架空の都市がつないだ偶然。地理系ブックカフェ「空想地図」と駒大生の運命的な巡り合わせ
- 取材・文:井上マサキ
- 写真:沼田学
- 編集:川谷恭平(CINRA)
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東急田園都市線の駒沢大学駅から地上に出て、玉川通りを西へ。住宅街に入って少し歩くと、マンションの1階に「地理系ブックカフェ空想地図」というのぼりが見える。その名のとおり、地図・地理に関する本が読み放題のカフェで、オープンは2022年。地理というめずらしいコンセプトに、遠方から訪れる客も多い。
そんな「空想地図」で地理談義に花を咲かせていたのは、駒澤大学文学部地理学科3年生の坂井龍王さんと、2年生の鈴木亜季さんだ。2人はなぜ地理に魅了されるのか、そして、その興味を受け止める「空想地図」とはどんな場所なのか。
店主の田中利直さん・かよ子さん夫妻を交えて話をうかがうと、その中心にはある“架空の都市”の存在があった。

地理学科と駒沢、そしてブックカフェ。偶然が生んだ地図好きたちの集い
店内の本棚には、これまで田中さんが集めたもの中心に1000冊を超える本が並ぶ。地図やガイドブックをはじめ、さまざまな地理に関する書籍があり、カフェの利用中は読み放題。ついつい時間を忘れて読みふけってしまうほど、ゆったりとした空気に包まれている。

――まず駒大生のお2人に質問ですが、そもそも地理学科って、どんなことを学ぶんですか?
地理学は分野としては幅広くて、地形だけでなく、交通や気候、環境問題、地域文化など、専門領域がいろいろあるんです。僕は災害関連の研究をしていて、過去の災害の記録や教訓を後世に伝える災害伝承や、ドローンを活用した地形解析をもとに、災害対策を研究しています。
坂井

先輩の坂井さんと私は「地理学研究会」というサークルで一緒なんです。地理の勉強をしたり、「巡検」といって、実際に現地を歩きながら地形を学んだりといった活動をしています。
鈴木

まぁ簡単に言うと、地理が好きな人たちが集まってワイワイやってる感じです(笑)。
坂井


――となると、地理学研究会にとって「空想地図」は理想的な場所では?
ホントにそうですね。読みたい本ばかりで、いまも週1、2回は来ています。
坂井

私は駒大の受験前に「空想地図」のことを知ったんです。地理学科の公式Xが「地理系ブックカフェがオープン」ってポストしているのを見て、「合格したら絶対行こう!」と決めていたので、お店に行けたときは、めちゃくちゃ嬉しかったです。
鈴木


――やっぱり、駒澤大学に地理学科があるから、ここにお店をオープンしたんですか?
いえ、まったくの偶然です。駒沢に物件を決めてから知ったんですよ。私自身、駒大卒ではないし、地理学科という存在もあまり知らなくて。
利直

最初はサークル内で「OBなのかな?」と噂していたんですけど、半年ぐらい経ってから「全然違う」とわかって。だから、謎だな……と(笑)。
坂井


――田中さんたちは、一体どういう経緯でお店を?
もともと、飲食業界に30年ほどいたんです。ファミレスで店長をしていたんですが、コロナ禍をきっかけに早期退職しまして。子どもが大学を卒業したタイミングでしたし、せっかくなら新しいことをやろうと。
利直

――それでカフェを。
はい。趣味で地図や地理の本を集めていたので、フェミレスの経験と合わせて、「地理系ブックカフェ」をやろうと決めました。当時は大阪に住んでいたんですが、かなりニッチなコンセプトなので、東京のほうがお客さんも来るだろうと思ったんです。それで夫婦2人で都内に引っ越して、1年かけて見つけたのがこの場所です。
利直

――なるほど。そして「空想地図」という店名の由来が、この地図ですが……。

最初は「好きな場所の地図を貼ってるんだろうな」と思ったんですよね。駅の近くに城があるから、名古屋か姫路かなと思ったら……。
坂井

「静浜市」という架空の都市です。この街は、どこにも実在しません。
利直


娘のポストがSNSでまさかのバズり。架空都市が結んだ「縁」
幹線道路を中心に発展した街並み、ゆったりと枝分かれし海へと流れる川、歴史を感じさせる城跡、人口増に対応したニュータウン……。どこからどう見ても本物の地図のようだが、これは田中さんがつくり上げた架空の都市・静浜市。中学生のときから描きはじめたという「空想地図」は、年数を重ねるうちにどんどん大きくなっていった。
大学生のときまで、自分の趣味としてコツコツ続けていました。誰かに見せようなんて考えはなくて、実家にずっと置いていたんです。2017年かな、たまたま出張帰りで静岡の実家に寄ったとき「懐かしいな」と見返して。そのまま持ち帰って、妻子に見せたんですよ。
利直

