第2章 第3節 第2項 主要交通幹線は道路から鉄道へ

2-3-2-1有料自動車専用道路(ターンパイク)計画の申請と断念

1953(昭和28)年1月の「城西南地区開発趣意書」では、都心との間を結ぶ交通幹線として第一に挙げたのが高速道路で、鉄道はあくまでも高速道路が飽和状態になったときの次の手との意図であった。距離あたりの建設コストを考えれば、高速道路の方が経営にかかる負担を軽減できることが理由の一つであった。

これに加えて、このころ五島慶太は、新しい輸送機関として台頭し始めた自動車に大きな関心を寄せていた。その発端は、1950年に発刊された書籍『飛行機とバスの窓から』(久留島秀三郎著、相模書房刊)だったとされる。当時の米国の交通事情が記されたこの書籍に五島慶太は心を動かされ、1952年と翌1953年に当社役員や幹部社員を2か月間の欧米視察に送り出した。

そして、米国では鉄道収入が減少傾向にあるだけでなく大半が貨物収入に依存しており、鉄道に代わって個人の移動を担っているのが乗用車やバスで、世界の先端を行く自動車工業の隆盛と道路網の整備がクルマ社会の発展を導いていることが報告されたのである。自動車が主たる輸送機関となる一方で、道路上に敷設された軌道電車が存亡の危機にあることも報告された。日本では1949年に自動車の生産制限が解除されており、米国とは国土面積やライフスタイルなどの違いがあるとはいえ、いずれは米国型の交通事情に近づくと思われた。

1954年3月、渋谷〜江ノ島間全長47.3kmの有料自動車専用道路の建設を決定し、道路運送法に基づく自動車事業経営免許申請書を運輸・建設両大臣宛てに提出した。これが「東急ターンパイク計画」である。そして同年8月に、富士・箱根・伊豆国立公園への観光ルートの開発を目的として、小田原〜箱根間全長18kmの「箱根ターンパイク」の免許申請を行い、さらに1957年8月には藤沢〜小田原間全長30kmの「湘南ターンパイク」を追加申請。これにより渋谷と箱根をターンパイクで結ぶことをめざした。

当社の道路建設計画を運輸省は歓迎したと伝えられるが、建設省の対応は異なっていた。それは、建設省が高速道路の建設に向けて法整備などの環境を整えていた時期でもあったからである。建設省は「日本の道路は劣悪、工業国でこれほど道路網を無視した国は例を見ない」としたワトキンス調査団の報告(1951年)に刺激を受けて、国道は無料としてきた従来の考えを翻して有料の自動車専用道路建設に転じていた。道路法など道路三法を成立、公団設立に向けた法整備を整えて、1956年4月に日本道路公団を設立。まずは名神高速道路の建設へと向かっていくさなかにあった。

日本道路公団による第三京浜道路の建設計画は、当社の東急ターンパイクとルートがほぼ一致することから、建設省からの要請を受け1961年に申請を取り下げ、計画そのものを断念することとなった。

図2-3-4 東急ターンパイク申請時の路線図
出典:『多摩田園都市 開発35年の記録』

2-3-2-2 鉄道敷設の計画から免許交付へ

当社は東急ターンパイク計画を断念し、鉄道線の建設に専念することとなるが、その背景には鉄道開通を願う地元の粘り強い要望もあった。

国内の一部観光地などで短距離の有料道路はすでにあったものの都市間を結ぶ長距離の有料道路はまだなく、一般庶民が買える大衆車もまだ登場していなかった(国内初の大衆車とされるスバル360の発売は1958<昭和33>年)。米国のような道路網や自動車中心の交通体系が容易に想像できる時代ではなく、砂利道が多い大山街道のバス路線が都心に通じる唯一の交通機関だった地元から、「なじみのない高速道路よりも鉄道を」と要望されるのも自然であった。当社は1956年9月に大井町線溝ノ口〜長津田間の地方鉄道敷設免許申請を行った。

これと連動するように、(新)玉川線の建設計画も練られ、同年7月に渋谷〜二子玉川園間の地方鉄道敷設免許を申請した。その概要は社内誌『清和』に掲載されており、それによればトンネル・高架・盛土により道路渋滞の影響を受けることのない専用軌道を敷設し、高架部分については東急ターンパイクとの鉄道道路併用橋にすることも検討されていた。3階部分にターンパイク、2階部分に鉄道を通し、1階部分は高架下利用で事務所や店舗にするという想定である。この新路線は現在の田園都市線とは異なり、営団地下鉄銀座線への乗り入れを考慮して標準軌(1435mm)路線とし、集電方式も地下鉄に併せて第三軌条式で計画した。

図2-3-5 (新)玉川線の高架部構造図
出典:『清和』1954年4月号

しかしその後、建設に多年を要すると思われる(新)玉川線とはいったん切り離して、まずは城西南新都市を通る鉄道計画を急ぐこととし、1957年11月、溝ノ口〜長津田間の免許申請に長津田〜中央林間間を追加すると共に、軌間を狭軌に改めた。長津田以西にも住宅適地が多く、小田急江ノ島線と連絡する方が今後の事業展開に可能性が広がること、大井町線と軌間を揃えてこれの延長路線とする方が実現性が高いこと、都心方面への旅客輸送は二子玉川での玉川線への乗り換えで対応できること、などが理由であった。なお、玉川線に代わる新線建設に関しては、第3章ならびに第4章で述べることとする。

多摩川西南新都市への鉄道敷設の実現性が高まり、地元からの陳情はさらに活発化した。1958年10月には宮前地区をはじめ各地区代表18人が、1万3629人の署名簿を携えて「溝ノ口〜中央林間間の鉄道建設促進に関する陳情書」を当社および運輸省に提出。さらに1959年6月には多摩川西南地区の各地区代表9人が「溝ノ口〜中央林間間の鉄道建設促進」について、運輸大臣、運輸審議会会長および当社宛ての陳情書を提出し、早期の免許交付を求めた。

中央林間での小田急江ノ島線との連絡については、小田急電鉄側から異論が出されたが、公聴会で当社は計画の妥当性を主張、工事施行認可申請後2年以内に竣工開通させることを説明した。運輸省から溝ノ口〜中央林間間の鉄道免許が交付されたのは、1960年9月のことであった。

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