田園調布の100年
東急グループ100周年を記念して、
東急のまちづくりの原点となった、
田園調布の歴史をご紹介します。
1923年
多摩川台住宅地 分譲開始
日本らしい田園都市を。理想はここから現実になった。
後に田園調布となる多摩川台地区の分譲を開始。美しい景観を維持し続けていくために景観形成における紳士協定が示されました。
1923年
同心円、放射状の道路へ
欧米諸国の美しい街並みを、日本にも。
渋沢秀雄は、父栄一の命を受け視察した欧米諸都市の街並みに刺激を受け、田園調布を同心円と放射状の道路で構成。その街並みはいまも。
1925年
多摩川園開業
週末のレジャーは田園調布で。そんな時代がありました。
交通事業の利用増加につなげる取り組みの一つとして開園した遊興施設。余暇の拠点として永く親しまれ1979年に惜しまれつつ閉園。
1936年
田園読売スタンドオープン
熱戦の舞台となった、日本テニス史における殿堂。
慶應義塾大学野球部の専用球場だった土地を「田園テニス倶楽部」のメインスタジアムとして改めてオープン。日本初のテニスの国際試合が行われる等、1989年の閉園まで親しまれた。
1967年
洗足駅地下化
クルマ社会のはじまりは、地下駅化のはじまりでした。
環状七号線の踏切を解消するため、洗足駅を1967年に地下化。駅は2000年に改良されたが、現在の駅舎にも旧駅舎のイメージが残っている。
1990年
田園調布駅が橋上仮駅舎に移転
目黒線と東急多摩川線のルーツは、のんびり走っていた目蒲線。
目蒲線が目黒線と東急多摩川線に生まれ変わるとともに、田園調布駅もリニューアルすることに。駅の地下化に伴い、旧駅舎は一旦解体へ。
2000年
旧駅舎、街のシンボルとして復元
永く親しまれた古い駅は、街の顔に生まれ変わった。
目蒲線改良工事および東横線複々線化工事の一環として解体された旧駅舎は、街の玄関口としての機能を持つ建物として復元されました。
現在
現在の田園調布駅前
駅を中心とした美しい街並みは、いまも変わらず。この先もずっと。
放射状に伸びる道路と豊かな銀杏並木が連なる田園調布まちは、いまもなお、渋沢栄一が理想とした田園都市の街の在り方を示し続けています。