5章
100年の歩み 19801989
「ポスト多摩田園都市」の本格化


Chapter5
日本は、第二次オイルショックの影響が他の先進国より小さかったこともあり安定成長を続けていたが、1985(昭和60)年のプラザ合意による急激な円高で景気は後退局面を迎えた。政府・日銀は財政金融施策を講じたことで、株価や地価が急騰、いわゆるバブル経済と呼ばれる局面を迎えた。国内外に事業や投資を急拡大していく企業も多くあった。
1980年代、多摩田園都市の開発にともなう収益が会社の屋台骨を支え、鉄軌道事業も沿線の定着人口の増加によって輸送人員を伸ばした。このような中、土地区画整理事業が中盤を過ぎたことも勘案し、不動産事業で新たな収益構造の確立に向けた模索が本格化していった。また、ケーブルテレビ事業や、クレジットカード事業へ参入し、グループスローガンにも掲げた人々の生活の豊かさに資する「総合生活産業」を東急グループの将来ビジョンとして多面的な企業集団をめざした。
社長五島昇はサービス業の経営者として初めて日本商工会議所の会頭に就任したが、就任4年目に体調を崩し退任。その2年後には不帰の人となり、生前に社長を託された横田二郎をまとめ役とする東急グループサミットを軸とした新たなグループ運営体制となった。
事業ごとの動き
鉄軌道事業
鉄軌道事業では新たな展開を迎えた。田園都市線が中央林間まで全線開通したあと、当社は東横線の混雑緩和に取り組む一環として、都心との新たな大動脈を形成するため目蒲線を活用した東横線の複々線化に着手。併せて立体交差化などの改良工事も着々と進め、大都市の輸送を担う交通機関の使命として一層の輸送力増強とネットワーク拡充を図った。



その他交通事業
バス事業は路線再編成や深夜バスの設定などにより黒字化をめざし、東亜国内航空は日本エアシステムと商号を改めて国際定期便の就航を果たした。



開発事業
田園都市線の全通により成熟期を迎え始めた多摩田園都市では、残りの開発地域の土地区画整理事業を引き続き行うとと共に、二次開発として、「たまプラーザ東急SC」など商業施設をはじめとする都市機能拡充を進め、ケーブルテレビの放送開始、外食事業の展開等、沿線価値の向上に努めた。全国各地の開発事業では1970年代末の時点で未稼働資産と分類された地域も少なからずあったが、事業化に向けて粘り強く取り組み、各地で質の高い住宅地を供給するなどした。北海道の北見市では東急グループを挙げた地域開発に取り組んで東急百貨店や東急インが進出したほか、金沢市や町田市の再開発事業に参加した。さらに多摩田園都市の社有地活用を手始めとして、沿線内外に賃貸用ビルの建設を進めた。










ホテル・リゾート事業
国内ホテルチェーンの整備では、拡大政策を続けてきた東急イン(イン事業)が、新規ホテルとの競合激化で慢性的な赤字に陥ったが、宿泊収入に重点を置いた原点回帰で挽回を図った。もう一つの東急ホテルチェーンは仙台や名古屋、京都などで都市を代表する本格的なホテルを開業、1980年代後半の内需拡大に伴う好景気にも支えられて業績は順調に推移した。
同じく内需拡大の追い風を受けたのが国内各地のリゾート開発である。当社は1970年代から開発に着手していた宮古島、東急不動産は蓼科などにホテルとゴルフ場を中心とする複合的なリゾートを建設。総合保養地域整備法(リゾート法)の施行も背景に、東急グループの総力を挙げた取り組みへと発展していった。




海外事業
1970年代から継続してきた海外事業では、海外進出のシンボルとなっていたハワイで開発事業を本格化させると共に、カナダを含む全米西海岸、シンガポール、中国にも進出。ホテルのみならず、百貨店やオフィスビルの展開にも挑戦した。




渋谷での商業・文化複合施設開発
1980年代後半、東急グループの重要な成長戦略と位置づけられた渋谷開発では、東急百貨店が中心となって既存店舗のリモデルや、109-②・ONE-OH-NINEなど新規の店舗展開を加速、さらに東急グループとして複合文化施設Bunkamuraの開業に至った。

