金メダルを手に、またこの店へ。青葉台・能登屋は日体大生にとって「実家のように帰れる場所」
- 取材・文:中野慧
- 写真:大西陽
- 編集:川谷恭平(CINRA)
Share

東急田園都市線・青葉台駅の北口ロータリーの向こうに、ひっそりと佇む青い看板の店がある。
名前は「能登屋」。地域の人々に愛される食事処兼居酒屋であり、日本体育大学(横浜・健志台キャンパス)の学生にとっては「実家」のような存在でもある。卒業後、金メダルを手にこの店を訪れるOB・OGもいれば、バイトの仕事が先輩から後輩へと、バトンのように受け継がれてきた伝統もある。その関係は、気づけば50年。
「街」と「大学」、そして「人」と「人」を結び続けてきた場所。そんな「縁」のストーリーを、店主の川尻儀敬さんと、アルバイトの長谷川芽依奈さんに聞いた。

まるで「実家」。昭和レトロな食堂でつなぐバイトリレー
店内には昔ながらの安心できる食事処兼居酒屋の、どこかホッとするような空気が広がっている。田園都市線ではたまプラーザやあざみ野と並んで「おしゃれな住宅街」のイメージが強い青葉台だが、そんな街に、日体大生にも長く親しまれてきた温かなお店があることに驚かされる。



――お店はすごくレトロな雰囲気ですが、いつごろからあるんですか?
開業は1972年かな。
川尻

――ということは、もう50 年以上も続いているんですね。 そもそも、どうして青葉台にお店を出したんですか?
私は能登半島の東側にある「能登島」ってとこの出身で、1969年にこっちに来たんです。おじさん夫婦が先にたまプラーザで、「能登屋」というおにぎり屋さん兼食事処を始めていて。出身地にちなんだ店名ですね。私は中学卒業後にそのお店を手伝い始めて、数年後、青葉台に支店として出したのがいまの店です。
川尻


――なるほど。ちなみに、日体大生がアルバイトとして入ったのもそのころですか? 調べたところ、日体大はもともと世田谷キャンパスがメインで、1971年に青葉台エリアの健志台キャンパスができたみたいですね。
私らが青葉台でお店を開いてから数年後かな。最初は陸上部の長距離の選手たちだったんですよ。店の前にアルバイト募集の貼り紙を出していたら、ジョギング中に見たらしく、応募してきてくれた。
川尻

――へぇ、長距離の選手から始まったんですね。
それから、サッカー部、テニス部……いろいろな部活の学生が働いてくれて、卒業するときは後輩に引き継いでくれるもんだから、いままで日体大生のアルバイトが途切れることなく続いてきた。サッカー部では「今日は能登屋のバイトだから」ということで、練習を早めに切り上げることも許されていたらしいね(笑)。
川尻


――いま働いている長谷川さんも、やっぱり先輩の紹介で?
私はテニス部の先輩に紹介されて、入学してからすぐアルバイトを始めました。日体大のいろんな部活の人がこれまで能 登屋のバイトをつないできたということは何となく知っていて。現在はアルバイト4人でシフトを回しているんです。
長谷川


――このお店の第一印象はどうでした?
「いまどき」な感じじゃないから、安心できます。私は岐阜の田舎の方から出てきたんですけど、実家に帰ってきたような感じ。マスター(川尻さん)とお母さん(川尻さんの妻)の2人でお店を切り盛りしていて、その人柄もあって、とても雰囲気の良いお店だなと感じました。
長谷川


――「実家のような安心感」というやつですね。
アルバイトの子たちは、田舎の親御さんたちがこっちに来たときにお店に連れてきてくれるんですよ。
川尻

――たしかに親御さんたちが能登屋の雰囲気を見たら、「ここで働いているのなら大丈夫そうだな」と安心できそうですね。逆に川尻さんは最初、長谷川さんをどんな人だと思いましたか。
日体大生にはにぎやかな子もいれば、大人しい子もいるんですよ。長谷川さんは、最初は大人しいタイプだった。だけど働き始めて2年ぐらい経つから、だいぶお客さんとの会話にも慣れてきたよね。
川尻

