6章
100年の歩み 19901997
経営環境激変と
東急グループの対応


Chapter6
1990(平成2)年から1991年にかけてピークに達した地価や株価は、その後坂道を転がるように下落し、バブル崩壊による景気後退へ向かった。90年代半ばに一度は持ち直したが、阪神・淡路大震災による消費ムードの減退や円高もあり、これまでのような復調とはならなかった。また、特に不動産や建設といった業界を中心に有利子負債の膨張が大きな課題となっていった。
当社は、1990年に6つの重点事業からなる「東急アクションプラン21」を発表、総額2兆円の投資を計画した。だがこの景気の暗転により、先行着手した投資の多くは速やかな回収が見込めないまま膨大な有利子負債となって経営に重くのしかかり、早急に修復を図るべき経営課題となった。
こうしたなか1995年4月には当社新社長に清水仁が就任し、これまでの事業拡大路線を軌道修正すると共に、当社の財務体質強化に乗り出した。またこの時期、懸念が色濃くなってきたのがグループ各社の業績低迷であった。連結財務諸表における当期利益は当社単体での当期利益を大きく下回る状態となり、グループ各社の経営実態にも危機的な状況が見え始めた。
21世紀の到来を目前にして、当社は東急グループの新たなグループスローガン「美しい時代へ-東急グループ」を制定すると共に、グループ経営理念に「自立と共創」の考え方をとりいれた。それは、金融制度改革、いわゆる日本版金融ビッグバンに伴って従来の会計基準が改められ、国際標準の連結会計により日本企業が評価される時代が間近に迫っていたことと無縁ではなかった。
鉄軌道事業
鉄軌道事業ではこの時期、複々線化に向けた大規模改良工事が大きく進捗した。目蒲線を活用した東横線の複々線化工事を着々と進めると共に、田園都市線・新玉川線の輸送力増強については大井町線の延伸により田園都市線に複々線の機能をもたせ、都心への経路を分散させることで当社の路線全体の輸送力を平準化するねらいであった。後に開通するみなとみらい線と東横線の相互直通運転も新たな計画に加わった。


その他の交通事業
自動車事業では、黒字化に向けて分社化を決定し、1991年に新たに東急バス株式会社が誕生。航空事業では、規制緩和に伴う競争激化や空港整備事業の遅れが逆風となったが、日本エアシステムが新たに中国本土への国際線・広州線を開業して黒字化に希望をつないだ。


開発事業
開発事業では多摩田園都市の宅地形成がほぼ一巡したことから、二次開発という新たな段階へ歩を進めた。青葉台では、当社主導により商業・文化施設を整備。また、社有地の有効活用を図る中で、新たに事業用定期借地権事業に進出し、賃貸先として東急グループ以外のテナントも呼び込んで多様性のある街の魅力づくりに努めた。さらに、地元地権者が所有する土地の有効活用をサポートする目的でコンサルティングの窓口を強化するなどして、街の品位を保ちながら自律的な発展や成熟化を促した。多摩田園都市以外では、神奈川県央・湘南地域や福岡県内の土地区画整理事業がおおむね終盤に向かった。






渋谷をはじめとした大規模開発プロジェクトの始動
当社は渋谷の開発に重点を置いて当社本社敷地の高度利用を図る「渋谷・桜丘町プロジェクト(現セルリアンタワー)」を推進、さらに「渋谷道玄坂一丁目開発(TKTプロジェクト)」にも参画してホテルやオフィスなどの用途整備を中心に、渋谷の活性化に着手。みなとみらい線と東横線との相互直通運転計画を視野に、横浜みなとみらい地区の地域開発(みなとみらい24街区)にもグループを挙げて取り組んだ。また地元自治体も参加する市街地再開発事業では三軒茶屋と八王子の再開発に参画した。このほか1993年には東急不動産と共に、用賀駅に直結する世田谷ビジネススクエアを開業し、オフィス賃貸事業の拡充を図った。






ホテル・リゾート事業
リゾート事業では、当社はこれまで開発を進めてきた宮古島に加えて福島県の裏磐梯地域でも複合リゾートの開発に着手、全国各地でゴルフ場の開発・開業も加速した。だがバブル崩壊による景気の低迷を受け、厳しい事業環境に直面することとなった。
ホテル・観光事業では、いわゆる「安・近・短」旅行が好まれて旅行単価が減少、企業の経費節減の一環で出張需要も低迷したことから、当社(東急インチェーン)や東急ホテルチェーンによる国内ホテル事業は利益確保に窮し、既存ホテル網の再構築を余儀なくされた。これに加えて東急観光は、個人旅行の取扱いやパック旅行の商品開発で他社の後塵を拝していたことも痛手となった。




海外事業
厳しい経営環境を受けて海外事業は早々に事業再構築の対象となったことから、開業して間もない北米西海岸のホテル、1970年代から所有していたバヌアツ共和国のホテル等を売却。ハワイのマウナ・ラニ・リゾートは、不動産開発による土地販売業から撤退し、ホテルとゴルフ場の施設運営に特化した。また、2つの海外ホテルチェーンを、パン・パシフィック・ホテルズ・アンド・リゾーツ社に一本化し、主に東南アジアでの運営受託拡大に活路を見出した。海外事業は全般的に「所有から運営へ」と舵を切ることとなった。
