まちの速度に身をゆだね、木下龍也が過ごす2日間。初めての世田谷線・上町・松陰神社前【前編】
- 取材・文:嘉島唯
- 写真:大西陽
- 編集:川谷恭平(CINRA)
Share
まちに「泊まる」からこそ、つながる縁を紹介する「ご縁泊」シリーズ。今回の舞台は、東京でも数少ない路面電車が走る世田谷線沿線・上町から松陰神社前エリアだ。
このまちに滞在したのは、日常の機微を言葉ですくい上げる歌人・木下龍也さん。上町に宿泊し、過ごした2日間を、木下さんがこのまちで詠んだ短歌とともに、前編・後編に分けてお届けする。
前編となる1日目は、松陰神社前駅を中心に老舗ベーカリーやアイスクリームショップ、ビストロから夜まで灯りの消えない書店を巡る。
ゆっくりと走る世田谷線の速度に身を委ねながら、木下さんはこのまちで何を感じ、どんな時間を重ねたのだろうか。
大きなお風呂に、人懐っこい犬とおとなしい猫がいる一軒家


普段は杉並区で暮らしている歌人の木下龍也さん。冬の澄んだ空気のなか、上町駅で降り、今回の滞在先となる民泊へと向かう。
こんにちは。
Rui

本日はよろしくお願いします。僕はこのエリアに来るのが初めてです。
木下

そうなんですね! じゃあ世田谷線に乗るのも初めて?
Rui

はい。Suicaを当てるだけで乗れて、降りるときには何もしなくていい。この乗車の流れが新鮮で少し不安でした(笑)。東京で路面電車を見ること自体、あまりないので。
木下


迎えてくれたのは、ホストのRuiさん。父が送迎や風呂の管理を、母が食事を、姉がゲスト対応を担い、家族全員で民泊を運営しているという。玄関では、犬のクゥちゃんも一緒にお出迎え。


クゥちゃんは人に慣れてますね。
木下

クゥは人が大好きなのでゲストが来たらいつも熱烈に歓迎しています。でも、最初から膝の上にのるのは珍しいですよ。
Rui

そうなんですね。僕も実家ではコーギーを飼っていました。何かを見抜かれているのかな(笑)
木下


この民泊を訪れるゲストの多くは海外から。シンガポール、アメリカ、中国、韓国など国籍もさまざまで、リピーターも多い。
民泊をやってわかったのは、うちみたいな民泊施設を使う方は、日本人と交流したい人が多いんです。日本の文化を知りたかったり、日本語を勉強していたり。
Rui

交流はほとんど日本語で?
木下

母はスマホの翻訳アプリを使って会話をしてますね。私は中国語を勉強していたので、中国のゲストが来たときはお互いの母国語を教え合っていました。
Rui

素敵ですね。
木下

ここ数年は、年末に同じイタリア人のゲストが毎年1か月ほど滞在してくれます。一緒に除夜の鐘を鳴らしに行ったり、紅白を見たり、駅前のスーパー「オオゼキ」に行ったりしていま す。
Rui

親戚のような関係性。
木下

イタリア人のゲストは滞在日数も長いから、日本語もペラペラ。今年も来てくれる予定です。じゃあ泊まる部屋を案内しますね。
Rui

楽しみです。
木下




すごい大きなお風呂ですね。ずっとここにいたいです(笑)
木下

ぜひ(笑)。身体の大きなゲストも「ここでならゆっくりお風呂に入れる」と言ってくれたり、お風呂目当てでリピートしてる方も多いです。
Rui

いつから上町にお住まいなんですか?
木下

母は幼少期から私たちが生まれるまでこのエリアに住んでいました。母が高校生のころは、まだ世田谷線が渋谷までつながっていたそうです。なのでこの場所は母の実家なんです。
Rui

