東急線沿線の穴場、旗の台の熊本料理店。かつて居酒屋に救われた店主の、縁への思いは店名にも
- 取材・文:榎並紀行(やじろべえ)
- 写真:北原千恵美
- 編集:藤﨑竜介(CINRA)
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東急の大井町線と池上線が乗り入れ、利便性とほどよい下町感で、密かな人気を集める旗の台。駅の東口から商店が立ち並ぶ通りを2分ほど歩くと、住宅街に差し掛かるあたりで「熊本 馬刺し」の提灯が目に入ってくる。
その提灯の主が、2011年に開業した居酒屋 楽縁。熊本を中心に九州の郷土料理と焼酎が味わえるこの店は、子連れの家族も含む、多くの常連客に愛されている。
熊本出身の会社員・中山貴裕さんは10年前、東京出張の折にここを見つけ、何気なく入ってみた。偶然にも、店主の本田貴博さんは同じ熊本の宇土市出身。しかも同じ中学校の卒業生ということから意気投合し、地元の味と温かい店の雰囲気にも惹かれて常連になった。
そんな奇妙な縁を生んだ楽縁だが、じつは店自体も人と人の縁なくしては生まれ得なかったのだという。本田さんと中山さんに2人の出会いと交流、店の歴史、縁を大事にする理由などを聞いた。
同じ中学出身同士で意気投合。「家飲み」するほどの仲に
――中山さんは楽縁に10年前から通っているそうですが、最初に店を訪れたきっかけと、そのときの印象を教えてください。
僕は3年前に地元の熊本から東京に引っ越してきたんですけど、それ以前から出張でこっちに来ることがあって。10年くらい前にたまたまこの近くで仕事があったときに、楽縁を見つけたんです。「熊本 馬刺し」の提灯に惹かれて、ふらっと入ってみたのが最初ですね。
中山



本田さんに「熊本から来たんです」と伝えたら、そこから話が盛り上がって。なんと、僕も本田さんも熊本の宇土市が地元で、しかも同じ中学に通ってい たことが分かったんですよ。3学年離れているので在学時期は重なっていないんですけど、すごい偶然だなと。それから、ちょくちょく足を運ぶようになりました。
中山

名前も同じ「たかひろ」ですしね(笑)。すぐに仲良くなって、店を閉めてから近所のカラオケスナックに飲みに行ったりもしました。熊本出身のお客さんって、じつは意外と少ないんですよ。そのなかでも、ずっと通い続けてくれているのは中山くんくらいですね。
本田


最初のころ、僕以外のお客さんがいないときは早めに店を閉めて、ほかの店をはしごして、最後は本田さんの家にもお邪魔して……みたいなこともありましたよね。
中山

――そこまでお客さんと仲良くなるのって、よくあることなんですか。
そのころは店を始めたばかりで忙しくなかったので、一人ひとりのお客さんとゆっくり会話ができたんですよ。一人で来て、会話を求めているお客さんも多かったですしね。
本田

確かに、昔はこっちが「大丈夫かな?」って心配になるくらい、ずっとお客さんと喋っていましたよね。最近は喜ばしいことに本田さんもお忙しそうなので、僕も一人で静かに飲みながら様子を見守っていたりして(笑)。
中山

ありがとう(笑)。お客さんが増えて昔ほどゆっくり会話できないこともあるのですが、そのぶん、来てくれる人が安心して食事できる空間づくりを頑張りたいと思っています。 正直、オープン当初は困った酔い方をするお客さんも結構いたんですよ。でも、長く店をやっていくうちに、そういう人の見分け方や、やんわりと入店をお断りする術が身についてきました。
本田

本田さんがそこに気を遣っているのは、すごく伝わってきます。実際、この店で酔って問題を起こすような人は見たことがないし、僕自身も嫌な絡まれ方をしたことは一度もありません。 逆に、一人で飲んでいるときに気さくに話しかけてくれるのは、みんな穏やかで楽しい人ばかりです。本田さんがつくってくれる雰囲気の良さも、ここに足を運び続けている理由の一つですね。
中山

九州の甘い醤油じゃないと「馬刺しを食べた気がしない」
そうした雰囲気の良さに加え、楽縁のもう一つの魅力はやはり料理。店主の地元である熊本をはじめ、九州の郷土の味が楽しめる。なかでも中山さんたち常連を虜にするのが看板メニューの馬刺しだ。熊本直送の馬肉を部位まで指定して仕入れ、醤油にもこだわっている。これと熊本の米焼酎を合わせるのが、中山さんの定番だという。
――中山さんは楽縁の料理で、とくに何が好きですか。
やっぱり馬刺しですね。自宅の近所にも馬刺しを出す居酒屋はありますが、食べたくなったときは楽縁まで足を運びます。 馬肉もそうですが、醤油が違うんです。九州の甘い醤油じゃないと、馬刺しを食べた気がしなくて。
中山


それから、もつ鍋もよく注文します。一人前のもつ鍋と馬刺しだけでも、かなり満足感がありますよ。
中山

馬刺し用の赤身は熊本から取り寄せたものです。馬肉の赤身ってわりと固かったり、妙な歯応えが生じたりすることもあるんですけど、うちは一番やわらかい部位を指定して買っています。
本田


東京で食べられる赤身馬刺しの中ではトップクラスの品質だと思います。醤油も熊本から取り寄せていて、中山くんが言うように少し甘めで馬刺しに合うんです。 もつ鍋は3種類あって、スタンダードな醤油ベースとマイルドなごま味噌味、もう1つは「あさり塩もつ鍋」です。
本田

