手に入る、という触れ込みで、東急線沿線の生活者やターミナルを行き交う人々の買い物心に訴えかけたものであった。今でこそ各百貨店などでこうした売場が見られるが、当時としては前例がなく斬新な試みであり、この東横のれん街の成功を受けて、その後各地で名店街が作られることになった。のちに食料品分野に強みを見出していく東急百貨店の原点ともいえる。ターミナルデパートでの出店は、専門店にとっても販路拡大のチャンスであり、行き来する顧客の機微を捉えた接客が求められることから、東横のれん街の店長を経験することは人材教育上の登竜門にもなったという(出店した専門店の関係者)。

2010年代になり、「100年に一度」と言われる渋谷再開発が進むなか、のちの東急百貨店東横店東館の解体に伴い、東横のれん街は2013(平成25)年に渋谷マークシティの地下1階に移転、2020(令和2)年には渋谷ヒカリエの地下2階・地下3階に場所を移しての営業となった。人々の嗜好の変化を敏感に捉えて自らの姿をしなやかに変え、お客さまに愛されてきた東横のれん街は、開業から70年の古希を迎えた。

東横のれん街開店時のポスター
出典:『写真で見る東横のれん街50年史』(2002年)

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