そうなんですね。
木下

私たち一家は別の場所で暮らしていましたが、10年ほど前に私の祖母の介護のために世田谷エリアに戻ってきました。介護が終わってから民泊を始めたんです。
Rui


壁にかかっている俳句は、お祖母様が作られたんですか?
木下

そうそう。けっこう上手なので、本当に祖母が詠んだのか、いまいち信じられないですけれど(笑)
Rui


とてもお上手です。まさにいまスカイツリーを見上げているような感覚になれますね。ところで、上町はどんな雰囲気ですか?
木下

商店街がいくつかあって、どこの通りも「盛り上げよう」という気持ちが強い方だと思っていて。新しいお店も馴染みやすいので、まち歩きは楽しいと思いますよ。
Rui

おすすめのお店はありますか?
木下

さっき出したお茶を入れているカップとソーサーは松陰神社参道商店街にある「POTPURRI」というお店で買いました。食器以外にもアイスクリームも売っていて、すごくおいしいんです。
Rui

甘い物が大好きなので、行ってみます。
木下


小麦の匂いが、まちの入口になる。創業122年のベーカリー「ニコラス精養堂」

民泊を後にし、徒歩で松陰神社前商店街へ。歩きながら、木下さんに「まちを歩くこと」について聞いてみた。
じつは、目的のない散歩はあまりしないんです。どこかに行く理由があって、歩くことが多い。甘いものを食べに行くとか、趣味の怪談を聞きに行くとか。
木下



俳句の松尾芭蕉のイメージが強いのか、短歌も歩きながらつくっているのですかと聞かれることが多いのですが、僕は完成するまでパソコンの前から動かないというスタイルで歌に向き合っています。『奥の細道』とは逆ですね。
木下

松陰神社前駅に近づくと、小麦が焼ける香りが漂ってくる。自然と足がそちらへ向かう。
1903年(明治36年)創業の老舗ベーカリー「ニコラス精養堂」だ。
店頭に並ぶパンは、近隣の人々の日常に親しまれてきただけでなく、世田谷区内の保育園にも配達され、まちの暮らしを静かに支え続けている。


親しみやすい雰囲気のお店ですね。パンの種類も多い。
木下

「ニコラス精養堂」の創業は1903年。人気店を支えるパンは、定番の食パンから、個性的な惣菜パンまでバラエティ豊富。


プリンパン!? これ、絶対食べたいです。毎日買えちゃう値段ですね。
木下


看板商品の食パンは売り切れになることもしばしば。ほのかな塩味が小麦の香ばしさと甘さを引き立てる。
そのほか、コッペパンにメンマがたっぷりのった、穂先メンマドッグなど惣菜のパンもそろう。

暮らしに触れる器と、気軽なアイス。松陰神社前「POTPURRI」
続いて向かったのは、Ruiさんもおすすめの「POTPURRI 松陰神社〜Life&Ice cream〜」。食器や雑貨とともに、アイスクリームも楽しめる店だ。迎えてくれたのは、同社の森沙織さん。

店内にはオリジナル食器やバイヤーが買いつけた雑貨が並んでいる。
引越してからお皿を集めるようになったんです。前は電子レンジも炊飯器も置かない主義だったんですけどね。
木下


あ、あそこにあるのがRuiさんに出していただいたカップとソーサー。サイズもいろいろあるんですね。
木下

こちらは弊社のオリジナル商品です。このシリーズは男性のデザイナーが手がけていて、彼は無駄が嫌いな人なんですね。なので自分が食べるもののサイズを測って食器の大きさを決めてるんです。
森


いいですね……。個人的にお皿を買ってもいいでしょうか?
木下

もちろんです!
編集部

良かった。どれがいいかな……。おすすめはありますか?
木下

これとか。ウインナーが大好きなデザイナーが作った冗談めかして作ったものですが、ミニトマトを並べて入れてもかわいい。実は用途がさまざまでとても人気です。
森



ここはアイスも楽しめるんですよね。
木下

はい! うちの食器を楽しんでもらうために考案したのがアイスクリームです。
森



どれもおいしそう。人気のフレーバーはなんですか?
木下

一番人気はパステルレインボーです。可愛らしい色味なので、小さなお子様からお年を召した方まで幅広く選んでいただいています。
森

どうしようかな……。僕はチョコ系が好きなので、ガトーショコラもおいしそうですけれど……チョコミントとパステルレインボーにします。
木下

トッピングはどうされますか? おみくじをひいていただくと、シークレットかモンスタークッキーも選べます。
森




おいしい。パステルレインボーはバニラといちごと……ソーダかな。懐かしい味がします。甘くて爽やか。チョコミントは優しい爽快感があります。冬に食べるアイスって特別おいしいですよね。
木下