「どこの地図なの?」と聞いたら、「自分で全部考えた」って言うんです。ちょっと意味がわからなくて。
かよ子


――無理もないですね(笑)
地図を見た娘が「これはすごい」とSNSに投稿したところ、拡散されて、地図製作会社の方や空想地図を描いている人と知り合うことができました。2022年にカフェをオープンするときも、いろいろ支援していただいて、ありがたかったですね。
利直


――学生のお二人は空想地図を描いたことあります?
私は中学生ぐらいのとき、ちょくちょく描いてました。生活圏の範囲で、理想の街を想像してましたね。「郵便局じゃなくてコンビニだったら良いのにな」とか、「ここに道路ができたら学校に行きやすいのにな」とか。
坂井

わかります。「自分だったらこうするのに」って、実際の街に対して都市計画を考えちゃいますよね。
利直


私は描いてないです(笑)。もともと、理学療法士になりたくて、ずっと理系だったんです。でも高3のとき、地理の先生の授業がありえないほど面白かったんですよ。語呂合わせをつくるのが好きな先生で、人口の覚え方として「注意愛キスラブナイスですロシアの命日」を教えてくれたりとか。
鈴木

――えっ……なんですって?
それは2021年の世界の人口ランキングですね。1位中国、2位インド、3位アメリカ……で、9位ロシア、10位メキシコ、11位日本。
坂井

話が面白すぎて、ずっと聞いていたいくらい。「この先生みたいになりたい!」と思って、高3の夏に文系に転向しました。すごく反対されましたけど、「地理学びます!」って。
鈴木


――そうだったですね! 田中さんは、いつから地図に興味が?
3歳ぐらいのとき、都道府県のパズルで遊んでいたのが最初。あと、親とのドライブ中に道路地図を眺めるのが好きでした。空想地図も、最初は道路からですね。ミニカーが好きで、街のジオラマをつくって遊んでいたんです。その延長で、ノートの片隅に道路地図を描くようになり、鉄道を通したり、 商業施設を入れたり、街の発展を思い描いていくのが楽しくなりました。
利直


都市の空想は県レベルに発展。存在しない街に流れる『オールナイトニッポン』
――(「静浜市」を眺めながら)改訂を重ね、だいぶ拡張しましたよね……。この街にも、発展した歴史がいろいろあるんでしょうね。
ありますよ。そこに補足資料としてまとめてあるんですが……。
利直

うわっ……静浜市だけかと思ったら、「静浜県」の人口統計までつくっているじゃないですか。
坂井




県の人口が400万人台で、静浜市は130万人の政令指定都市……ということは、福岡よりちょっと小さいくらいの規模なんですね。
坂井

教育機関の電話番号の一覧に、駅前の俯瞰図、市街地の拡大図には交差点名まで……。すごい……。
鈴木

ラジオのAM局とFM局のタイムテーブルも考えていますよ。日本のとある地方という設定なので、『オールナイトニッポン』も流れています。
利直

――これをお1人で……。頭のなかに「県」を丸ごとつくっていたんですね……!

卒業しても、社会人になっても、地理好きが戻ってくるカフェの秘密
空想地図に話で盛り上がるなか、ここで料理を注文。坂井さんは「ペペロン地理―ノ」、鈴木さんは「自家製とろっとろジオムライス」を選ぶ。遊び心を感じるメニュー名は田中さんが名づけたもの。
店の奥でかよ子さんがフライパンを振るうと、ニンニクの良い香りが店内に漂ってきた。ペペロンチーノが完成し、ほどなくして卵がふわふわのオムライスが運ばれてくる。