はい、以前の私は、相手から話してもらわないと自分から話せないことが多かったんです。話してもらっても会話が続かず、何を話せばいいかわからないこともありました。でも、能登屋で働くうちに、だんだ んコミュニケーションが取れるようになってきたと思います。
長谷川


――どうやって慣れていったんですか?
常連さんが来たときに、マスターとお母さんがどんなふうに話しているのかをできるだけ聞いて、受け答えの流れをつかむようにしていました。いざ自分に話を振られたときに、ちゃんと返せるように考えておくようにはしています。
長谷川

――それって、簡単そうで意外と難しいですよね。
そうなんです。それに、居酒屋って接客が大事だから、顔が怖いとダメじゃないですか。最初のころは顔が強張ってうまく笑顔になれなかったのですが、いまは自然と笑え るようになりました。それが、私なりの成長かなと思っています。
長谷川

日体大伝統の「エッサッサ」が店先でも。昔ながらの青春エピソード
「能登屋」という店名は店主の川尻さん、そして先代のおじさんが能登出身であることにちなんだもの。出てくる料理も刺身や焼き魚、サザエなどの魚介類が中心で、太平洋側の横浜市ではめずらしく、どこか日本海側の雰囲気を感じさせる。
――お魚や貝はどこで仕入れているんですか?
多いのは鷺沼のほうにある市場(川崎市中央卸売市場北部市場)で、いろいろなところの魚を仕入れています。あとは、ときどき能登の田舎からも魚やサザエなんかを送ってもらうこともあります。
川尻



――能登からのサザエですか!?
そうそう。時期によって穫れるものが違うから、いまだったらウマヅラハギとかもあるね。輸送も速くなったから、日本海側からでも新鮮な魚が届くようになったんだよ。
川尻

――それは贅沢ですね。長谷川さんのお気に入りメニューは?
私が最初に食べたのは「銀ひらすの焼き魚定食」。これ、本当においしいです。それまであまり魚の種類に詳しくなかったんですけど、お店で働くうちにだんだんわかるようになってきました。
長谷川



――たしかに、能登屋のメニューにはいろんな魚が載っていますよね。野菜もおいしそうですけど、どこから取り寄せてるんですか?
近くに姉がやっている菜園があって、いまだとほうれん草とかブロッコリーも仕入れているね。このあたりは、鶴見川沿いに畑がたくさんあるんで、野菜は近隣のものを使うことが多いんです。見栄えはあんまりよくないところもあるけど、とにかく新鮮だからね。
川尻


――地産地消なわけですね。能登屋ではこれまでたくさんの日体大生が働いてきたとうかがいましたが、日体大生らしさを感じたエピソードってあったりしますか?
そういうのは、やっぱりあるよね(笑)。親し くなった常連のお客さんが転勤することになったとき、日体大生の子たちが4、5人くらいで店の外で「エッサッサ」をやって見送ったことがあって。
川尻

――「エッサッサ」って、なんですか?
上半身裸になって、白の短パンでハチマキ締めて……。
川尻

日体大の1年生男子の皆が練習する、大学の伝統の演舞みたいなものです。
長谷川

――身体の大きい日体大生がやるとかなり迫力がありそうですね。しかもそれを街なかでやるって、なかなか熱いですね(笑)。
もちろん、いまは外でする人はいないですよ。やっぱり世の中的にも制限ありますし。でも私は、昔のそういう話を聞くと「自由でいいなぁ」とも思っちゃいます。
長谷川

日体大の伝統的な応援スタイル「エッサッサ」はこちら(日本体育大学の公式チャンネルより)

メダルを手に、また戻ってくる。青葉台・能登屋と日体大生のこれから
田園都市線青葉台駅の開業は1966年、能登屋がこの街に店を構えたのはその6年後、1972年のこと。以来、青葉台の発展と歩みをともにしてきた。この50年、変わりゆく街の景色を、川尻さんはどのように見つめてきたのだろう。
――青葉台駅と能登屋の開業はほぼ同時期で、約50年前ですよね。現在の青葉台は駅周辺にもビルが立ち並んでいますが、当時はどんな雰囲気だったのでしょう。
ここから駅まで300メートルぐらいあるけど、当時はまわりに建物がなかったから、駅に電車が到着するのが見えたんだよね。いまの田園都市線は10両あるけど、そのころは4両だった。
川尻