葡萄のツタのように、まちに根を張ってきたビストロ「ゴンアルブル」
松陰神社前での散策を終え、夕暮れどきに向かったのは、まちに根を張るように続いてきたビストロ「ゴンアルブル」だ。



ゴンアルブルはこのまちで10年のあいだ、愛されてきた一軒だ。
オーナーの前田教介さんが「ゴンアルブルは、フランス語で『大きな木』という意味なんです」と店名の由来を教えてくれた。

フランスで修行していたころ、葡萄(ぶどう)づくりから始めたんです。だからこの店を始めたとき、外に葡萄の木を植えました。
前田

テ ラスをツタが覆ってましたね。
木下

いまは冬なので葉が落ちてますが、春先から秋までは青々しています。最近ようやくデラウェア(葡萄の一種)の実がなりはじめました。
前田

そんなに時間がかかるのですね。
木下

そうなんです。ゆっくり根を張るように大きくなったので、葡萄の実を収穫したときは感慨深かったです。
前田

続いて、白ワインで蒸し上げたムール貝とアサリ。


フランスでは日常的にムール貝を食べていたので、私にとっては懐かしい味です。そのときにムール貝の食べ方を教えてもらったんです。まず1つ食べて、そのあとに殻をハサミのように使う。
前田

本当だ。身がすごく取りやすいです。ムール貝の出汁がおいしいですね。香りがいい。
木下

ありがとうございます。貝から出た旨味が溶け込んだスープは、パンを浸して召し上がってください。
前田




初めて食べましたけど、全然クセがないですね。味わいは深いのにあっさりしている。
木下

ロースを使っているのですが、シェフが丁寧に下処理をしてくれているので、旨味が引き立つんです。
前田




1日目の終わりに訪れた、24時間営業の山下書店
日が暮れはじめたころ、最後に立ち寄ったのは松陰神社前駅近くの「山下書店」。

この店舗は、夜間から早朝にかけて無人営業を行う、24時間開いている書店だ。運営元のグループ会社であるトーハンの端野雅之さんが迎えてくれた。

夜に本屋が開いている。それだけで安心感がありますよね。いつごろから24時間営業になったんですか?
木下

2023年から実証実験をはじめました。書店の経営が年々難しくなっているという状況は、私たちとしてもずっと感じていて。そのなかで「24時間開けてみてはどうだろう」というアイデアが浮かんだんです。書店として本をずっと置いているわけですから、手に取ってもらえる時間を増やしてみようと。
端野



夜間は、どうやって無人で営業しているんですか?
木下

Nebraskaという日本のスタートアップが開発した「デジテールストア」システムを導入しています。LINEで「友だち登録」をして、入口のQRコードを読み取ると自動ドアが開く仕組みです。
端野


無人営業と聞くと、防犯やトラブルを心配してしまいがちだが、この店では大きな問題は起きていないという。それは、このまちの空気とも無関係ではなさそうだ。
このあたりは、世田谷線の沿線らしいゆったりとした雰囲気が流れているんですよね。そういう空気も一役買っているのかもしれません。
端野

いいですね。夜中にふと本を読みたくなることってあるので。うらやましいです。
木下

24時間開いていることで、仕事終わりや深夜、早朝といった生活の隙間に本屋が入り込む。終電を気にすることなく、静かな夜に本を選ぶ時間。その余白こそが、このまちの豊かさを静かに支えているように見える。

2日目は、上町を中心にコーヒーを味わいながらゆっくり過ごす予定だ。どんな出会いがあるのだろうか。

======================
〜 木下龍也の滞在ノート 〜
ほとんど毎日同じリズムの生活を繰り返し、自分のテリトリーから出ることの少ない僕は緊張と不安に包まれながら世田谷線を上町駅で降りた。
けれど、挨拶をすっ飛ばして足元に駆け寄ってくれたパピヨンのクゥちゃんがそんな気持ちを吹き飛ばしてくれたように思う。滞在先のご家族も、訪れたお店の方々も、まるで昨日も会っていた友人のような距離感で接してくださり、いつのまにか僕はたくさんの優しさや暖かさに包まれていた。
町を歩きながら線路の奥に沈んでゆく夕日を見たとき、明日にはこの町を離れなければならないということが寂しくてたまらなくなった。
======================
Share