――あさり塩もつ鍋は、楽縁のオリジナルですか。
そうですね。もともとは醤油、味噌だけだったんですけど、もつ鍋って好き嫌いが分かれるじゃないですか。もっと間口を広げたいなと思って、あさり塩もつ鍋をつくったんです。 塩とにんにくで、あさりの酒蒸しやボンゴレのような香りと味に仕上げています。シンプルに、和牛もつの甘みも味わえるんです。
本田


店をオープンできたのは、さまざまな縁のおかげ
楽縁という店名にも表れているとおり、店主の本田さんは何より縁を大切にする男。中山さんたち常連客との縁、一緒に働く従業員との縁、食材の仕入れ先など取引先との縁、そのすべてに感謝しながら店を続けてきた。
そうした考え方には、開店の経緯が大きく影響しているという。
――あらためて、2011年に店をオープンした経緯を教えてください。
原点は、「居酒屋に救われた」ことですね。もともと会社員で営業の仕事をしていましたが、ある時期に上司と折り合いが悪く、気持ちがどんどん滅入ってしまって……。精神的に限界を感じていた時期に、仕事終わりに行く居酒屋が心の救いだっ たんです。 会社を出て、しばらく近くの川をぼーっと眺めてから行きつけの居酒屋に入ってお酒を飲む。当時はその時間だけが、唯一の癒しでした。
本田

――そこから、どう開業につながったのですか。
毎日のように店に通うなかで、小さな店でもうまく運営すれば、ちゃんと収益を出せることがわかってきたんです。営業をやっていて収支の計算とかは得意でしたから、なんとなくわかるんですよね。
本田

――それで、自分でやってみようと考えたと。
はい。ただ最初は、経験も知識もありません。なので、その行きつけの店に「給料はいらないのでお手伝いさせてください!」とお願いして、1年くらい修行させてもらったんです。 その店のマスターが、すごくいい人だったんですよね。突 然の無茶なお願いを、こころよく受け入れてくれて。 最初の半年は会社員との兼業、後半は会社を辞めて居酒屋一本でした。とくに兼業のときは大変でしたね……本業が終わってから深夜1時くらいまで店で働いて、翌朝また会社に出勤する。会社が休みの日は、朝から仕入れや仕込みをやっていました。ひたすら、その繰り返しで……。 ただ、そのとき踏ん張ったからこそいまの楽縁があるのは、間違いありません。
本田


――そのころから、熊本料理の店にしようと思っていましたか。
そうですね。どんな店をやろうかと思ったときに、自分のルーツである熊本が頭に浮かんで、そこからいろいろなことがつながっていきました。 たとえば、焼酎なんかも新規オープンの店はなかなか取引できないような銘柄を最初から置くことができたのですが、それも縁なんです。実兄が熊本で酒の卸売をしていて、その得意先の酒販店がいろいろな焼酎を卸してくれるようになりました。
本田



馬刺しも、地元にいたときに自分が客として利用していた店に連絡をしたら、仕入れ先を紹介してくれて。 店名を「楽縁」にしたのも、縁に助けられて生まれた店だからなんです。
本田

旗の台は、ファミリーにもやさしい穴場エリア
本田さんと中山さんに地元・熊本の魅力を聞くと、口をそろえて「やっぱりホッとする場所」と答える。一方で、本田さんは10年以上暮らし続けている旗の台に対しても、特別な思いを抱いているようだ。
――本田さんも中山さんも宇土市出身で、同じ中学の卒業生ということですが、地元の魅力はどんなところにあると感じますか。
のどかな自然が広がっていて、のんびりしたところで すね。いまはもう東京のスピードにも慣れたけど、地元に帰るとやはりホッとします。 圧倒的に時間の流れがゆっくりだから、すごくリフレッシュできる。せかせかした世界から、いったん逃れられるような感覚があります。「昔は俺たちもこのスピードだったよな」って。
本田

正月とかに実家に帰るんですけど、やっぱり落ち着きます。滞在中は幼馴染や友人たちとずっと飲んでいるので、帰省をすると必ず太りますけどね(笑)。
中山

――ところで本田さんは、長く旗の台に住んでいるんですよね。
店を始めたころからなので、もう13年になります。店に出勤しやすいだけでなく、街自体が魅力的なんです。商店街が充実していて、ほどよい下町感もある。
本田


交通も便利ですよね。羽田へのアクセスが良くて、熊本にも帰りやすいですし。 便利さや住みやすさの割に家賃も手頃で、コスパがいい街だと思います。東急線沿線エリアのなかでも、穴場なんじゃないかなと。 それと、子どもがいる身としては、子育て環境の良さも魅力です。治安がいいですからね。田舎出身の人間からすると、ちょうどいい環境です。
本田

街を歩いていても、みんなあくせくしていないというか。なんとなく、住民の方々の心のゆとりを感じますよね。
中山

今後このエリアが発展していったとしても、いまと変わらずファミリーにやさしい街であってほしいですね。そして楽縁も同じく、そんな家族連れのお客さんたちも安心して過ごせる店であり続けたいと思います。
本田


地元から遠く離れた東京・旗の台で、同じ中学の出身者が出遭うまさかの事態を生んだ店、楽縁。縁に救われ、縁を何より大事にする本田さんの店だからこそ起きた、偶然なのかもしれない。
そんな楽縁の経営理念は「利より縁」。本田さん、そして中山さんら常連客がつくる穏やかで楽しげな雰囲気のなか、これからも新しい縁が生まれていくのではないだろうか。

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