――いまからするとかなりコンパクトですね。
道に関してもさ、駅周辺はアスファルトだったけど2、3分歩くと砂利道、田んぼ、だんだん畑。ただ周りに大企業の独身寮がたくさんあったから、若い人たちがたくさん店に来てくれたよ。
川尻


――「独身寮」という言葉自体、いまではノスタルジックな響きがありますね。若い人たちが多かったと いうことは、能登屋も当時から繁盛していたんですね。
そうだね。最初はこの辺りに食事処があまりなかったから。だけど周りにお店が増えてくるとこれまでどおりってわけにはいかない。メニューを変えたり、価格を見直したり、いろいろ工夫が必要になってくるよね。
川尻

――この50年、街の変化をどういうふうに感じてきましたか。
昔は駅前に噴水のある広場があったんだけど、いまは大きなバスロータリーでしょ。都心からどんどん、青葉台みたいな郊外に人が移ってきた。お客さんも最初は若い人ばっかりだったけど、だんだん年齢層が全体的に上がってきているよね。昔、若夫婦だった人たちが、歳を重ねてそのまま通い続けてくれている感じかな。
川尻



――日体大生は青葉台周辺に住んでいることも多いですけど、長谷川さんはここをどんな街だと感じていますか?
私は田舎から出てきたので、最初は「大きな駅だな〜」と驚きました。でも生活してみると、たしかに駅前はにぎやかだけど、少し歩けばすごく静かなんですよ。そのギャップがすごくて、実家とそんなに変わらない落ち着きもあって、住みやすい街だと思いますね。
長谷川

――たしかに東京都内の住宅街だと、夜でも生活音が聞こえくることがありますけど、青葉台って本当に静かなんですね。しかし、そんな住宅街の一角にある能登屋の店内に、箱根駅伝優勝メンバーとか、金メダリストの色紙がたくさん飾ってある……。

右のサインは、2024年のパリ五輪レスリング65キログラムで金メダルを獲った清岡幸大郎くんだね。大会前にお店に来て「これから行ってきます」って言ってくれて、帰って来たときにメダルを見せて、サインを書いてくれたりする。そういうのがだんだん溜まっていくんだよね。
川尻

パリ五輪は日体大から6人出場して、そのうち5人が金メダルを獲ったんですよ。
長谷川

――すごい金メダル率ですね(笑)。あらためてうかがいますが、川尻さんにとって日体大はどんな存在ですか?
日体大は人数もすごく多いから、もし学生がいなくなったら寂しいよね。この街もそう。お盆とか正月は学生が皆帰省しちゃって、急に静かになるからね。だから、日体大生はウチのお店だけじゃなくて、この街のにぎわいそのものをつくってくれている存在だと思う。
川尻

――これから、能登屋をどうしていきたいですか。
一日でも長生きして頑張るしかねぇなぁ(笑)。そうすると、たまに顔を出してくれる卒業生にも会えるし。あと、日体大生には、もっと昼に食べに来てほしいね。うちは夜は飲み屋もやるけど、もともとは食事処だから、美味しい定食も出すよ。
川尻

そうですね。焼き魚定食とか刺身定食は、栄養バランスを気にする日体大生には最高なはず。能登屋は「入りにくい」って言われることがあるんですけど、ちょっと贅沢したいときに、ぜひ足を運んでもらえたらうれしいです。
長谷川


青葉台の街づくりとともに歩みを始めた「能登屋」は、半世紀にわたって日体大の学生と地元の人々とのあいだに、たしかな「縁」を育んできた。
看板の色も、定食の味も、店主の言葉も、ときとともに少しずつ変わっていく。けれど、それでも変わらないのは、人と人をつなぐ温かさ。
能登から青葉台へ。そして学生から学生へ──「能登屋」は今日も静かに、街と若者の成長を見守り続けている。

Share