じつは昨日もここに来てるんです(笑)。毎日食べても飽きないんですよね。
坂井

こんなに卵がふわっふわのオムライス、自分じゃ絶対できないですもん。ケチャップライスもソースもおいしいです!
鈴木


ケチャップライスには、隠し味でショウガを入れています。これは、静岡で喫茶店を営む田中の母が教えてくれたんです。その味に追いつきたくて、調味料とかもいろいろ工夫しているんですけど、まだまだ及ばないですね。 皆さんに気軽に来ていただきたい場所なので、メニューは気取らず食べられるものを。とはいえ、お代をいただくからには、家庭料理にプラスアルファとなるように、飽きない味づけを心がけています。
かよ子


――ほかの地理学科の学生 さんも、よく来てるんですか?
よく来てますね。サークルのメンバーや、他大学の地理サークルの方ともよく会いますし、OBから「そんなカフェがあるなら行きたい!」というリクエストを受けて、貸し切りでOB会を企画したこともあります。
坂井


就職して社会人になってからも来てくれたりね。地図関連の会社に就職した子もいるんですよ。
利直

そうそう、就活して卒業して就職して……というのを見届けて。ちょっと前まで学生だったのに、社会人になって名刺を渡してくれたりすると、やっぱり嬉しいですよね。
かよ子

――成長していく姿がわかりますからね。
仕事やプライベートでちょっと落ち込んだ様子で来る子もいるんです。でも、そんなときでも、「ここに来れば好きな本がある」「好きな地理の話ができる」と思って、足を運んでくれるんですよね。 最初、「早期退職してカフェをやる」という話になったときは、「別に会社を辞めなくても、働きながら趣味としてできないの?」と思ったんです。お店を持つって、簡単なことなことじゃないですから。でも、こうしてお客さんがいつでも来られる空間であるためには、 “つねにそこにある場所”としてお店が必要なんだな、っていまでは思うようになりましたね。
かよ子


駒沢で巡り合う緑と地図の魅力、そして人の温かさ
「空想地図」の壁には、大きな日本地図と関東地方の地図がある。「どこからいらっしゃったのか、お客さんにシールを貼ってもらうんです」と田中さん。色とりどりのシールは、東京近郊はもちろん、北海道から九州まで全国をカバー。ここ から、地理の話が弾むこともあるのだとか。
そのシールの中心にある駒沢は、どんな場所なのだろうか。最後に、駒沢が持つ地理的な魅力と街としての魅力、両方を聞いてみた。

駒沢は「都会と郊外の中間地点」というイメージですね。駅前はほどよく発展しているし、駒沢公園もあるから緑も多いし。
坂井

駒沢を歩くなら、緑道が絶対おすすめです。品川用水跡や蛇崩川緑道(じゃくずれがわりょくどう)など、昔流れていた川にフタをした暗渠(あんきょ)がけっこうあって、それぞれが公園につながっていたりするんです。ランニングしている人をよく見かけるし、子供連れも多くて、ファミリー層が住みやすそう。
鈴木




あと地理的には、起伏があるところが魅力ですね。二子玉川方面に向かえば多摩川の段丘が、渋谷方面に向かえば目黒川と渋谷川の段丘があって、上がったり下がったりする地形が面白いかな。
坂井

――お2人はどうですか?
駒沢公園はたまに行きますね。緑が多くて、連休にはフードフェスが開催されています。街中にはチェーン店だけでなく、私たちのような個人店もけっこうあるのが嬉しいですね。 あとは、人が優しいなと感じます。これまで、まったく縁がなかった土地でお店を開いたわけですが、ご近所の方々がとても親切で、すごく良くしていただいているんですよ。
利直

本当にありがたいですね。街が便利になっていくのも嬉しいですけど、人の温かさみたいなものは、そのままでいてほしいです。人に優しい街であることが一番だと思いますね。
かよ子


田中さん作の「静浜市」の地図には、“駒沢”という地名がある。そこには住宅地と学校があり、実際の駒沢を反映したものかと思いきや、これもまったくの偶然。カフェを計画する前から、そこに描かれていたのだという。
あのとき実家から地図を持ち帰っていなかったら、コロナ禍が訪れていなかったら、駒沢に良い物件がなかったら……。さまざまな「if(もしも)」を乗り越えて、「地理系ブックカフェ空想地図」は駒沢にオープンした。偶然の巡り合わせから始まった縁は、今日も地理好きたちをたしかにつないでいく。
地図や地理が好きな人はもちろん、そうでない人もぜひ、空想地図を訪れてほしい。「静浜市」のスケールは一見の価値あり。 ふわふわとろとろのオムライスも、あなたの心を包み込んでくれるはずだ。

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